6

 まさか家に帰るのが、こんなに億劫になるとは思わなかった。
 火照った身体を引きずって、トボトボと進む足取りが重い。
 いっそどこかで食事でもして帰ろうかと思ったが、それが問題を先送りにするだけではなく、また別の厄介事を引き起こすだけだと思い直す。イルカは一歩また重い足を進めた。
 鞄に詰め込んだ教材がずしりと肩に食い込み、のろのろとした歩みが更に遅くなる。家に近づくたびに呼吸が荒くなっているのは、カカシが言うように発情期が近いからだ。
 また流されちまうのかなぁ。
 イルカはがくりと肩を落として立ち止まった。
 もともと効きが悪くなっていた抑制剤だが、カカシと住むようになってからはその効力を失ったようだ。周期こそ狂っていないものの、最初のときのように煽られるとあっという間に発情してしまう。
 『相性が良いんでしょ』
 そう言ってニヤリと笑ったお綺麗な顔を思い出し、人の気も知らないで勝手なことを言うなと心のなかで反論する。
 「くそ…、カカシさんを休まさなきゃけないんだから、ちゃんと効けよ…っ」
 イルカは鞄の中から薬を取り出すと、ガリガリと歯で噛み砕いて飲みこんだ。
 だけど、悔しいかなカカシの匂いに包まれていると、狂おしいほどの熱情と同時に安堵を覚えるのは確かだ。独り寝の夜、知らぬ間にカカシが脱ぎ捨てた支給服を抱いて寝ていたときは、その無自覚さに心底ゾッとしたものだった。
 あのときは、カカシさんにバレないようにすぐに洗ってクローゼットに戻せたから良かったけれど。
 忌々しげに首を振り、玄関先で立ち止まる。ドアノブに手をかけようとして躊躇していると、気配を察したカカシに出迎えられてしまった。
 「おかえり」
 そういえば、受付でカカシにおかえりとは言わなかった。
 挨拶は基本だなんて子供たちに教えているくせに、自分が疎かにしてどうするんだよ。
 「………ただいま」
 開放的な部屋から漏れる暖かな光と、強烈に感じるカカシの匂い。
 気休め程度の薬に頼るのは早々に諦めて、チャクラを総動員して体温を下げる。人気を感じないからといえど、ここは上忍専用住居だ。玄関先で盛っているなんて知られた日には羞恥心で死ねる。
 玄関先で立ちすくんだイルカに、カカシが不審げに首を傾げた。
 「入らないの?」
 「……」
 促されるままイルカは無言で靴を脱ぎ、肩に食い込んだ鞄を下ろす。カカシがそれを片手で掴んでリビングへと運んでいった。
 「一応簡単な食事は用意しておいたけど、先に風呂にする?」
 長期任務帰りの上忍を休ませるどころか飯を作らせ、挙げ句風呂まで沸かしてもらうなんて、カカシに心酔している者たちが知ったらどんな目に合わされるか。想像しただけでも身の危険を感じる。
 「飯にします」
 「温めなおすから先に座ってて」
 どうやらイルカを待ってくれていたらしい。脱いだベストを掛け、額当てをはずす。開放感からふうっと息を吐いたイルカの足先に、いかつい犬が鼻を擦り付けてきた。
 「ブル……」
 いつもはいない大型犬を口寄せしたことを思うと、受付での一件はどうやらカカシも気まずかったとみえる。案外気の弱いところもあるんだなとほくそ笑みながら、イルカは言われたとおりに食事が並べられるのを座って待った。
 「本当に簡単だけどね」
 「ありがとうございます」
 一人のときの食事はもっぱらラーメンか鍋のイルカと違って、カカシはそこそこ料理をしていたらしい。ここへ越してきてから、せめて食事くらいはとイルカが担当していたが、カカシが里へ戻っているときはこうして何度か作ってくれていた。
 「サンマが安かったから、今日はサンマ定食風にしてみました」
 「美味しそうです」
 「実はサンマが好物なんですよね」
 「へぇっ!」
 「そんなに驚くこと?」
 以外に庶民的だと口にしたイルカに、カカシが心外だという顔をする。味噌汁の具はとろっとろにとろけた茄子。これは冷蔵庫に常備されているので、多分好きなんだろうなと思っていた。
 「いただきます」
 手を合わせ、脂ののったサンマにすだちを絞った大根おろしを添えてかぶりつく。柑橘系の爽やかな香りとともに、サンマの脂がじゅわっと口の中に溢れてくる。旨い。さすがにサンマ好きを公言するだけあって、目利きは確かなようだった。付け合せは冷奴にタコの酢の物。シンプルだけどこういう料理が一番旨いというのは本当なのかも知れない。イルカは受付でのわだかまりも忘れて舌鼓を打った。
