壁が薄く人通りの多い中忍寮とは違い、カカシの部屋がある上忍専用のマンションは日中でさえ街の喧騒が聞こえてこないほど静かだ。もしかしたら部屋の周りには誰も住んでいないのかもしれない。そんな事を疑ってしまうくらい人気を感じない静かな部屋で、イルカはぼんやりと白い天井を見上げた。そういえば、ここに引っ越してきたときは、あまりの静けさにうっかり寝過ごしそうになったっけ。
そんな事を思い出して笑ってしまった。
清潔なシーツの匂いと、身体を包む質のいい部屋着の感触。再びうとうとと微睡みそうになって、イルカはごろりと寝返りをうった。
そういえば、いまは何時だろう。
ぼんやりとそんな事を考えて、カーテンの隙間から注ぐ日差しの鋭さにぎょっとした。
「うそだろ……やば……ッ」
寝過ごしたなんてもんじゃない!
「イ──、テ……ッ!」
飛び起きたイルカの喉からは、ガラガラとしわがれた声と咳が漏れた。甘怠い身体とは反対に、腹筋や内腿、股関節の骨がひどく軋む。
それに、アソコの感覚がない……。
何があったかなんて一目瞭然。忘れたい記憶が蘇ってきて、イルカは飛び起きたシーツに再び突っ伏した。
いったい何があったのか?
そんなことは考えなくても身体が知っている。
カカシに煽られて発情し、欲望のままに精を貪ったのだ。記憶の中に薄っすらと残る己の淫らな言葉や痴態の数々に、イルカは口を覆ってなんとか叫ぶのをこらえた。
最悪。
最悪だ。
まさか、ヒートで自分があそこまで乱れるなんて思わなかった。
「……どうしよ……」
思い出すだけでも胸に苦いものがこみ上げてくる。あんな醜態ををさらしておいて、これからあの男とどうやって顔を合わせろというのか。
「む、起きていたのか」
カチャリ。扉が開く音に慌てて顔を上げれば、ベッドの縁へチョコンとちいさな足が飛び出して来た。ついで、シワだらけの気難しそうな顔が覗く。
「具合はどうじゃ」
「……犬……?」
そういえば、カカシは八匹の忍犬を使役する忍犬使いだと噂で聞いたことがある。その中には人語を解する犬もいるとか。とすると、この犬はそのうちの一匹というわけだが。
「えっと……」
「拙者の名はパックンという」
いかつい顔からは想像もできないネーミングに戸惑う間も、それを名付けたであろうカカシのセンスを疑う暇もなく、フンっと指先に鼻息が掛かる。パックンがベッドの上へと飛び乗ってきた。
へたり込んだイルカの指先に、ぺとりと鼻先を押しつけ、
「熱はなさそうじゃが、痛むところは無いか?」
「…………」
「どうした。さっさと答えんか」
鷹揚に言い放つ忍犬に、イルカはギクシャクと自らの身体を摩り大丈夫だと頷いた。
「あの、カカシさんは?」
「任務に出た。食事は用意してあると言っていたが、腹はへっとらんか?」
飯と聞いてぐうぅと腹の虫が鳴る。イルカはそろりと足をベッドから下ろすと、立ちあがろうとして床にヘタリ込んだ。下肢に力が入らない。
「まったく、無茶をしよって」
まるで子供に言うような呆れた声。パックンが隣室へむけて小さく吠えると、扉の隙間からいかつい首輪をした大型犬が顔を出した。大きさは、大人と変わらないのではないだろうか。のそりとイルカの側までやってくると、掴まれとばかりに姿勢を低くする。イルカは足元をふらつかせながら大型犬を支えに立ちあがった。
