ひょっこり覗いた報告所、目当ての人物がいないことを確認し、思わず無言になった。
中途半端に開け放たれた窓からは、ゆらゆらと吹き込む風が薄いカーテンを揺らしている。
まるで誰かが慌てて飛び出していったかのようなそれに、ふうっと息をついた。
「ないー?」
同じようにドア越しに覗き込むサクヤも首を傾げながらそう口にする。
「いないねぇ」
「う?」
あの日から数日、さっぱりイルカの姿を見かけることができなくなっていた。
薄々感づいてはいたが、どうやら本当に避けられているようだと確信して少しだけ傷ついた。
イルカが受付業務に就いている以上、カカシの任務は全て把握されていると言っても良い。
だからわざと関係ない時間にこうして顔を出しているわけなのだが・・・。
イルカには申し訳ないが、気配を完全に消した上忍の動向を中忍が探れるわけがない。
ということは。
「いー、ないー?」
「・・・お前か・・・」
ガクーっと項垂れたカカシは、サクヤを腕に抱いたまま盛大な溜息を付いた。
どうりで感付かれてばかりのハズ。赤子に気配を消せなどと、無理な注文だ。
「ま、仕方ない・・・か・・」
小さく呟いて、キョトンとした顔をするサクヤの頭を撫ぜた。
「かー」
「なによ?」
「いー、は?」
「・・・・・」
避けられているとは絶対口にしたくなくて、無邪気に問いかける我が子に無言になる。
困ったように眉を寄せたその先に、気の毒そうに首を振るイワシの姿を見つけた。
「あー・・・、イワシくん・・」
「ちわっす。はたけ上忍」
「・・・イルカ先生がどこにいったか知らない?」
「イルカ・・イルカは・・えーっと・・・、書庫、だったかな・・・」
チラチラと目線が泳ぐ。
何ともお茶を濁したようなイワシのセリフに眉を下げた。
この会話もここ数日で何度目だろう。
「あ、っそ・・・。気を使わせてごめんーね」
「いやいやっ! そんなッ!!」
「わしー」
「サク坊。今日も可愛いな〜」
「やぁん」
ぽよぽよの頬を突かれて、サクヤが顔を顰める。
ぷうっと膨れたほっぺたをイワシが楽しげに摘んだ。
「あー・・、どんな感じ?」
「は?」
「・・・・・」
隠されていない方の眉を少しだけ上げて促せば、途端に真面目な顔つきに変わる。
感の良いこの男の事を、カカシはちゃんと評価している。
「まぁ、仕事は普通にこなしてますよ」
「そ」
「ただ・・」
「?」
「あんま眠れてないみたいで」
「・・・・・」
「あいつと、なんかあったんすか?」
じぃっと窺うような視線で見つめられて、思わず苦笑した。
この間の出来事をどう説明しろというのだろう。
「んーまぁ、色々と」
「そっすか」
カカシの曖昧な答えにも、深く追求してこないところがこの男の長所だ。
「でも、このままじゃサク坊も寂しいよなぁ」
「う?」
「・・・早く思い出して貰わねぇと・・」
ボソリと呟かれた意味深なセリフに視線だけをイワシに向けた。
「それって・・」
「ーーーはたけ上忍!」
言葉の意味を探ろうと身を乗り出したところで、自分を呼ぶ声に振り向く。
ピクリと身体を震わせたサクヤの背中を撫ぜながら、首を傾げた。
「ここにいらっしゃいましたか。ーーー五代目がお呼びです」
「んー・・・」
「あの・・、急いでいらっしゃるようでしたが・・・」
何か手がかりが掴めそうなのにと躊躇するカカシだったが、伝達係の急かす声に諦めたように頷いた。
「じゃ、俺は仕事に戻るっす」
「あぁ・・・うん・・」
後ろ髪を引かれる気分で答えると、イワシがニィっと笑い頭を下げた。
「またな、サク坊」
「あう」
「ごめんね。邪魔して」
「いえいえ、お気遣いなく。またいつでもどーぞ」
次はサク坊をどっかに預けて。なんて、ウィンクしながらの返事に思わず笑ってしまう。
言外に示されたヒントに心の中で感謝しながら、カカシは報告書を後にした。
*****
アカデミーの裏庭で、芝生に寝転びながら空を見上げていたイルカは、流れる雲を見つめながら本日幾度目かの長い溜息をついた。
サクヤの気配を感じて報告書を飛び出すこと数回。
