「あ、はたけ上忍! ちょうどいいところにっ!」

そう声をかけられたのは、カカシが阿吽の門を一歩くぐった瞬間だった。

「申し訳ありませんが、このままご自宅まで直帰ねがえますか?」

息つく間もなく続いた言葉に、先程感じたあれはやはり我が子のチャクラだったかと思い至った。

「あ〜、一応確認なんだけど、先生は無事?」

気がかりなのはチャクラを暴発させた我が子よりも、愛しい伴侶である。
誰かをかばって自分が犠牲になることを厭わない人だから、万が一のことでもあったら一大事だ。

「イルカですか? 無事です! というか……」

なにやら歯切れの悪い言葉遣いにやれやれと天を仰ぎ見た。
成長目覚ましいサクヤに手を焼いていたのは知っている。近頃は習得した音印を駆使して術も使い放題のサクヤにイルカが振り回されていたことも。
ま、覚え始めは楽しいものだからねぇ。
あれこれと試してみたくなるのは仕方がない。それがたとえ年端も行かぬ子供であっても。
ぽややんとそんなことを考えて、カカシは背後を振り返った。

「テンゾウ」
「五代目への報告と書類の作成なら僕が代わりにやっておきますよ」
「悪いね」
「そう思うのなら一度くらいラーメンでも奢ってください」

昔なじみのテンゾウにはこれまでもありとあらゆる厄介ごとをカカシは振りまくっている。Sランクの任務から子守までと何でもこなせるエキスパートな後輩は、今やカカシの使い勝手の良い相棒…、いや力強い右腕でもあった。
悲しいかなカカシのおかげで受難慣れした男は、今回も快く請け負ってくれるらしい。カカシは苦笑いしながら了解と口にすると、自宅へ向けて一気に跳躍した。



******



からりと玄関の扉を開けて最初に見えたのは小さな後ろ姿と仁王立ちのイルカの姿だった。腰に手を当て眦を釣り上げているイルカを意にも介さず、サクヤはしゃりしゃりと何かを咀嚼しているらしい。カカシの帰宅した気配を察知し、振り返ると果汁で口元を盛大に汚したままにぱっと満面の笑みを浮かべた。

「かー!」

ぽいっと放り出したのは真っ赤な林檎で。それはゴロゴロと床を転がって、仁王立ちのイルカの足元で止まる。カカシの存在に気づいたイルカが、鬼の形相から今にも泣き出しそうに顔を歪めてカカシを見た。

「はい、ただーいま」

最近歩き出したとは聞いていたが、行動ははいはいのほうが早いらしい。それとも忍犬と過ごす時間が長いせいか。サクヤはいそいそと這いずって近くまでやってくると、抱けとばかりに両手を広げた。
見たところ、二人とも怪我らしい怪我はしていない。それどころかサクヤはまるまると太って健康そうだ。
数週間家をあけただけで重くなったように感じる身体を抱いてやりながら、涎掛けで汚れた口元を拭ってやる。そのままカカシはイルカの待つ部屋へと入った。

「ただいま、せんせ」
「……おかえりなさい」

何かあったのは顔を見れば一目瞭然。だけどそれを隠して作り笑いをしたイルカに、カカシは黙って転がった林檎を拾い上げた。

「駄目でしょ。食べ物を粗末に扱っちゃ」
「めーぇっ」
「駄目ですよ、そんな怒り方じゃ」

最近は叱ったって堪えねぇんだから、と。呆れたイルカの前で、サクヤがしかつめらしい顔をして再びめぇと口にする。目の前で、イルカが眉毛をピクリと跳ね上げた。

「ったく、んなことばっかり言ってたら晩飯抜きだからな」
「いやぁん」
「しかも今夜はラーメンだ」
「うややぁん」

ラーメンという言葉に反応してべそをかいたサクヤに、イルカはしてやったりとばかりの顔をする。麺類に目がないのはイルカに似ているらしい。またたく間に溢れてきた涎がカカシのベストに滴り落ちる。サクヤがカカシの口布を引っ張って、したり顔のイルカを指差した。

「かーっ!!」

なんとか言ってくれということだろう。サクヤにめっぽう甘いカカシだが、ここで援護射撃しては後々面倒なことになるのは目に見えている。
それに、カカシが家に戻ってきたときのイルカの様子のほうが気にかかった。

「何かありましたか?」
「な、なにかって…」

ギクリ。傍目にもあからさまにイルカが狼狽えて視線をさまよわせる。
こんな時、忍のくせにウソを付くのが本当に下手だなぁなんて笑ってしまうのだけれど、わかりやすいのはカカシにとってはありがたい。
ほっぺたをぷくっと膨らませたままのサクヤを宥めながら座り込むと、イルカも諦めたように畳に腰を下ろした。

「実は」
「ん」

畳の目をひっかきながら、言いよどむ。イルカの目元に小さな裂傷を見つけてカカシの瞳は剣呑な光を帯びた。

「公園デビューをしたんです」
「こうえんでびゅー……?」

棒読みだったのは、あまりにも言い慣れない言葉だったからだ。
小首をかしげたカカシに、イルカがきまり悪そうに鼻の頭を掻いた。

「サクヤも活動的になってきたし、そろそろ家の中だけじゃ退屈するんじゃないかなって思いまして」

忍犬が走り回れるほどの敷地は十分にあるとはいえ、早いうちから遊具に触れさせるのは知的好奇心を育むのに丁度いいと判断したのだろう。

「あ〜、その……川向の公園まで……」

どうして。
そう問いかけるのを思いとどまったのは、イルカが聞いてくれるなとばかりに目をそらしたからだ。
表立ってカカシに訴えることはないが、イルカがくノ一連中から目に見えぬ嫌がらせの類を受けているらしいことはカカシも薄々は気づいていた。近場の公園ではなく足を伸ばして人気の少ない公園を目指したのは、主婦連中の井戸端会議の餌食にされるのを避けたのだ。