だだっ広いダイニングに差し込んだ温かい日差しに、もぐらみたいに目を瞬かせて冷たい水で顔を洗う。色んなもので汚れているはずの身体はカカシが綺麗に拭ってくれたらしい。そんなことまであの男にさせたのかと思ったら、感謝するより先に恥ずかしさがこみ上げてくる。
カラカラに乾いた口をすすぎ、歯を磨くと少し頭がスッキリとした気がした。
乱れた髪を整え、いつものように頭の天辺ではなく後ろでゆるく結ぶ。鏡に映るのは荒淫に乱れた情けない顔で、イルカはいたたまれずに鏡から顔をそらした。
ダイニングにもどると、パックンが大型犬と共に机の側で待っていてくれた。
机の上には焼き魚と青菜の和え物に納豆が用意されており、明日まで休暇申請届を提出した旨を書いた短い書き置きに目を通した。
イルカは味噌汁を温め直し、ご飯をよそった。香ばしい味噌の香りが鼻先を擽ると、再び腹がぐううっと鳴る。
そういえば、ヒート中は何も食べていなかったか。
ひとくち、口にいれると止まらなかった。空腹を満たすべくガツガツと食べすすめる。あっという間に用意された食事を平らげ、再びベッドに横になった。
ヒートはおさまっているものの、まだ身体が怠い。
イルカに付いてベッドへ上がってきたパックンが、濡れた鼻先をイルカの頬へ寄せてくる。
くすぐったさに笑うと、フンッと鼻息をかけられた。
「……おまえ、カカシさんについていかなくて良かったのか?」
「拙者の任務はお主の面倒をみること」
ぺろりと頬を舐められて、イルカは寄り添ってくる小さな身体を抱きしめた。
「本来なら、オメガの世話をするのはアルファの役目じゃというのに、まったく仕方のないやつじゃ」
呆れた声に目を伏せ、柔らかな毛に顔を埋める。
「だって、それは………」
鏡の前で気づいたこと。
指先が撫ぜたのは、噛み痕の残る肩口で。
傷一つない項に指を滑らせて、唇を噛んだ。
───番ではないから。
どうしてだろう。
それが無性に寂しく思えた。
*****
「ただいま」
くたびれた様子で目の前に立つ男の姿を確認し、まさか今日、帰還してくるとは思わなかったとイルカは軽く唇を噛んで手を差し出した。
「……お疲れさまです」
「どーも」
まともに顔も合わせず渋々かけたねぎらいの言葉に、契約上の伴侶はいつもの適当な返事で応えた。帰還者でごった返す受付では、そんな二人のぎこちない様子をいちいち気にする者は少ない。イルカはこれ幸いとばかりに無言で受け取った書類の束をぺらりとめくった。
綿密に書き込まれた報告書の文字を目で追い、今回の任務もカカシでなければ完遂させるのは難しかっただろうとイルカは眉を寄せる。性格はともかく優秀なのだ。さすがは里一番の忍と謳われるだけのことはある……と、頷きかけて視線を止めた。
だからって、肝心要の上忍師の仕事を疎かにしてもらっちゃ困るんだけどな。
『カカシ先生ってば毎日昼寝しているってばよ』
『人生の道に迷ったとか言って、遅刻ばっかりしてくるんですよ』
唇を尖らせて訴える子供達の顔を思い浮かべ、どうしたもんかとため息を漏らす。
カカシが上忍師として里に常駐していると知れてからというもの、その知名度もあいまってカカシを指名する依頼は後をたたない。受付が依頼を選別して割り振ってはいるが、さすがに国家機密を扱う任務ともなると扱える忍の数もそう多くはないのが現実だ。上忍師と、通常任務、そしてイルカの発情期の相手とくれば、カカシをゆっくり休ませてやれる暇がない。せめて自身のヒートを薬でなんとかできればと調整しているのだが、そろそろそれも限界に来ていた。