たいして忙しくもない時間だからこそ出来る所業だが、そろそろ限界だろう。
避ければ避けるほど、次に会いづらくなるとわかっているのに、ついつい身体が逃げをうってしまう。
だって考えてもみろ。
あんなことをしておいて、どの面下げて顔を合わせればいいんだよ、と。
モヤモヤする気持ちのまま、掴んだ雑草をブチブチと毟った。
「・・・・・」
少し固めの髪に触れて。
吐息がかかるぐらいに顔を寄せあって、カカシの熱や匂いに触れたら、堪らなくなった。
意識より先に身体が先に動いて、気づいた時にはーーー。
ふうっと、溜息また一つ。
・・・驚いた顔をしていた。
そりゃそうだ。
いきなり男にキスなんてされてみろ。
ひくだろ。俺なら絶対ひく。
ひくっていうか、問答無用で殴る。
けれど、・・・戸惑いながらもカカシは応えてくれた。
「やっぱり、戦忍だからか・・・?」
暗部だったし。
なんて思いながらも自己嫌悪に陥って、自らの両手で顔を覆う。
若い頃から内勤だったイルカには経験がないことだが、長期任務地での夜伽の話は同僚から聞きかじったことがある。
記憶を失っているのに、イルカに唇を許した。
その事実に打ちのめされる。
「女に不自由してないくせに、男もなんて」
素顔を晒したカカシの姿を思い出し、ギュッと眼をつぶった。
そりゃあ、あんな顔を見ちまったら男だって平静でいられるわけがない。
イルカに簡単に唇を許したように、里外では男女もろとも片っ端から食いまくっているに違いない。
「・・・節操なし」
ゴチるように罵って、込み上げてくるどす黒い気持ちを何とか抑えようと試みる。
こんなところでウジウジと悩んでいてもしかたがないことぐらいわかっているのに、どうすることもできないで毟った雑草を空中に投げつけた。
「あんのエロ上忍ッ! ・・・俺の平穏だった時間を返せッ!!」
思わずそう叫んだとき。
「おいおい」
頭上から声をかけられて、顔を覆っていた手をどけた。
「・・・イワシ」
「もう帰られたぞ」
「・・・・・」
「ったくよぉ、お前のその頑なさは筋金入りだな」
「・・わりぃ・・・」
「でも、今回はらしくねぇ」
よっと声を掛けながら隣に座り、イルカの結んだ髪を持って引っ張った。
「い、っててっ」
強引に引っ張られて起き上がった先で、呆れたようなイワシが苦笑する。
「何があったか聞かねぇけど、逃げまわってばかりじゃ解決にならないことぐらいお前だってわかってんだろ?」
「・・・まぁ・・」
ごにょごにょと隣で口ごもるイルカの背中を、バーンと容赦なく叩いた。
「子供まで産んじまったくせに、今更悩むなよ」
「・・・それを言うな」
珍事が奇跡に繋がっただけだ。
イワシが面白半分でからかっているわけではないとわかっていても、出来れば口にしてほしくない。
産まれたサクヤの事は心の底から愛してるし、勿論カカシのことだって。
だけど、カカシの記憶が無い今、イルカの気持ちは一人ぼっちで取り残されたままだ。
眉をしかめるイルカに、イワシは真面目な顔をして口を開く。
「・・・話しても良いんじゃねぇか?」
「・・でも・・」
躊躇するイルカの気持ちも分からないではないと思いながらも、イワシはその背中を押す。
「真実を知ったからって、お前を変な眼で見るような人じゃないと思うけどな、俺は」
「・・・・・」
「それはお前が一番良く知ってんだろ?」
真意を問うイワシの言葉に、迷いながらも頷いた。
優しくて強い人だ。
誰よりも哀しい過去を背負っていても、それを飄々とした態度の裏に隠して生きていけるほど。
「思い切って伝えてみろよ」
促すイワシに首を振る。
「イルカ」
「ーーーー怖いんだよ・・」
真実を告げるのが怖い。
たとえカカシが元暗部で、夜伽の名の下、閨の中に男が侍ることを由としていたとしても、それは特殊な環境下にある里外でのことだ。
疎いと言われるイルカだって、里内で同性が睦み合うことを世間は偏見の目で見ることを知っている。
ましてやそれを自分が、だなんて。
記憶を失っている今、カカシはおいそれと認めることが出来るだろうか?