 「めっちゃくちゃ旨いです」
 「良かった。ご飯はおかわりがあるから、たくさん食べて」
 カカシがニコニコと笑って、あっという間に空っぽになった茶碗に米をよそってくれる。漬物まで旨いなんて、このままじゃ言われるままにいくらでも食べてしまいそうだった。
 「はぁ、腹いっぱい。ごちそうさまでした」
 イルカがじんわりと膨れた腹を擦ってソファにもたれかかったのは、それから茶碗三杯も米を平らげた後だった。
 「お粗末さまでした」
 「……俺、カカシさんと暮らしてから多分太りましたよ」
 「そうなの?」
 「そうですよ。確かに食事内容は健康的なんですけど、食材は良いし、なんてったって旨いから」
 「ラーメンは週三回にしましたしねぇ」
 「ぐ、それは……」
 「バレていないと思っていたんですか」
 思っていました。とは言えなくて、素知らぬ顔でそっぽを向いた。片付けを終えたカカシが戻ってくると、イルカの隣へと腰掛ける。さり気なく肩を抱かれて、こてんと頭をカカシへと傾けた。
 「少しおさまってますよね。薬を飲みました? それともチャクラで抑えているのかな」
 両方です。と答えるまえに、唇が耳朶に押し付けられた。
 「あぁ、でもココは匂いが濃い」
 鼻先が項に触れる。スンッと匂いを嗅がれると、背筋をゾクゾクしたものが走り抜けた。
 「わ……っ」
 思わず身を引いたイルカを逃すまいと、カカシが肩を抱いた腕に力を込めた。
 「逃げないで」
 「でも、風呂にも入っていないから」
 「気にしないけど」
 「お、俺は気になります」
 「………オーケー」
 子供みたいに唇を尖らせたカカシが、しょうがないとばかりに拘束から解放する。
 「じゃあ、話は風呂から上がってきてからにしましょうか」
 やはり、受付でのやり取りを有耶無耶にはしてくれないらしい。いってらっしゃいと手をふるカカシに思い切りしかめ面を返して、イルカはいそいそと浴室へと向かった。





 風呂に入っている間に疲れて眠っていてくれないかな、なんて密かに願っていたけれど、どうやら世界はイルカの願い通りとははいかないようだ。
 ぼんやりとテレビを見ているカカシに、イルカはわずかに口元を引きつらせた。
 「先に寝ててもらってもよかったのに」
 「そういうわけにはいかないでしょ」
 何がそいういうわけにはいかないだ。さっさと休め。それでなきゃ俺の苦労が台無しじゃないか。
 こっちへ来いと手招きされて、イルカは渋々カカシの隣へと腰をおろした。
 「これでも先生の周期に合わせられるように調整しているんだから」
 番でもないのにここまで協力的なカカシに感謝の言葉でも述べるべきなのだろうが、本当のところはやりたいだけじゃないのかと勘ぐってしまう。
 いや、それはないか。
 いくらイルカがオメガだと言っても、やっぱり女の体のほうが柔らかくて良いに決まってる。そもそもモテすぎて困っていると言っていたぐらいだから、そういったことに苦労しているとは思わないし。
 「せんせ?」
 「……べつに俺は、カカシさんが里にいないほうが良いなんて思っていないですから」
 「へぇ」
 「そりゃ、気楽な一人暮らしから比べたらたまに不自由だと感じることはありますけど」
 「ベッドがひとりじめできなかったり?」
 「それはまぁ、ちょっと」
 「思ったんですかっ!?」
 いつになく大げさに慌てたカカシに、思わず吹き出した。
 節くれだった指が湿った髪を掻き分け、頬を包む。コツンっと額をぶつけれられた。
 「依頼の件も、ちゃんと相談しようと思っていたのに、カカシさんがあんなところで遮るから」
 「あ~」
 真剣に話しているのに、頬や鼻先にキスするのはやめてほしい。いつの間にか足の間に抱えられて、ごろりとソファに仰向けになった。
 「チャクラ練らなくていいですよ」
 「え?」
 「もっと先生の匂いかぎたい」
 羽交い締めにされ鼻先を首に埋められる。匂いを嗅ぐついでに首筋を舌で舐め上げられて、イルカはソファの上でジタバタと暴れた。
 「やっ…ちょっ……、やめ……」
 「発情しちゃうから?」
 ふざけんな。
