翌日、賃貸人からの挨拶を待てるわけもなく、ヤマトが止めるのも聞かず西の離まで繰り出したカカシは、外壁に伸びた蔓草を懸命に刈り取っている男を見つけて立ち止まった。
長い黒髪を頭上で一つに結んだ男は、額から落ちる汗を肩口でぐいっと拭うと、外壁の上を見上げてふーっと大きく息を付いた。
離れと言っても一戸の館だ。
とても一人で手入れをするには大変だろうと思うのに、鼻歌交じりに忙しく動く姿はなんというかとても楽しそうだ。
「コンニチハ」
「はい・・?」
振り返った男が一瞬目を見開いて、それから戸惑ったような顔で一歩後ずさる。
「あー・・、ここの管理をしている・・」
「ーーーあぁ! 初めまして。あの、うみのイルカです」
「はたけカカシといいます」
握手をしようと手を差し出して、慌てたイルカが釜と軍手を放り出す。
「こちらからご挨拶に伺うべきなのに、申し訳ありません」
「いえいえ」
汗をかいて上気した頬が赤く染まっている。
こんな男だからきっと体温も高いのだろうと想像していたのに、触れた掌はひんやりと冷たくて少しだけ驚いた。
「こちらこそ、こんな館を借りていただいて」
記憶の通り、やはりオドロオドロしい外観だ。
せめてこの生い茂る蔦さえなくなればもう少し見られるようになるのだろうが。
「良いところですよ」
「え?」
「室内は清潔だし、外壁も・・。こんなに蔦が生えるのは、日当たりが良い証拠ですから」
「・・・そんなもんですか」
「えぇ」
どちらかというと平凡な顔なのに、ニコリと柔らかく微笑んだ表情に見とれてしまった。
とても自然に笑う人だなと、ついカカシもつられて笑ってしまう。
「お一人で大変でしょうから手伝いましょうか」
「えぇ!? ご当主にそんなっ」
「屋敷に帰ったらまたうるさい執事に追い回されるもので、避難させてもらうついでに肉体労働させて下さい」
「しかし・・」
「お礼は・・・そうだな。終わったらお茶でも飲ませてもらえれば嬉しいです」
駄目ですか? と。
自分の長所を最大限に活かして小首を傾げ、眼の前で逡巡する男を見やる。
いつもなら、自分から誰かと付きあおうなどとは思ったこともないのに、不思議な事だ。
当主にこんな申し出をされて、わたわたと狼狽える男の姿すら微笑ましく思えた。
「こんな大量の蔦、たった一人じゃ何日たっても終わりませんよ」
「はぁ・・」
「・・紅茶一杯で人足が手に入るんですよ。お得な取引だとは思いませんか?」
「・・・・・」
あと一息。
ぐいっと近づいて、悪戯っ子のように笑った。
根負けしたように苦笑するイルカが、では・・と口にするのに心の中で歓喜しながら軍手を拾う。
「ご当主様にお出しするような高価な紅茶なんてうちには置いてませんよ」
「飲めれば結構、それと」
「はい」
「ご当主って呼び方もやめて下さい」
「・・・・」
「カカシで結構です。歳もそんなに変わりませんよね?」
「しかし、あなたは・・」
「オレもあなたのことイルカさん・・いや、教師でしたっけ?」
「あ、はい」
「じゃあイルカ先生って呼びますから」
強引にそう言って、蔦を刈り取るべくさっさと外壁に向かう。
背後で困ったようにウロウロとするイルカの気配を感じながら、何故だか心は浮き立っていた。
それから数時間。
二人の労力をもってしても、外壁を包む蔦は全てを撤去することは敵わなかった。
「強敵ですね」
薄暗くなってきた空を見上げながらそう言って、隣で汗を拭う男を見やる。
洗いざらしのシャツにシンプルなパンツスタイル。
少しだけ汗を吸ったシャツが張り付いて、地肌の色が透けて見えていた。
カカシよりも少しだけ浅黒い肌。
どこか別の国の人間なのだろうか?