カカシが近くにいる。それだけで反応してしまう。
「どこか不備でもありましたか?」
「は……?」
コツっと紙面を指先で突かれ、反射的に顔を上げた。
「手が止まっているから」
「………いえ、」
表情を隠す額当てと口布。静かに見つめられているだけだというのに、項にチリチリとした刺激が走り、身体が勝手に火照っていくのがわかる。口の中にじわりと溢れてきた唾液を飲み込むと、カカシが気づいたように視線をそらせた。
身体から立ち上った甘ったるい匂いに、唯一顕になっている右眼がイルカを捕らえて不愉快そうに細められる。こんなところで発情するなと言われているようで、イルカは慌てて顔を伏せた。
「不備はありません」
「ならさっさと済ませて下さい」
焦れた声で告げられて、冷水を浴びせられた気持ちになる。
カカシに煽られて発情したからと言い訳しても、初めての情事は突発的に起こった事故なのだ。その証拠に、あれから幾度か身体を重ねたけれど、カカシはけしてイルカの項を噛もうとはしなかった。
紙面で契約を交わしただけの番。この人は三代目の命令に従っただけで、俺のことなんてなんとも思っていないのに。
馬鹿だな。
それが答えだというのに、未練がましく何を期待しているのだろう。
目を通し終えた書類に受付のサインをし、捺印する。
「任務お疲れさまでした。戻ってこられたところ申し訳ありませんが、次の依頼の件で少し相談が───」
イルカが束になった任務依頼書を手にした瞬間、カカシがのそりと顔を近づけてきた。スンッと鼻を嗅ぐ仕草。
「よかった。間に合って」
「……はい?」
「そろそろ発情期でしょ」
カカシなりに一応気を使っているつもりらしいが、その行動で同僚がちらりとこちらへ顔を向けたのが見えた。
「は……?」
反射的に否定したものの、匂いが誤魔化せるわけもない。
「違う? 匂いが濃くなっているから」
ぼそぼそと耳元で話さないでほしい。それでなくても近づくだけで体温が上がっていくのがわかるのに、目の前の男はなんだとばかりに眉を寄せる。
「そうですけど、今回は薬でなんとかしようと思っていますので──…」
カカシに無理をさせたくないから。
大丈夫だと言おうとして、逆に失敗してしまう。カカシの眉間に皺が寄った。
「あなたねぇ」
はぁ、っと呆れを含んだ深いため息。次に続いた言葉にぎょっとして立ち上がった。
「発情期の時くらいオレに頼りなさいよ」
そういうわけにはいかないと首を振れば、カカシが憮然として口を開いた。
「薬も対して効きやしないくせに、「次の任務」なんて言われてもねぇ」
「ちょ、カカシさんっ!?」
いったい何を言い出すのか。同僚たちが気まずげに顔をそらすのに、イルカは慌ててカカシの口を塞ごうと立ち上がった。
「そんな真っ赤な顔して、オレがヒートまでに戻って来られなかったらどうするつもりなんですか? まさか張形でも使って自分で慰めようなんて思ってんじゃないで……」
「───ち、ちょっと黙ってろっ!!」
たまらず遮ったイルカの大声で、あろうことか視線が一気に二人へと集中した。
「なんだ、痴話喧嘩かよ?」
「あ、いえ……その……っ」
「アスマ」
間の悪いことに、任務帰りのアスマが受付へと顔を出したところだった。睨み合った二人をみやり、アスマはやれやれとばかりに煙草の煙を吐き出すと、カカシの肩へ腕を回した。
「あんまりイルカを困らせるなよ、カカシ」