「・・・怖い・・」
立てた膝の上に額を押し付けて、イルカが小さく呟いた。
いつも陽気でサバサバとした友人のそんな姿に言葉をなくす。
それでも、何か言わねばとイワシは膝を抱えたイルカの頭をグリグリと撫ぜた。
「大丈夫だって。お前のことを何とも思ってなかったらそもそもこんな関係にはなってないんじゃねぇか」
子供が出来たと知った時は仰天したもんだが、少なくとも同僚達はなんとなくだが納得してしまったのだ。
「・・・最初に手を出されたのは、女体化してる時だった」
「・・・・・」
そういやそうだった。ちと墓穴をほったか。
「それまでは、いい呑み友達みたいな関係だったのに」
「・・・・・・」
いや、生々しい話はいいぞ。
それ以上の話は聞きたくないと口元をひくつかせながらイワシは少しだけ距離をとる。
「・・・結局あの人、俺が女の身体だったから手を出したんじゃないかって・・」
「で、でもよ。・・・その・・、女体化してなくても・・」
「それはまぁ・・」
「いや! いい。話すな」
慌てて遮ったイワシに、抱えた腕の中から少しだけ顔を覗かせたイルカが、溜息混じりに口を開いた。
「・・・わりぃ・・聞きたくねぇよな・・・」
それが普通の人の考え方だと知ってる。
イルカだとて、こんなことになる前はそう思っていたのだから。
「違うぞっ! 俺はたとえお前が嫁さん貰ってたって、夜の営みの話は聞きたくねぇ」
「嘘つけ。下ネタ好きなくせに」
「知りあいのシモの話は勘弁っ!」
「んだよそれ」
ぷっと吹き出すイルカに少しだけ安心して、ゆっくりと立ち上がった。
「ま、あんま考えんなよ」
「そだな」
「サク坊だってこのままじゃ可哀想だぜ」
「・・・・・」
「離れたくねぇんだろ?」
イワシの言葉に頷いた。
離れたくないし、離したくない。
ならば、気持ち悪がられても嫌われても、カカシに事実を告げるしかない。
「ありがとな。イワシ」
「今度おごれ」
「やけ酒かもしんねーぞ」
「そんときゃ俺が奢ってやらぁ」
死ぬほど呑めと笑うイワシに、イルカも思わず声をあげて笑った。
*****
「具合はどうだ?」
呼びつけられた火影室。
挨拶もそこそこに、五代目火影が唐突にそう尋ねた。
「至って普通ですが・・・解術方法がわかったんじゃないんですか?」
「いや」
即答されてうなだれた。
伝達係の急かす様子から、もしやと思ってきたものの、とんだぬか喜びだったわけだ。
「頭はともかく身体は?」
「もう何時でも任務に就けますよ」
むしろ鈍ってるぐらいだ。
このままアカデミーの演習ばかりに付き合っていては勘も鈍る。
「里としても、お前をいつまでも遊ばせておくわけにもいかないしな」
「相変わらず人使いが荒い」
「そういうな。解術にはまだ時間がかかりそうだが、何の術かは見当がついた」
「はぁ」
ついつい気のない返事をしてしまう。
たかが二、三年の記憶ぐらいどうでも良いことだと思うものの、さすがに子供の母親については気になるか。
「最も幸せだった記憶を奪うもの」
「・・幸せ・・・ですか」
ボソリと、零れるように呟かれた言葉に、苦笑した。
幸せ。