そんなことまで気になった自分に苦笑する。
一体全体どうしたことだろう。
「すみません、ご当主様に・・」
「カカシ」
「え?」
「カカシって呼んでくださいって言いましたよね」
「えっと・・・カカシ、さん」
「はい」
遠慮がちに口にする男の声に微笑んで返事をする。
「お手伝いいただいて助かりましたが、そろそろお帰りになられたほうが・・」
「なんで?」
まだ蔦はみっしりと張り付いたままだし、紅茶だって飲ませてもらっていない。
思わずそう口にしたカカシに、イルカが背後を見つめて会釈する。
「ーーー?」
「センパイッ!! いつまでここに・・!」
「うわ~・・ヤマト・・・」
いつのまにやって来たのだろう仁王立ちのヤマトの声に、振り向いて眉をしかめた。
「すみません、イルカさん。この人がご迷惑を」
「い、いえっ!」
「そーよ、ヤマト。ちゃんと手伝ってたんだから」
「その分こっちは書類が溜まってるんですよ」
「それはお前がちゃっちゃと処理すりゃいい話でしょ」
「なにを言ってるんですか! はたけ家の当主はあなたでしょうッ!」
「ーーー・・・ふふっ」
睨み合う二人を交互に見つめて、イルカが吹き出した。
夕闇に染まる景色の中、柔らかな表情に吸い込まれるように見つめてしまう。
そんなカカシに気づいたイルカが、笑顔の中に複雑な表情を見せた。
「・・・?」
だけどそれはほんの一瞬のことで。
瞬く間に取り繕われたそれに、カカシはどこか違和感を覚えた。
「さ、そろそろお暇しますよ。先輩」
「えーー? だってまだ・・」
「今日はありがとうございました」
二人して、カカシをこの場所から引き離そうとするのに、ヤマトを振り払ってイルカの傍まで駆け寄ると、軍手ごとその手を握りしめた。
「明日も来ます」
「・・え・・・」
「先輩、いい加減イルカさんも困ってらっしゃいますから」
「アイツを撒いてでも来ますから、紅茶の用意をしておいて下さい」
「えっと、・・はい」
あまりの勢いに気圧されるように、イルカがコクコクと頷くのを確認して漸く握りしめた手を解放する。
背後で苦虫を噛み潰した顔をしているヤマトなど、知ったことではなかった。
館からの帰り道、グチグチと文句を言うヤマトの言葉を聞き流しながら、鼻歌を歌って明日の算段をする。
「書類はどうするおつもりですか」
「帰ってからサインすりゃ良いんでしょ」
「あのですね・・」
「優秀なお前だから、早急に判断が必要なものしか振り分けていないってわかってるし」
「それはもちろん」
得意気に頷く執事にニヤリと口の端をあげて、カカシの心はもう翌日へと飛び立っていった。
明日は今日より少しだけ早く訪れて、イルカとお茶の時間を楽しもう。
アフターヌーンティーの為にチョウジに美味しいお菓子を作らせて・・などと考えてふと立ち止まる。
「センパイ?」
「イルカさん、お菓子は何が好きだと思う?」
「ーーー知りませんよ」
スコーンとサンドイッチ、デザートのケーキは・・・と思い浮かべ、甘いモノが苦手なカカシはうへぇと舌を出した。
イルカが甘いモノが好きならカカシの分も食べてもらえば良い。
「楽しみだーね」
「・・・まったく・・」
うきうきと家路を急ぐカカシの姿に溜息を付いて、ヤマトもいそいでその後を追うのだった。
*****
翌日、早朝から作らせたお菓子やサンドイッチをバスケットに詰めて、カカシは昨日と同じように西の離へと急いだ。
イルカはもう作業を開始しているかもしれないと思うと、行く前に立ちふさがったヤマトに憤りを感じる。