「ちがうんですよっ! 近場の公園だと人も多いし、万が一のことがあったらって………」

カカシの視線に気づいたイルカが慌てて言い繕って、それからハッとして天を仰いだ。

「そういや国境付近でサクヤのチャクラを感じましたが、公園でもふっとばしましたか」
「ひっ……いえ……、さすがにそこまでは………」

保育園や暗部棟を壊滅状態にした前科者のサクヤだ。そこそこの事案では驚かないとはいえ、イルカの意気消沈ぶりが気にかかる。

「やーのっ」

消え入るようなイルカの声とは別に、腕の中で大人しく話を聞いていたサクヤが一丁前に文句を口にした。

「イルカ先生?」

イルカと言えば、額を抑えながら「あ〜」だの、「う〜」なんて一通り唸っていたが、カカシに促されて重い口を開いた。

「す、砂場をプールにしちまいまいて……」
「なんでまた」

おかしな話だ、とはもう思わない。
両親ともに水遁使いだから、水の扱いに長けているのはすでにわかっている。
問題はなぜ砂場を水浸しにしたかなのだ。
ここでカカシは腕の中のサクヤをちらりと見下ろした。イルカにこってりと怒られたはずなのに、ちっとも堪えていないどころかカカシに何かを訴えるように唇を尖らせている。ということは、サクヤには(全うかどうかは別にして)理由があるということだろう。それとは反対に、イルカの言いよどんだ口調はいったい。

「遊びというには度が過ぎていますよねぇ」
「はぁ…」
「いー、めぇの」
「なに告げ口しようとしてんだよ、だいたいお前がっ」
「サクヤがなんですか」
「うっ……その………」

追求されて面白いほどに狼狽えたイルカがあからさまに視線をそらしたときだった。

「ごめんくださ〜い。あ、イルカさ〜んっ!!」

しっとりとした優しい声色。開け放たれた障子へ視線を向ければ、庭先から小さな子供を抱いた女が手を振っていた。

「かなえさんっ! と、たまきちゃん」
「たまー」

サクヤが腕の中でわしわしと動き、緩んだ腕の隙間から飛び出していく。縁側で一度止まって、尻から庭へと降りていった。

「こらっ! サク、裸足のまんまでっ!」

はいはいなのだから裸足も靴もないだろう。とは突っ込まずに、慌てて追いかけたイルカの跡を追う。

「先程はすみません。上着やベストまで借りてしまって」
「いえいえ、風邪ひかれませんでしたか?」
「丈夫なだけがとりえですから。それにしても局地的な大雨でしたね。あんなこと初めてで、びっくりしちゃいました」
「あはは〜………」
「それにね。実は私、忍服なんて着たの初めてだったからちょっとわくわくしました」

なんてね、なんてチャーミングな微笑みを浮かべた女が手渡したのは、紛れもなくイルカの支給服で。

「……どういうこと?」

思わず口にしたカカシに、イルカがでれっでれの笑顔で振り返った。

「この方は、さっき公園で知り合いになった……」
「橋爪かなえです。この子はたまきといいます」
「どーも」
「サクヤくんのパパさんですか? びっくりするほど似ていらっしゃいますね」

にこにこ。邪気のない笑顔にすうっと目を細めた。

「目元は先生に似ているでしょう?」
「は?」
「ほら、黒目が潤んでいるところなんてまさに生き写し」

芝生に転がっているサクヤを抱き上げてかなえの目線の先まで持ってくる。
イルカが慌ててカカシの手からサクヤを奪い取った。

「ななななにをおっしゃっているんですかっ」
「なにって、本当のことじゃ……」
「あ────っ! これ、わざわざ持ってきてくださったんですねっ!?」
「一般人が持ってちゃいけないものなのかなって思って、急いで洗濯と乾燥機にかけちゃいました」
「いやぁ、いつでもよかったんですよ、こんなもんっ」

一応支給服なんだから、そんなわけないでしょ。
口にしようとして、イルカの腕の中でサクヤが思い切り眉を顰めているのに気づいた。

「なんなら、またあの公園であった時にでも」
「そんな! いつお会いできるかわからないのにっ。あ、今度は待ち合わせなんてしちゃいましょうか」
「いいですねっ。連絡は式を飛ばして…って、んなわけにはいかないか」
「やだ。イルカさんったら」

楽しげな会話に、カチンッと微かな音が響いた。

「めぇ」
「……サクヤ、だめだーよ」

辺りを覆った物騒な気配にイルカがぎくりと腕の中の小さな子供を見やる。
でもそれよりも、全身が総毛立つようなチャクラをまとわせたカカシの姿にイルカがひぃっと小さく悲鳴をあげた。

「こんなところじゃなんだから、部屋に上がってもらったどうですか?」
「いえ……それは……」

笑顔を浮かべたままそう言ったカカシに、イルカが顔をひきつらせて首を横に振る。

「私も今からお買い物に行かなくちゃいけないんで」
「そそそうですかっ」
「えぇ、ではまた! サクヤくん、たまきと遊んであげてね」
「あい」

にこりと笑んで、かなえがさっそうと踵を返す。
その後姿を見送りながら、カカシはポンっとイルカの肩を叩いた。

「とりあえず、今晩ベッドの中でじっくり聞きましょうか」
「ぷうっ」

ずぅんとばかりに音がしそうな二人を前に、イルカががっくりと肩を落としたのは言うまでもない。
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