「困らせているのはオレじゃなくてイルカ先生の方なの。この人ったら、本当はオレが里にいないほうが良いと思っているんだから」
いつもの調子の良さでぼやいたカカシに、受付中の非難の視線がイルカに突き刺さる。
「そんなことは……っ」
カカシをどうにか休ませるために、捌ききれない量の依頼書をなんとか回しているのはどこの誰だと思っているんだ。
今だって、任務帰りで疲れ切った顔をしているカカシに迷惑がかからないよう相談しようとしたというのに、言いがかりもいいところだった。だけどうまく言い返せない。どうやりくりしようと、結果的にカカシに負担をかけているのはイルカの方だから。
「薬を使うのも良いけど、番なんだからちゃんとオレに頼ってよ。先生が体調崩したりしたら、オレが酷いアルファだと思われちゃうじゃない」
「…………」
「おい、カカシっ」
「なによ」
消沈したイルカに、カカシが小さく舌打ちする。その音に更にイルカは萎縮した。
「拗ねるのもそのへんにしておけ。イルカにだって言い分があるんだろ。なぁ、イルカ?」
面倒くさいが口癖だが、アスマはその実面倒見が良い男だ。イルカが顔を強張らせているのに気づいて、カカシの頭を小さく小突いた。
「とにかくこんなところで言い合ってないで、帰って二人でゆっくり話し合え。依頼なら俺が請け負ってやるから」
「アスマさんも帰還したばかりじゃ……」
「あぁ? ま、俺はそこまでややこしい任務はしてねぇしな。それよりお前はこんなところでいつまでもぐずってねぇで、さっさと帰って休めよ。ったく、ひでぇ顔しやがって」
ふぅっと紫煙を吐いたアスマが報告書を手渡し、未だ憮然としたままのカカシの肩を押す。ポケットに手を突っ込んだままの猫背気味の背中が扉の前で一度振り返り、イルカを捕らえてふいっと視線をそらした。
「ったく、めんどくせぇヤツ」
「はは……」
「勘弁してやってくれよな。アルファってのは自分の番を大事にするもんだからよ」
「大事、ですか」
「そうだろう?」
「……さぁ、どうでしょう」
本当の番ではないからわからない。報告書に視線を落としたイルカを、アスマがなんとも言えない表情で見やる。なんだか面倒くさいことになっているようだとは思ったが、番同士の事情に干渉するのはさすがに憚られる。アスマはどうしたもんかと唇に挟んだ煙草を上下に揺らした。
「灰が落ちます」
「っと、スマン」
降ってきた灰を手早く払うと、イルカは目を通し終えた書類へサインした。
カカシの気配はもう感じない。
受付を出しなに振り返ったカカシの視線を思い出し、イルカはどんよりと重くなる気持ちを押し殺す。それからお疲れさまでしたと無理やり笑顔を貼り付けた。
そんな事を思い出して笑ってしまった。
清潔なシーツの匂いと、身体を包む質のいい部屋着の感触。再びうとうとと微睡みそうになって、イルカはごろりと寝返りをうった。
そういえば、いまは何時だろう。
ぼんやりとそんな事を考えて、カーテンの隙間から注ぐ日差しの鋭さにぎょっとした。
「うそだろ……やば……ッ」
寝過ごしたなんてもんじゃない!
「イ──、テ……ッ!」
飛び起きたイルカの喉からは、ガラガラとしわがれた声と咳が漏れた。甘怠い身体とは反対に、腹筋や内腿、股関節の骨がひどく軋む。
それに、アソコの感覚がない……。
何があったかなんて一目瞭然。忘れたい記憶が蘇ってきて、イルカは飛び起きたシーツに再び突っ伏した。
いったい何があったのか?