この書類だけですからと食い下がられて連れ込まれた部屋に閉じ込められること数時間。
いい加減眼を通すことも嫌になった書類を投げ出して飛び出して来たのだ。
「全くアイツも毎日毎日頑張るねぇ」
そうごちてはみるものの、実際ヤマトは有能だった。
自分がいなくとも、彼さえいればこの領地は全て順調に動くのではないかと思うほどに。
だからこそ遊びほうけてもいられるわけだが、と。
今頃カカシがいなくなったことに怒り狂っている執事兼後輩にほくそ笑む。
それでもすぐにはカカシを追いかけては来ないことも、長い経験上知っていた。
もし直ぐに連れ戻しに来たのなら、機嫌を損ねた自分が暫く仕事をボイコットすることをわかっている優秀な執事なのだ。
「ありがたいけどねぇ」
そう言って、放蕩領主であるカカシはクククッと笑いを漏らした。
「あれ?」
辿り着いた西の離れ。
昨日と同じようにイルカがせっせと働いているだろうと思っていたのに、目当ての人物が見当たらなくて辺りを見渡した。
作業をした形跡はない。
ということはどこかへ出掛けたのかもしれないと思うものの、置きっぱなしの鎌や軍手に首を傾げる。
あの几帳面そうな男なら、きっと出かける前にこれらのものは片付けていくのではないだろうか?
そう考えて館の扉を開いてみた。
「開いてるじゃない」
古く軋んだ音をたてて開いた扉の中で、記憶と違う光景にカカシは足を止めて周りを確かめた。
以前は薄暗く陰気だった室内は、綺麗に整理されて明るい光が差し込んでいる。
覆っていた蔦がなくなったからだと気づいたのは、見上げた大きな窓に嵌めこまれたステンドグラスから降り注ぐ温かな光だ。
思っていたほどの化け物屋敷でもないことに少しだけ安心して、そういやヤマトが改修工事をしたと言っていたことを思い出した。
「取り潰さないで良かったね」
そう呟いて、広間を通り甲冑を着た兵士の銅像に挟まれた階段に足をかけた。
カカシの記憶が正しければ、奥に主寝室ともいうべき部屋があったはずだ。
少し足音の響く階段をゆっくりと登り、目当ての部屋を目指す。
もしイルカが出掛けていなければ、多分そこに居るはずだと扉の前で軽くノックしてみた。
「イルカ先生・・?」
声をかけてみたが返事はない。
とりあえず手に掛けた観音開きの扉を押して中へと入ると、ベッドが人の形に少し膨らんでいた。
「みつけた」
声を潜めてしまうのは、寝室に踏み込んだ事を少しだけ後ろめたく思っているからだ。
足音を忍ばせて近づくと、寝息すら聞こえないほど静かに眠るイルカの姿があった。
「オレより寝汚いなんてね・・」
さて、どうして起こしてやろうかと悪戯心いっぱいに夜着に手をかけて、ふと何かが違うことに気づいた。
「あれ・・・?」
それは昨日みたイルカの姿と何も変わっていないのに。
解かれた髪の隙間から覗く顔の中心に、両頬にかけて走る傷痕が刻み込まれていた。
「先生ッ!! ーー怪我したのっ?」
ドサリと床にバスケットを落として駆け寄ると、身体を揺すり上げ、盛り上がった肉が引き攣れを起こす傷痕を確認するべく両頬を包む。
「ーーーー・・?」
そこで初めて彼の身体がとても冷たい事に気がついた。
「イルカ先生・・・?」
眠る彼の頬は温かみをたたえて薄くピンクに染まっているのに、どうしてこんなに冷たいのだろう。
まさか・・・と考えて口元に耳を寄せる。
微かに触れる吐息に少しだけ安堵して、とにかく医者の診察をと夜着を剥ぎとった。
「う・・ん・・」
「イルカ、せんせっ・・?」
「・・・・・」
ゆっくりと瞼を開く彼の瞳が、覗きこむカカシを認識して頼りなく細められた。