自分には一番縁遠い言葉だ。
「かー」
「んー・・?」
ぺとぺとと頬を触るサクヤが心配そうに見上げるのに、笑いながら背中を撫ぜた。
「ところで、イルカとは会っているのか?」
「それが・・、ここ数日は会えなくて」
「なんだ。嫌われたか」
「酷いな、綱手様。この間一緒に呑みましたよ」
からかう言葉を即座に否定し、ニヤニヤと笑みを浮かべる綱手に憮然としながらも、何を慌てているんだと心の中で一人ごちる。
「まぁ、子供も世話になってるんだ。疎遠にはなるな」
「はぁ」
「もう行っていい。解術方法が分かり次第連絡する」
「ご面倒おかけします」
「構わん」
頭を下げ、部屋を後にするカカシを見ながら、綱手はゆっくりと背もたれに身体を投げ出し、傍に控えるシズネへと視線を投げる。
「解術の進行具合は?」
「今しばらくかかるかと・・」
「ふむ。・・・さて、どうしたもんかねぇ」
根っからの忍びで、里の為に命を投げ打つことに何の躊躇もない。
言葉は悪いが、イルカとサクヤはそんなカカシを繋ぐ枷だ。
しかし。
三人でいる時のカカシの穏やかな顔を思い出す。
「あの幸せそうな顔を守ってやりたいと思うのが、火影ってもんじゃないか?」
笑みを浮かべながらそう呟く綱手の声は、室外へと姿を消したカカシに向けて優しく響いた。
中途半端に開け放たれた窓からは、ゆらゆらと吹き込む風が薄いカーテンを揺らしている。
まるで誰かが慌てて飛び出していったかのようなそれに、ふうっと息をついた。
「ないー?」
同じようにドア越しに覗き込むサクヤも首を傾げながらそう口にする。
「いないねぇ」
「う?」
あの日から数日、さっぱりイルカの姿を見かけることができなくなっていた。
薄々感づいてはいたが、どうやら本当に避けられているようだと確信して少しだけ傷ついた。
イルカが受付業務に就いている以上、カカシの任務は全て把握されていると言っても良い。
だからわざと関係ない時間にこうして顔を出しているわけなのだが・・・。
イルカには申し訳ないが、気配を完全に消した上忍の動向を中忍が探れるわけがない。
ということは。
「いー、ないー?」
「・・・お前か・・・」
ガクーっと項垂れたカカシは、サクヤを腕に抱いたまま盛大な溜息を付いた。
どうりで感付かれてばかりのハズ。赤子に気配を消せなどと、無理な注文だ。
「ま、仕方ない・・・か・・」
小さく呟いて、キョトンとした顔をするサクヤの頭を撫ぜた。
「かー」
「なによ?」
「いー、は?」
「・・・・・」
避けられているとは絶対口にしたくなくて、無邪気に問いかける我が子に無言になる。
困ったように眉を寄せたその先に、気の毒そうに首を振るイワシの姿を見つけた。
「あー・・・、イワシくん・・」
「ちわっす。はたけ上忍」
「・・・イルカ先生がどこにいったか知らない?」
「イルカ・・イルカは・・えーっと・・・、書庫、だったかな・・・」
チラチラと目線が泳ぐ。
何ともお茶を濁したようなイワシのセリフに眉を下げた。
この会話もここ数日で何度目だろう。
「あ、っそ・・・。気を使わせてごめんーね」
「いやいやっ! そんなッ!!」