そんなことは考えなくても身体が知っている。
カカシに煽られて発情し、欲望のままに精を貪ったのだ。記憶の中に薄っすらと残る己の淫らな言葉や痴態の数々に、イルカは口を覆ってなんとか叫ぶのをこらえた。
最悪。
最悪だ。
まさか、ヒートで自分があそこまで乱れるなんて思わなかった。
「……どうしよ……」
思い出すだけでも胸に苦いものがこみ上げてくる。あんな醜態ををさらしておいて、これからあの男とどうやって顔を合わせろというのか。
「む、起きていたのか」
カチャリ。扉が開く音に慌てて顔を上げれば、ベッドの縁へチョコンとちいさな足が飛び出して来た。ついで、シワだらけの気難しそうな顔が覗く。
「具合はどうじゃ」
「……犬……?」
そういえば、カカシは八匹の忍犬を使役する忍犬使いだと噂で聞いたことがある。その中には人語を解する犬もいるとか。とすると、この犬はそのうちの一匹というわけだが。
「えっと……」
「拙者の名はパックンという」
いかつい顔からは想像もできないネーミングに戸惑う間も、それを名付けたであろうカカシのセンスを疑う暇もなく、フンっと指先に鼻息が掛かる。パックンがベッドの上へと飛び乗ってきた。
へたり込んだイルカの指先に、ぺとりと鼻先を押しつけ、
「熱はなさそうじゃが、痛むところは無いか?」
「…………」
「どうした。さっさと答えんか」
鷹揚に言い放つ忍犬に、イルカはギクシャクと自らの身体を摩り大丈夫だと頷いた。
「あの、カカシさんは?」
「任務に出た。食事は用意してあると言っていたが、腹はへっとらんか?」
飯と聞いてぐうぅと腹の虫が鳴る。イルカはそろりと足をベッドから下ろすと、立ちあがろうとして床にヘタリ込んだ。下肢に力が入らない。
「まったく、無茶をしよって」
まるで子供に言うような呆れた声。パックンが隣室へむけて小さく吠えると、扉の隙間からいかつい首輪をした大型犬が顔を出した。大きさは、大人と変わらないのではないだろうか。のそりとイルカの側までやってくると、掴まれとばかりに姿勢を低くする。イルカは足元をふらつかせながら大型犬を支えに立ちあがった。
だだっ広いダイニングに差し込んだ温かい日差しに、もぐらみたいに目を瞬かせて冷たい水で顔を洗う。色んなもので汚れているはずの身体はカカシが綺麗に拭ってくれたらしい。そんなことまであの男にさせたのかと思ったら、感謝するより先に恥ずかしさがこみ上げてくる。
カラカラに乾いた口をすすぎ、歯を磨くと少し頭がスッキリとした気がした。
乱れた髪を整え、いつものように頭の天辺ではなく後ろでゆるく結ぶ。鏡に映るのは荒淫に乱れた情けない顔で、イルカはいたたまれずに鏡から顔をそらした。
ダイニングにもどると、パックンが大型犬と共に机の側で待っていてくれた。
机の上には焼き魚と青菜の和え物に納豆が用意されており、明日まで休暇申請届を提出した旨を書いた短い書き置きに目を通した。
イルカは味噌汁を温め直し、ご飯をよそった。香ばしい味噌の香りが鼻先を擽ると、再び腹がぐううっと鳴る。
そういえば、ヒート中は何も食べていなかったか。
ひとくち、口にいれると止まらなかった。空腹を満たすべくガツガツと食べすすめる。あっという間に用意された食事を平らげ、再びベッドに横になった。
ヒートはおさまっているものの、まだ身体が怠い。
イルカに付いてベッドへ上がってきたパックンが、濡れた鼻先をイルカの頬へ寄せてくる。
くすぐったさに笑うと、フンッと鼻息をかけられた。
「……おまえ、カカシさんについていかなくて良かったのか?」
「拙者の任務はお主の面倒をみること」
ぺろりと頬を舐められて、イルカは寄り添ってくる小さな身体を抱きしめた。
「本来なら、オメガの世話をするのはアルファの役目じゃというのに、まったく仕方のないやつじゃ」
呆れた声に目を伏せ、柔らかな毛に顔を埋める。
「だって、それは………」
鏡の前で気づいたこと。
指先が撫ぜたのは、噛み痕の残る肩口で。