伸ばされた指先に、襟足から垂れる銀髪を軽く摘んで引っ張られ。
そのまま誘うように首に回された手に引き寄せられて、ベッドの上に両手をついた。
「・・・さん・・・」
「え・・?」
微笑みながら呟かれた言葉はとても小さくて、カカシには聞き取れなかった。
狼狽え言葉を失うカカシを気にすることもなく首筋に鼻先を擦り付けたイルカが、スンっと匂いを嗅いで溜息のような吐息を漏らす。
「・・・イ、ルカ・・さん・・・?」
「・・・ん・・・?」
黒曜石を思わせる瞳の中に戸惑うカカシが映る。
あどけない表情でそんなカカシを見つめたイルカが、指先を伸ばしてカカシの頬に触れた。
「・・・?」
愛おしげに撫でる指先はやはり冷たく、心配になってその手を掴めば微笑みながら顔を近づけてくる。
見つめ合ったまま唇が重なるのに、時間はどれぐらいだったろうか。
ためらいもせずに潜りこませた舌先で、狭い口内を擽る。
冷たい口内に熱を与えようと絡みつかせ、逃げる柔らかな感触に堪らなくなって思わず力いっぱい抱きしめた。
「・・はっ・・・」
肺の空気が押し出されて漏らす声が互いの唇の間で飲み込まれる。
ぴちゃりと音をたてる水音に夢中になって貪ると、苦しげに背中を叩かれた。
「・・ふっ・・ぁ・・」
「ね・・、どうしたの・・?」
昨日はじめて顔を合わせたにも関わらずこんな淫らなことをと、背徳感に浮き立つ気持ちを抑えきれずに耳元で話しかけるのに、イルカはヒクリと身体をうごめかせたまま微かな言葉を口にする。
「・・・さ、・・・やっと・・えた・・」
「えーーー?」
聞き返しても、イルカはカカシの髪に指を絡ませ、何度も愛しげにくしゃりと撫で付けるだけだ。
首筋に触れた冷たい唇で吸い付くと、まるで愛撫するかのように柔らかな舌がチロリと首筋を舐めた。
「ーーーーッ!!」
その瞬間、ゾクリと背筋を走る感覚にカカシは思い切りイルカの身体を引き離した。
「イルカせんせッ!?」
「・・・ど、して・・・」
「ーーなに・・?」
何かを口にした言葉を聞き返そうとして、顔を覗きこんで絶句した。
イルカの顔を走る傷痕が徐々に薄れていくのを、信じられないものでも見るように眼を見開く。
そんな馬鹿なという思いと、眼の前の現実とが頭のなかで交差する。
一体自分は何を見ているのだろうか?
「・・・・・?」
焦点の合っていなかった黒い瞳が、ゆっくりとカカシの姿をとらえて焦点を結ぶと、顔を強張らせて傷痕のあった鼻先に触れる。
それはまるで何かを確認するかのような仕草で。
まるで今カカシがここにいることに気づいたように戸惑い、困惑し、怯えたようなイルカがベッドの上を後ずさりながら口を開く。
「・・カカシさん? ど、して・・ここに・・・?」
そう言って何度も鼻先に触れ、傷痕がないことを確認している。
彼は何かを隠しているのだと、あからさまに分かる仕草に止めていた呼吸を開放した。
「ーーーもうお昼ですよ」
「・・え?」
「何時までたっても降りて来られないから、不躾かと思いましたが押しかけました」
「はぁ」
「美味しいお菓子を持参したので、これからアフターヌーンティーでも一緒にどうですか?」
床に落ちたバスケットを指してそう言うと、バスケットとカカシを交互に見たイルカがホッと息をついて破顔する。
どうしてそこに放り出されているのかは、詮索するつもりはないらしい。
「良いですね」
ぺたんこの腹をさすり、くったくなく笑う表情に先ほどの妖艶さはない。