 ニヤついたお綺麗な顔を押しのけようとして、圧倒的な力の差で逆に押さえつけられた。
 「もう少しだけ。お願い」
 「………」
 抱える腕や引き締まった身体。いつもは隠されている口布の下の素顔は、白い肌と通った鼻筋。薄い唇。それからその下にあるホクロ。キラキラ光る銀髪から覗く睫毛だって銀色だ。実のところ、カカシの整った顔はイルカの好みど真ん中だった。そんな顔で強請られて、断れる人間がいるだろうか。
 「カカシさんって、変わっていますよね」
 「そう?」
 どう贔屓目に見たって、イルカの顔は十人並みだ。階級だって中忍で内勤だし、身体もたぶんそれほど鍛えられてはいないと思う。それに、オメガといえど正真正銘男だ。男を抱こうと思えるなんて、随分奇特な人だと思う。
 戦忍って変わり者が多いって聞くけれど、本当だったんだな。
 ぼんやりと考えていたイルカは、集中しろとばかりに項に歯をたてられて、ビクリと身体を震わせた。
 「や、め」
 「……大丈夫。咬まないよ」
 首筋から、くぐもった声が聞こえた。
 襟足をチロチロと舌で擽られて、思わず声を詰まらせる。イルカは回した指先でカカシの背に縋った。
 「んぅ」
 焦れったい刺激を受け続けていると、身体の中にあるしこりが熱で溶けて溢れてくるような感覚が生まれてくる。抵抗するために強張っていた身体が、カカシの愛撫でゆっくりと解けていく。立ち上る芳香は強くなるばかりで、イルカはカカシの腕の中でビクビクと身体を震わせた。
 「は……、もう……」
 「ベッドに行く?」
 耳元で囁かれて、カカシにしがみつきながらコクコクと頷いた。
 軽いリップ音を鳴らしてカカシがゆっくりとイルカから離れていく。不意に訪れた喪失感。服の裾を掴んだイルカを、カカシが笑いながら抱きかかえた。
 「つかまって」
 優しく支えてくれる腕に、火照った頬を擦り付ける。もう身体に染み付いてしまったのだろうか。カカシの匂いが心地良いとさえ感じる。
 イルカは口の中に溜まった唾液を、ごくりと喉を上下させて飲み込んだ。
 ジリジリと焦らされ続けた身体が熟れて崩れていくようだ。
 「……カカシさ……」
 カカシのたくましい腕が今にも砕けそうになる腰を支えた瞬間、後ろからどろりと溢れたものにイルカは顎骨を食いしめてカカシの肩口へと唇を押し付けた。
 このアルファが欲しいという本能の前では、理性なんて敵うわけがない。
 「我慢しなくていいよ」
 そう告げられた瞬間、世界が反転する。わずかに開いたカーテンの隙間から、大きな丸い月が覗いているのが見えた。



 「アァッ!!」
 優しく触れ合うだけだった性交は、時間が経つにつれてイルカが本格的なヒートを迎えたことにより次第に激しいものへと変わっていった。
 もうどれぐらい繋がりあったのだろうか。天井とシーツがぐるぐると入れ変わり、泣きはらした目は腫れて視覚さえもおぼつかなくなっていった。水の中にでもいるようなこもった声でカカシがなにか言っているのに、はっきりと聞き取れない。わからなくて首を振れば、ぼんやりと霞む視界の中でカカシが少し悲しそうな顔をするのが見えた。
 どうして。
 そんな顔をしているのだろう。
 あぁ、でもそんなことはどうでもいい。
 体内に埋め込まれた熱いものがまた腹を圧迫し、大きくて息が詰まりそうになる。
 気持ちがいいのに苦しい。
 『アルファの瑠は、射精のときに種が溢れないように栓の役目をするんですよ』
 いつかの夜にカカシがそんなことを言っていた。ぐっと質量をましたモノが、窄まりの皺をすべて伸ばしきるかのように膨れていくのがわかる。
 ───……くる。
 体内で叩きつけるように跳ねる性器に、イルカは身体を震わせながら目の前の男にしがみついた。
 項に体中の熱がすべて集まったみたいに、ピリピリとした痺れが走る。
 咬まないで。
 ……咬んで。
 いやだ。
 どうして。
 咬まないで……ッ!
 何度もうわ言のように繰り返し、滑らかな項を手でなぞってはどうして咬まないのかと詰った。
 幾日もの昼と夜が訪れ、去っていく。
 イルカが最後に覚えていたのは、やはりカカシの悲しそうな顔だった。
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