傷一つない項に指を滑らせて、唇を噛んだ。
───番ではないから。
どうしてだろう。
それが無性に寂しく思えた。
*****
「ただいま」
くたびれた様子で目の前に立つ男の姿を確認し、まさか今日、帰還してくるとは思わなかったとイルカは軽く唇を噛んで手を差し出した。
「……お疲れさまです」
「どーも」
まともに顔も合わせず渋々かけたねぎらいの言葉に、契約上の伴侶はいつもの適当な返事で応えた。帰還者でごった返す受付では、そんな二人のぎこちない様子をいちいち気にする者は少ない。イルカはこれ幸いとばかりに無言で受け取った書類の束をぺらりとめくった。
綿密に書き込まれた報告書の文字を目で追い、今回の任務もカカシでなければ完遂させるのは難しかっただろうとイルカは眉を寄せる。性格はともかく優秀なのだ。さすがは里一番の忍と謳われるだけのことはある……と、頷きかけて視線を止めた。
だからって、肝心要の上忍師の仕事を疎かにしてもらっちゃ困るんだけどな。
『カカシ先生ってば毎日昼寝しているってばよ』
『人生の道に迷ったとか言って、遅刻ばっかりしてくるんですよ』
唇を尖らせて訴える子供達の顔を思い浮かべ、どうしたもんかとため息を漏らす。
カカシが上忍師として里に常駐していると知れてからというもの、その知名度もあいまってカカシを指名する依頼は後をたたない。受付が依頼を選別して割り振ってはいるが、さすがに国家機密を扱う任務ともなると扱える忍の数もそう多くはないのが現実だ。上忍師と、通常任務、そしてイルカの発情期の相手とくれば、カカシをゆっくり休ませてやれる暇がない。せめて自身のヒートを薬でなんとかできればと調整しているのだが、そろそろそれも限界に来ていた。
カカシが近くにいる。それだけで反応してしまう。
「どこか不備でもありましたか?」
「は……?」
コツっと紙面を指先で突かれ、反射的に顔を上げた。
「手が止まっているから」
「………いえ、」
表情を隠す額当てと口布。静かに見つめられているだけだというのに、項にチリチリとした刺激が走り、身体が勝手に火照っていくのがわかる。口の中にじわりと溢れてきた唾液を飲み込むと、カカシが気づいたように視線をそらせた。
身体から立ち上った甘ったるい匂いに、唯一顕になっている右眼がイルカを捕らえて不愉快そうに細められる。こんなところで発情するなと言われているようで、イルカは慌てて顔を伏せた。
「不備はありません」
「ならさっさと済ませて下さい」
焦れた声で告げられて、冷水を浴びせられた気持ちになる。
カカシに煽られて発情したからと言い訳しても、初めての情事は突発的に起こった事故なのだ。その証拠に、あれから幾度か身体を重ねたけれど、カカシはけしてイルカの項を噛もうとはしなかった。
紙面で契約を交わしただけの番。この人は三代目の命令に従っただけで、俺のことなんてなんとも思っていないのに。
馬鹿だな。
それが答えだというのに、未練がましく何を期待しているのだろう。
目を通し終えた書類に受付のサインをし、捺印する。
「任務お疲れさまでした。戻ってこられたところ申し訳ありませんが、次の依頼の件で少し相談が───」
イルカが束になった任務依頼書を手にした瞬間、カカシがのそりと顔を近づけてきた。スンッと鼻を嗅ぐ仕草。
「よかった。間に合って」
「……はい?」
「そろそろ発情期でしょ」
カカシなりに一応気を使っているつもりらしいが、その行動で同僚がちらりとこちらへ顔を向けたのが見えた。
「は……?」
反射的に否定したものの、匂いが誤魔化せるわけもない。
「違う? 匂いが濃くなっているから」
ぼそぼそと耳元で話さないでほしい。それでなくても近づくだけで体温が上がっていくのがわかるのに、目の前の男はなんだとばかりに眉を寄せる。
「そうですけど、今回は薬でなんとかしようと思っていますので──…」
カカシに無理をさせたくないから。
大丈夫だと言おうとして、逆に失敗してしまう。カカシの眉間に皺が寄った。