では用意しましょうとベッドから離れたカカシは、眼の前でいそいそと寝衣から着替える生き物の様子を用心深く見つめていた。
長い黒髪を頭上で一つに結んだ男は、額から落ちる汗を肩口でぐいっと拭うと、外壁の上を見上げてふーっと大きく息を付いた。
離れと言っても一戸の館だ。
とても一人で手入れをするには大変だろうと思うのに、鼻歌交じりに忙しく動く姿はなんというかとても楽しそうだ。
「コンニチハ」
「はい・・?」
振り返った男が一瞬目を見開いて、それから戸惑ったような顔で一歩後ずさる。
「あー・・、ここの管理をしている・・」
「ーーーあぁ! 初めまして。あの、うみのイルカです」
「はたけカカシといいます」
握手をしようと手を差し出して、慌てたイルカが釜と軍手を放り出す。
「こちらからご挨拶に伺うべきなのに、申し訳ありません」
「いえいえ」
汗をかいて上気した頬が赤く染まっている。
こんな男だからきっと体温も高いのだろうと想像していたのに、触れた掌はひんやりと冷たくて少しだけ驚いた。
「こちらこそ、こんな館を借りていただいて」
記憶の通り、やはりオドロオドロしい外観だ。
せめてこの生い茂る蔦さえなくなればもう少し見られるようになるのだろうが。
「良いところですよ」
「え?」
「室内は清潔だし、外壁も・・。こんなに蔦が生えるのは、日当たりが良い証拠ですから」
「・・・そんなもんですか」
「えぇ」
どちらかというと平凡な顔なのに、ニコリと柔らかく微笑んだ表情に見とれてしまった。
とても自然に笑う人だなと、ついカカシもつられて笑ってしまう。
「お一人で大変でしょうから手伝いましょうか」
「えぇ!? ご当主にそんなっ」
「屋敷に帰ったらまたうるさい執事に追い回されるもので、避難させてもらうついでに肉体労働させて下さい」
「しかし・・」
「お礼は・・・そうだな。終わったらお茶でも飲ませてもらえれば嬉しいです」
駄目ですか? と。
自分の長所を最大限に活かして小首を傾げ、眼の前で逡巡する男を見やる。
いつもなら、自分から誰かと付きあおうなどとは思ったこともないのに、不思議な事だ。
当主にこんな申し出をされて、わたわたと狼狽える男の姿すら微笑ましく思えた。
「こんな大量の蔦、たった一人じゃ何日たっても終わりませんよ」
「はぁ・・」
「・・紅茶一杯で人足が手に入るんですよ。お得な取引だとは思いませんか?」
「・・・・・」
あと一息。
ぐいっと近づいて、悪戯っ子のように笑った。
根負けしたように苦笑するイルカが、では・・と口にするのに心の中で歓喜しながら軍手を拾う。
「ご当主様にお出しするような高価な紅茶なんてうちには置いてませんよ」
「飲めれば結構、それと」
「はい」
「ご当主って呼び方もやめて下さい」
「・・・・」
「カカシで結構です。歳もそんなに変わりませんよね?」
「しかし、あなたは・・」
「オレもあなたのことイルカさん・・いや、教師でしたっけ?」
「あ、はい」
「じゃあイルカ先生って呼びますから」
強引にそう言って、蔦を刈り取るべくさっさと外壁に向かう。
背後で困ったようにウロウロとするイルカの気配を感じながら、何故だか心は浮き立っていた。
それから数時間。
二人の労力をもってしても、外壁を包む蔦は全てを撤去することは敵わなかった。
「強敵ですね」
薄暗くなってきた空を見上げながらそう言って、隣で汗を拭う男を見やる。
洗いざらしのシャツにシンプルなパンツスタイル。
少しだけ汗を吸ったシャツが張り付いて、地肌の色が透けて見えていた。
カカシよりも少しだけ浅黒い肌。
どこか別の国の人間なのだろうか?