「わしー」
「サク坊。今日も可愛いな〜」
「やぁん」
ぽよぽよの頬を突かれて、サクヤが顔を顰める。
ぷうっと膨れたほっぺたをイワシが楽しげに摘んだ。
「あー・・、どんな感じ?」
「は?」
「・・・・・」
隠されていない方の眉を少しだけ上げて促せば、途端に真面目な顔つきに変わる。
感の良いこの男の事を、カカシはちゃんと評価している。
「まぁ、仕事は普通にこなしてますよ」
「そ」
「ただ・・」
「?」
「あんま眠れてないみたいで」
「・・・・・」
「あいつと、なんかあったんすか?」
じぃっと窺うような視線で見つめられて、思わず苦笑した。
この間の出来事をどう説明しろというのだろう。
「んーまぁ、色々と」
「そっすか」
カカシの曖昧な答えにも、深く追求してこないところがこの男の長所だ。
「でも、このままじゃサク坊も寂しいよなぁ」
「う?」
「・・・早く思い出して貰わねぇと・・」
ボソリと呟かれた意味深なセリフに視線だけをイワシに向けた。
「それって・・」
「ーーーはたけ上忍!」
言葉の意味を探ろうと身を乗り出したところで、自分を呼ぶ声に振り向く。
ピクリと身体を震わせたサクヤの背中を撫ぜながら、首を傾げた。
「ここにいらっしゃいましたか。ーーー五代目がお呼びです」
「んー・・・」
「あの・・、急いでいらっしゃるようでしたが・・・」
何か手がかりが掴めそうなのにと躊躇するカカシだったが、伝達係の急かす声に諦めたように頷いた。
「じゃ、俺は仕事に戻るっす」
「あぁ・・・うん・・」
後ろ髪を引かれる気分で答えると、イワシがニィっと笑い頭を下げた。
「またな、サク坊」
「あう」
「ごめんね。邪魔して」
「いえいえ、お気遣いなく。またいつでもどーぞ」
次はサク坊をどっかに預けて。なんて、ウィンクしながらの返事に思わず笑ってしまう。
言外に示されたヒントに心の中で感謝しながら、カカシは報告書を後にした。
*****
アカデミーの裏庭で、芝生に寝転びながら空を見上げていたイルカは、流れる雲を見つめながら本日幾度目かの長い溜息をついた。
サクヤの気配を感じて報告書を飛び出すこと数回。
たいして忙しくもない時間だからこそ出来る所業だが、そろそろ限界だろう。
避ければ避けるほど、次に会いづらくなるとわかっているのに、ついつい身体が逃げをうってしまう。
だって考えてもみろ。
あんなことをしておいて、どの面下げて顔を合わせればいいんだよ、と。
モヤモヤする気持ちのまま、掴んだ雑草をブチブチと毟った。
「・・・・・」
少し固めの髪に触れて。
吐息がかかるぐらいに顔を寄せあって、カカシの熱や匂いに触れたら、堪らなくなった。
意識より先に身体が先に動いて、気づいた時にはーーー。
ふうっと、溜息また一つ。
・・・驚いた顔をしていた。
そりゃそうだ。
いきなり男にキスなんてされてみろ。
ひくだろ。俺なら絶対ひく。
ひくっていうか、問答無用で殴る。
けれど、・・・戸惑いながらもカカシは応えてくれた。
「やっぱり、戦忍だからか・・・?」
暗部だったし。
なんて思いながらも自己嫌悪に陥って、自らの両手で顔を覆う。