「あなたねぇ」
はぁ、っと呆れを含んだ深いため息。次に続いた言葉にぎょっとして立ち上がった。
「発情期の時くらいオレに頼りなさいよ」
そういうわけにはいかないと首を振れば、カカシが憮然として口を開いた。
「薬も対して効きやしないくせに、「次の任務」なんて言われてもねぇ」
「ちょ、カカシさんっ!?」
いったい何を言い出すのか。同僚たちが気まずげに顔をそらすのに、イルカは慌ててカカシの口を塞ごうと立ち上がった。
「そんな真っ赤な顔して、オレがヒートまでに戻って来られなかったらどうするつもりなんですか? まさか張形でも使って自分で慰めようなんて思ってんじゃないで……」
「───ち、ちょっと黙ってろっ!!」
たまらず遮ったイルカの大声で、あろうことか視線が一気に二人へと集中した。
「なんだ、痴話喧嘩かよ?」
「あ、いえ……その……っ」
「アスマ」
間の悪いことに、任務帰りのアスマが受付へと顔を出したところだった。睨み合った二人をみやり、アスマはやれやれとばかりに煙草の煙を吐き出すと、カカシの肩へ腕を回した。
「あんまりイルカを困らせるなよ、カカシ」
「困らせているのはオレじゃなくてイルカ先生の方なの。この人ったら、本当はオレが里にいないほうが良いと思っているんだから」
いつもの調子の良さでぼやいたカカシに、受付中の非難の視線がイルカに突き刺さる。
「そんなことは……っ」
カカシをどうにか休ませるために、捌ききれない量の依頼書をなんとか回しているのはどこの誰だと思っているんだ。
今だって、任務帰りで疲れ切った顔をしているカカシに迷惑がかからないよう相談しようとしたというのに、言いがかりもいいところだった。だけどうまく言い返せない。どうやりくりしようと、結果的にカカシに負担をかけているのはイルカの方だから。
「薬を使うのも良いけど、番なんだからちゃんとオレに頼ってよ。先生が体調崩したりしたら、オレが酷いアルファだと思われちゃうじゃない」
「…………」
「おい、カカシっ」
「なによ」
消沈したイルカに、カカシが小さく舌打ちする。その音に更にイルカは萎縮した。
「拗ねるのもそのへんにしておけ。イルカにだって言い分があるんだろ。なぁ、イルカ?」
面倒くさいが口癖だが、アスマはその実面倒見が良い男だ。イルカが顔を強張らせているのに気づいて、カカシの頭を小さく小突いた。
「とにかくこんなところで言い合ってないで、帰って二人でゆっくり話し合え。依頼なら俺が請け負ってやるから」
「アスマさんも帰還したばかりじゃ……」
「あぁ? ま、俺はそこまでややこしい任務はしてねぇしな。それよりお前はこんなところでいつまでもぐずってねぇで、さっさと帰って休めよ。ったく、ひでぇ顔しやがって」
ふぅっと紫煙を吐いたアスマが報告書を手渡し、未だ憮然としたままのカカシの肩を押す。ポケットに手を突っ込んだままの猫背気味の背中が扉の前で一度振り返り、イルカを捕らえてふいっと視線をそらした。
「ったく、めんどくせぇヤツ」
「はは……」
「勘弁してやってくれよな。アルファってのは自分の番を大事にするもんだからよ」
「大事、ですか」
「そうだろう?」
「……さぁ、どうでしょう」
本当の番ではないからわからない。報告書に視線を落としたイルカを、アスマがなんとも言えない表情で見やる。なんだか面倒くさいことになっているようだとは思ったが、番同士の事情に干渉するのはさすがに憚られる。アスマはどうしたもんかと唇に挟んだ煙草を上下に揺らした。
「灰が落ちます」
「っと、スマン」
降ってきた灰を手早く払うと、イルカは目を通し終えた書類へサインした。
カカシの気配はもう感じない。
受付を出しなに振り返ったカカシの視線を思い出し、イルカはどんよりと重くなる気持ちを押し殺す。それからお疲れさまでしたと無理やり笑顔を貼り付けた。
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