そんなことまで気になった自分に苦笑する。
一体全体どうしたことだろう。
「すみません、ご当主様に・・」
「カカシ」
「え?」
「カカシって呼んでくださいって言いましたよね」
「えっと・・・カカシ、さん」
「はい」
遠慮がちに口にする男の声に微笑んで返事をする。
「お手伝いいただいて助かりましたが、そろそろお帰りになられたほうが・・」
「なんで?」
まだ蔦はみっしりと張り付いたままだし、紅茶だって飲ませてもらっていない。
思わずそう口にしたカカシに、イルカが背後を見つめて会釈する。
「ーーー?」
「センパイッ!! いつまでここに・・!」
「うわ~・・ヤマト・・・」
いつのまにやって来たのだろう仁王立ちのヤマトの声に、振り向いて眉をしかめた。
「すみません、イルカさん。この人がご迷惑を」
「い、いえっ!」
「そーよ、ヤマト。ちゃんと手伝ってたんだから」
「その分こっちは書類が溜まってるんですよ」
「それはお前がちゃっちゃと処理すりゃいい話でしょ」
「なにを言ってるんですか! はたけ家の当主はあなたでしょうッ!」
「ーーー・・・ふふっ」
睨み合う二人を交互に見つめて、イルカが吹き出した。
夕闇に染まる景色の中、柔らかな表情に吸い込まれるように見つめてしまう。
そんなカカシに気づいたイルカが、笑顔の中に複雑な表情を見せた。
「・・・?」
だけどそれはほんの一瞬のことで。
瞬く間に取り繕われたそれに、カカシはどこか違和感を覚えた。
「さ、そろそろお暇しますよ。先輩」
「えーー? だってまだ・・」
「今日はありがとうございました」
二人して、カカシをこの場所から引き離そうとするのに、ヤマトを振り払ってイルカの傍まで駆け寄ると、軍手ごとその手を握りしめた。
「明日も来ます」
「・・え・・・」
「先輩、いい加減イルカさんも困ってらっしゃいますから」
「アイツを撒いてでも来ますから、紅茶の用意をしておいて下さい」
「えっと、・・はい」
あまりの勢いに気圧されるように、イルカがコクコクと頷くのを確認して漸く握りしめた手を解放する。
背後で苦虫を噛み潰した顔をしているヤマトなど、知ったことではなかった。
館からの帰り道、グチグチと文句を言うヤマトの言葉を聞き流しながら、鼻歌を歌って明日の算段をする。
「書類はどうするおつもりですか」
「帰ってからサインすりゃ良いんでしょ」
「あのですね・・」
「優秀なお前だから、早急に判断が必要なものしか振り分けていないってわかってるし」
「それはもちろん」
得意気に頷く執事にニヤリと口の端をあげて、カカシの心はもう翌日へと飛び立っていった。
明日は今日より少しだけ早く訪れて、イルカとお茶の時間を楽しもう。
アフターヌーンティーの為にチョウジに美味しいお菓子を作らせて・・などと考えてふと立ち止まる。
「センパイ?」
「イルカさん、お菓子は何が好きだと思う?」
「ーーー知りませんよ」
スコーンとサンドイッチ、デザートのケーキは・・・と思い浮かべ、甘いモノが苦手なカカシはうへぇと舌を出した。
イルカが甘いモノが好きならカカシの分も食べてもらえば良い。
「楽しみだーね」
「・・・まったく・・」
うきうきと家路を急ぐカカシの姿に溜息を付いて、ヤマトもいそいでその後を追うのだった。
*****
翌日、早朝から作らせたお菓子やサンドイッチをバスケットに詰めて、カカシは昨日と同じように西の離へと急いだ。
イルカはもう作業を開始しているかもしれないと思うと、行く前に立ちふさがったヤマトに憤りを感じる。
この書類だけですからと食い下がられて連れ込まれた部屋に閉じ込められること数時間。