若い頃から内勤だったイルカには経験がないことだが、長期任務地での夜伽の話は同僚から聞きかじったことがある。
記憶を失っているのに、イルカに唇を許した。
その事実に打ちのめされる。
「女に不自由してないくせに、男もなんて」
素顔を晒したカカシの姿を思い出し、ギュッと眼をつぶった。
そりゃあ、あんな顔を見ちまったら男だって平静でいられるわけがない。
イルカに簡単に唇を許したように、里外では男女もろとも片っ端から食いまくっているに違いない。
「・・・節操なし」
ゴチるように罵って、込み上げてくるどす黒い気持ちを何とか抑えようと試みる。
こんなところでウジウジと悩んでいてもしかたがないことぐらいわかっているのに、どうすることもできないで毟った雑草を空中に投げつけた。
「あんのエロ上忍ッ! ・・・俺の平穏だった時間を返せッ!!」
思わずそう叫んだとき。
「おいおい」
頭上から声をかけられて、顔を覆っていた手をどけた。
「・・・イワシ」
「もう帰られたぞ」
「・・・・・」
「ったくよぉ、お前のその頑なさは筋金入りだな」
「・・わりぃ・・・」
「でも、今回はらしくねぇ」
よっと声を掛けながら隣に座り、イルカの結んだ髪を持って引っ張った。
「い、っててっ」
強引に引っ張られて起き上がった先で、呆れたようなイワシが苦笑する。
「何があったか聞かねぇけど、逃げまわってばかりじゃ解決にならないことぐらいお前だってわかってんだろ?」
「・・・まぁ・・」
ごにょごにょと隣で口ごもるイルカの背中を、バーンと容赦なく叩いた。
「子供まで産んじまったくせに、今更悩むなよ」
「・・・それを言うな」
珍事が奇跡に繋がっただけだ。
イワシが面白半分でからかっているわけではないとわかっていても、出来れば口にしてほしくない。
産まれたサクヤの事は心の底から愛してるし、勿論カカシのことだって。
だけど、カカシの記憶が無い今、イルカの気持ちは一人ぼっちで取り残されたままだ。
眉をしかめるイルカに、イワシは真面目な顔をして口を開く。
「・・・話しても良いんじゃねぇか?」
「・・でも・・」
躊躇するイルカの気持ちも分からないではないと思いながらも、イワシはその背中を押す。
「真実を知ったからって、お前を変な眼で見るような人じゃないと思うけどな、俺は」
「・・・・・」
「それはお前が一番良く知ってんだろ?」
真意を問うイワシの言葉に、迷いながらも頷いた。
優しくて強い人だ。
誰よりも哀しい過去を背負っていても、それを飄々とした態度の裏に隠して生きていけるほど。
「思い切って伝えてみろよ」
促すイワシに首を振る。
「イルカ」
「ーーーー怖いんだよ・・」
真実を告げるのが怖い。
たとえカカシが元暗部で、夜伽の名の下、閨の中に男が侍ることを由としていたとしても、それは特殊な環境下にある里外でのことだ。
疎いと言われるイルカだって、里内で同性が睦み合うことを世間は偏見の目で見ることを知っている。
ましてやそれを自分が、だなんて。
記憶を失っている今、カカシはおいそれと認めることが出来るだろうか?