いい加減眼を通すことも嫌になった書類を投げ出して飛び出して来たのだ。
「全くアイツも毎日毎日頑張るねぇ」
そうごちてはみるものの、実際ヤマトは有能だった。
自分がいなくとも、彼さえいればこの領地は全て順調に動くのではないかと思うほどに。
だからこそ遊びほうけてもいられるわけだが、と。
今頃カカシがいなくなったことに怒り狂っている執事兼後輩にほくそ笑む。
それでもすぐにはカカシを追いかけては来ないことも、長い経験上知っていた。
もし直ぐに連れ戻しに来たのなら、機嫌を損ねた自分が暫く仕事をボイコットすることをわかっている優秀な執事なのだ。
「ありがたいけどねぇ」
そう言って、放蕩領主であるカカシはクククッと笑いを漏らした。
「あれ?」
辿り着いた西の離れ。
昨日と同じようにイルカがせっせと働いているだろうと思っていたのに、目当ての人物が見当たらなくて辺りを見渡した。
作業をした形跡はない。
ということはどこかへ出掛けたのかもしれないと思うものの、置きっぱなしの鎌や軍手に首を傾げる。
あの几帳面そうな男なら、きっと出かける前にこれらのものは片付けていくのではないだろうか?
そう考えて館の扉を開いてみた。
「開いてるじゃない」
古く軋んだ音をたてて開いた扉の中で、記憶と違う光景にカカシは足を止めて周りを確かめた。
以前は薄暗く陰気だった室内は、綺麗に整理されて明るい光が差し込んでいる。
覆っていた蔦がなくなったからだと気づいたのは、見上げた大きな窓に嵌めこまれたステンドグラスから降り注ぐ温かな光だ。
思っていたほどの化け物屋敷でもないことに少しだけ安心して、そういやヤマトが改修工事をしたと言っていたことを思い出した。
「取り潰さないで良かったね」
そう呟いて、広間を通り甲冑を着た兵士の銅像に挟まれた階段に足をかけた。
カカシの記憶が正しければ、奥に主寝室ともいうべき部屋があったはずだ。
少し足音の響く階段をゆっくりと登り、目当ての部屋を目指す。
もしイルカが出掛けていなければ、多分そこに居るはずだと扉の前で軽くノックしてみた。
「イルカ先生・・?」
声をかけてみたが返事はない。
とりあえず手に掛けた観音開きの扉を押して中へと入ると、ベッドが人の形に少し膨らんでいた。
「みつけた」
声を潜めてしまうのは、寝室に踏み込んだ事を少しだけ後ろめたく思っているからだ。
足音を忍ばせて近づくと、寝息すら聞こえないほど静かに眠るイルカの姿があった。
「オレより寝汚いなんてね・・」
さて、どうして起こしてやろうかと悪戯心いっぱいに夜着に手をかけて、ふと何かが違うことに気づいた。
「あれ・・・?」
それは昨日みたイルカの姿と何も変わっていないのに。
解かれた髪の隙間から覗く顔の中心に、両頬にかけて走る傷痕が刻み込まれていた。
「先生ッ!! ーー怪我したのっ?」
ドサリと床にバスケットを落として駆け寄ると、身体を揺すり上げ、盛り上がった肉が引き攣れを起こす傷痕を確認するべく両頬を包む。
「ーーーー・・?」
そこで初めて彼の身体がとても冷たい事に気がついた。
「イルカ先生・・・?」
眠る彼の頬は温かみをたたえて薄くピンクに染まっているのに、どうしてこんなに冷たいのだろう。
まさか・・・と考えて口元に耳を寄せる。
微かに触れる吐息に少しだけ安堵して、とにかく医者の診察をと夜着を剥ぎとった。
「う・・ん・・」
「イルカ、せんせっ・・?」
「・・・・・」
ゆっくりと瞼を開く彼の瞳が、覗きこむカカシを認識して頼りなく細められた。
伸ばされた指先に、襟足から垂れる銀髪を軽く摘んで引っ張られ。
そのまま誘うように首に回された手に引き寄せられて、ベッドの上に両手をついた。
「・・・さん・・・」
「え・・?」
微笑みながら呟かれた言葉はとても小さくて、カカシには聞き取れなかった。
狼狽え言葉を失うカカシを気にすることもなく首筋に鼻先を擦り付けたイルカが、スンっと匂いを嗅いで溜息のような吐息を漏らす。
「・・・イ、ルカ・・さん・・・?」
「・・・ん・・・?」
黒曜石を思わせる瞳の中に戸惑うカカシが映る。
あどけない表情でそんなカカシを見つめたイルカが、指先を伸ばしてカカシの頬に触れた。
「・・・?」
愛おしげに撫でる指先はやはり冷たく、心配になってその手を掴めば微笑みながら顔を近づけてくる。
見つめ合ったまま唇が重なるのに、時間はどれぐらいだったろうか。
ためらいもせずに潜りこませた舌先で、狭い口内を擽る。
冷たい口内に熱を与えようと絡みつかせ、逃げる柔らかな感触に堪らなくなって思わず力いっぱい抱きしめた。
「・・はっ・・・」
肺の空気が押し出されて漏らす声が互いの唇の間で飲み込まれる。
ぴちゃりと音をたてる水音に夢中になって貪ると、苦しげに背中を叩かれた。
「・・ふっ・・ぁ・・」
「ね・・、どうしたの・・?」
昨日はじめて顔を合わせたにも関わらずこんな淫らなことをと、背徳感に浮き立つ気持ちを抑えきれずに耳元で話しかけるのに、イルカはヒクリと身体をうごめかせたまま微かな言葉を口にする。
「・・・さ、・・・やっと・・えた・・」
「えーーー?」
聞き返しても、イルカはカカシの髪に指を絡ませ、何度も愛しげにくしゃりと撫で付けるだけだ。
首筋に触れた冷たい唇で吸い付くと、まるで愛撫するかのように柔らかな舌がチロリと首筋を舐めた。
「ーーーーッ!!」
その瞬間、ゾクリと背筋を走る感覚にカカシは思い切りイルカの身体を引き離した。
「イルカせんせッ!?」
「・・・ど、して・・・」
「ーーなに・・?」
何かを口にした言葉を聞き返そうとして、顔を覗きこんで絶句した。
イルカの顔を走る傷痕が徐々に薄れていくのを、信じられないものでも見るように眼を見開く。
そんな馬鹿なという思いと、眼の前の現実とが頭のなかで交差する。
一体自分は何を見ているのだろうか?
「・・・・・?」
焦点の合っていなかった黒い瞳が、ゆっくりとカカシの姿をとらえて焦点を結ぶと、顔を強張らせて傷痕のあった鼻先に触れる。
それはまるで何かを確認するかのような仕草で。
まるで今カカシがここにいることに気づいたように戸惑い、困惑し、怯えたようなイルカがベッドの上を後ずさりながら口を開く。
「・・カカシさん? ど、して・・ここに・・・?」
そう言って何度も鼻先に触れ、傷痕がないことを確認している。
彼は何かを隠しているのだと、あからさまに分かる仕草に止めていた呼吸を開放した。
「ーーーもうお昼ですよ」
「・・え?」
「何時までたっても降りて来られないから、不躾かと思いましたが押しかけました」
「はぁ」
「美味しいお菓子を持参したので、これからアフターヌーンティーでも一緒にどうですか?」
床に落ちたバスケットを指してそう言うと、バスケットとカカシを交互に見たイルカがホッと息をついて破顔する。
どうしてそこに放り出されているのかは、詮索するつもりはないらしい。
「良いですね」
ぺたんこの腹をさすり、くったくなく笑う表情に先ほどの妖艶さはない。
では用意しましょうとベッドから離れたカカシは、眼の前でいそいそと寝衣から着替える生き物の様子を用心深く見つめていた。
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