「・・・怖い・・」
立てた膝の上に額を押し付けて、イルカが小さく呟いた。
いつも陽気でサバサバとした友人のそんな姿に言葉をなくす。
それでも、何か言わねばとイワシは膝を抱えたイルカの頭をグリグリと撫ぜた。
「大丈夫だって。お前のことを何とも思ってなかったらそもそもこんな関係にはなってないんじゃねぇか」
子供が出来たと知った時は仰天したもんだが、少なくとも同僚達はなんとなくだが納得してしまったのだ。
「・・・最初に手を出されたのは、女体化してる時だった」
「・・・・・」
そういやそうだった。ちと墓穴をほったか。
「それまでは、いい呑み友達みたいな関係だったのに」
「・・・・・・」
いや、生々しい話はいいぞ。
それ以上の話は聞きたくないと口元をひくつかせながらイワシは少しだけ距離をとる。
「・・・結局あの人、俺が女の身体だったから手を出したんじゃないかって・・」
「で、でもよ。・・・その・・、女体化してなくても・・」
「それはまぁ・・」
「いや! いい。話すな」
慌てて遮ったイワシに、抱えた腕の中から少しだけ顔を覗かせたイルカが、溜息混じりに口を開いた。
「・・・わりぃ・・聞きたくねぇよな・・・」
それが普通の人の考え方だと知ってる。
イルカだとて、こんなことになる前はそう思っていたのだから。
「違うぞっ! 俺はたとえお前が嫁さん貰ってたって、夜の営みの話は聞きたくねぇ」
「嘘つけ。下ネタ好きなくせに」
「知りあいのシモの話は勘弁っ!」
「んだよそれ」
ぷっと吹き出すイルカに少しだけ安心して、ゆっくりと立ち上がった。
「ま、あんま考えんなよ」
「そだな」
「サク坊だってこのままじゃ可哀想だぜ」
「・・・・・」
「離れたくねぇんだろ?」
イワシの言葉に頷いた。
離れたくないし、離したくない。
ならば、気持ち悪がられても嫌われても、カカシに事実を告げるしかない。
「ありがとな。イワシ」
「今度おごれ」
「やけ酒かもしんねーぞ」
「そんときゃ俺が奢ってやらぁ」
死ぬほど呑めと笑うイワシに、イルカも思わず声をあげて笑った。
*****
「具合はどうだ?」
呼びつけられた火影室。
挨拶もそこそこに、五代目火影が唐突にそう尋ねた。
「至って普通ですが・・・解術方法がわかったんじゃないんですか?」
「いや」
即答されてうなだれた。
伝達係の急かす様子から、もしやと思ってきたものの、とんだぬか喜びだったわけだ。
「頭はともかく身体は?」
「もう何時でも任務に就けますよ」
むしろ鈍ってるぐらいだ。
このままアカデミーの演習ばかりに付き合っていては勘も鈍る。
「里としても、お前をいつまでも遊ばせておくわけにもいかないしな」
「相変わらず人使いが荒い」
「そういうな。解術にはまだ時間がかかりそうだが、何の術かは見当がついた」
「はぁ」
ついつい気のない返事をしてしまう。
たかが二、三年の記憶ぐらいどうでも良いことだと思うものの、さすがに子供の母親については気になるか。
「最も幸せだった記憶を奪うもの」
「・・幸せ・・・ですか」
ボソリと、零れるように呟かれた言葉に、苦笑した。
幸せ。
自分には一番縁遠い言葉だ。
「かー」
「んー・・?」
ぺとぺとと頬を触るサクヤが心配そうに見上げるのに、笑いながら背中を撫ぜた。
「ところで、イルカとは会っているのか?」
「それが・・、ここ数日は会えなくて」
「なんだ。嫌われたか」
「酷いな、綱手様。この間一緒に呑みましたよ」
からかう言葉を即座に否定し、ニヤニヤと笑みを浮かべる綱手に憮然としながらも、何を慌てているんだと心の中で一人ごちる。
「まぁ、子供も世話になってるんだ。疎遠にはなるな」
「はぁ」
「もう行っていい。解術方法が分かり次第連絡する」
「ご面倒おかけします」
「構わん」
頭を下げ、部屋を後にするカカシを見ながら、綱手はゆっくりと背もたれに身体を投げ出し、傍に控えるシズネへと視線を投げる。
「解術の進行具合は?」
「今しばらくかかるかと・・」
「ふむ。・・・さて、どうしたもんかねぇ」
根っからの忍びで、里の為に命を投げ打つことに何の躊躇もない。
言葉は悪いが、イルカとサクヤはそんなカカシを繋ぐ枷だ。
しかし。
三人でいる時のカカシの穏やかな顔を思い出す。
「あの幸せそうな顔を守ってやりたいと思うのが、火影ってもんじゃないか?」
笑みを浮かべながらそう呟く綱手の声は、室外へと姿を消したカカシに向けて優しく響いた。
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