一面が茜色に染まる空を見上げる時、いつも思い出す。
『この戦から生きて戻って来られたらーーー・・・』
第四次忍界大戦。
この世界に起こった未曾有の危機に、戦場へと旅立つあの人が口にした別れ際のセリフ。
返事を聞かぬまま、彼は死神が手をこまねく戦場へ。
そして、イルカはナルトを島に留めるための説得という後方での任務を与えられた。
自分の力が戦力として乏しいということなんて、嫌というほどわかってる。
けれど隣に、なんて言わないから。
最前線に立つあの人の、せめて傍にいられたらーーーと。
あの時ほど切実に思ったこともなかっただろう。
戦忍と内勤とでは、負うリスクが違いすぎる。
結局また自分は一人置いて逝かれるのだ。
忍びとして、自分が思っていた以上に長く生かされてきたけれど、終戦後の今もまだその先は見えない。
次は火影として全ての忍びの矢面に立つ人。
つまりその身は誰より先に矢を受ける盾となる。
だからそれを逆手に取って逃げまわっている事を、聡いあの人がどう思っているかなんて容易に想像がつく。
誰よりも優しくて、その優しさゆえにけしてこの手を強引に掴もうとはしない。
でもその優しさはーーー。
「・・・臆病者」
見上げた空にそう呟く。
彼も、そして自分も。
一歩踏み出すことすら出来やしないのに、今日も言い訳を口にして、気づかないふりで毎日を過ごす。
返事は何時までたっても保留のままだ。
それで良い。
それが最良の選択なのだからと、信じてーーー。
*****
けして華々しい披露式典ではなかった。
復興に喘ぐ木の葉の里はいまだ疲弊していたし、六代目となるカカシ自身もあまり派手な事を好む人でもなかったから、儀式は淡々と簡潔に進められた。
「でもよぉ」
「・・・?」
頭上を見上げて口を開くイワシが、呆れたように溜息を付きながらボヤく。
「火影様のマントぐらいなんとかならなかったのかよ・・・」
遠目からでは見えないが、つぎはぎで貼り付けられた『六』の文字を思い出し思わず苦笑した。
「まぁ、急だったし」
「それでも、あのはたけ上忍だぜ?」
「うん」
「写輪眼がなくなろうと、あの人が里にどれだけ貢献したと思ってんだよ」
「そうだな」
憤るイワシに頷いて、間に合わなかった衣装を身に纏うカカシの姿を見上げた。
構わないよ。
そう言って笑った顔が脳裏をよぎる。
全てに対して執着を感じることはない。
まるで任務をこなすかのように、今度は【火影】という与えられた役目を全うする。
そこに自分の我を通す事など許されないと言うように。
呆れるぐらいの自己犠牲。
忍びの性が、身体の芯にまで染み付いているのだ。
「お前、火影直属補佐官の指名とかきてねぇのかよ?」
「ーー来るわけねぇだろ」
「嘘だろ? 絶対指名されると思ってたのに」
「何言ってんだよ。・・・俺は今まで通りアカデミー教師と受付だよ」
これからもよろしくな、と言ってイワシの肩を叩きながら思う。
そうだ。
火影の権威をもって強引に任命することだって出来たはず。
覚悟はしていたけれど、それは全くの杞憂に終わった。
結局は自分の望みよりもイルカの意思を尊重してくれた結果だろう。
「・・・こんな時まで」
「なんだ?」
思わず口にして、イワシが問い返すのにいいやと首を振った。
こんな時まで、自分の望みは後回しだ。
じゃあ、アンタは一体何を望むんだよ、と。
見上げた先で、手を振るカカシがニコリと微笑むのを見やった。
相変わらず口布で顔の半分は覆ったままだが、その左眼に写輪眼は見当たらない。
こんな目出度い晴れの舞台で、どうしてアンタはそんなに淋しげな眼をしているのか。
一言傍にと言ってくれたなら・・・。
ふとそんなことを思い、首をふる。
いや、言われたからどうなるというのだ。
結局のところ、また俺は逃げ出すつもりだったんじゃないのか?
自己嫌悪に彼の瞳から目を背けた。
ずっと遠い人だったけれど、もう手の届かない所に行ってしまったのだ。
返事は保留のままで良い。
いや、むしろなかったことにしてしまえば良いと。
そう思い、歓喜に湧く就任式から背を向けた。
・・・もう二度と、その瞳の奥に炎を見ることも、自分がその中で焼かれる事もない。
*****
白米と味噌汁、そして少しばかりの漬物という簡素な朝食を口にしながら、アカデミーのスケジュールや書類の提出期限などがみっちりと書かれたカレンダーを見つめた。
「・・今日は報告所か」
誰に話すわけでもなく呟いて、ゆっくりと咀嚼する。
日付の経過した米は固く少し変色していたけれど、食べられないこともない。
つい多めに炊いてしまう癖をそろそろ止めないとと思いながらも、もうどれぐらい経っただろう。
「夜はお茶漬けだな」
呟いて、味噌汁を啜った。
忍びといえど、内勤であるイルカの一日の始まりはいつもこんなものだ。
水屋に貼り付けたカレンダーの日付を追って溜息をつく。
薄い鉛筆で印付けられた日付は、もう目前に迫っていた。
*****
「はい、確認しました。お疲れ様です」
ニコリと微笑みながら、済印を押して提出箱に入れる。
「次の任務まで上忍待機所にてお待ち願えますか?」
「うへぇ~、休みなしかよっ」
「申し訳ありません、こんな時なもんで」
「でもなぁ、ちょっと人使い荒くないか? 任務も立て続けで・・っと・・」
疲れから、つい文句を言おうとした上忍が報告所に入ってきた人物を見て慌てて口を閉ざす。
そんな仕草につい口元が緩んだ。
「では、任務依頼書が纏まりましたら待機所までお持ちします」
「おうっ、頼む」
一礼し、そそくさと去る上忍を横目に、イルカの前に立ったカカシが一枚の紙を差し出した。
「これ・・、不備がありました」
「・・・六代目」
「お願いします」
「あの、わざわざ持って来られなくても呼んでいただければ伺いますから」
「だって、どうせイルカ先生は来ないでしょ」
「・・・・・」
指摘されて思わず口を噤んだ。
カカシが火影に就任してから、二人きりで会うことを避けていた。
いや、厳密に言えば飛鯱丸の襲撃事件よりカカシが戻ってきてからだ。
「とにかく、火影様が仕事を置いてこんなところまでのこのこ来られては・・・」
机の上に山積みにされた書類の束を嘆く補佐官達の顔を思い浮かべて眉を顰める。
復興と、これから里をどう導いていくかの指針。それを同時にこなしながらもどうやら人知れず任務にも出ているらしいと耳にしたのはついこの間のこと。
久方ぶりに見るその顔は変わらず端正ではあったが、どことなく疲労も滲んでいるように思えた。
「・・火影様、ねぇ・・」
「なんですか?」
「・・いえ、別に」
随分他人行儀だねと、言外に匂わされた気がして怯んだ。
しかし、見上げたカカシは元々猫背気味の背を更に丸めた姿で、項垂れて書類を差し出したままだ。
「ではお預かりして、訂正後届けにあがります。申し訳ありませんでした」
「先生が持ってくるの?」
「それは・・・」
「・・・・・」
言葉を濁して逃げようなんて許してはくれないらしい。
書類を受け取り、答えを聞くまで帰らないとでも言うように立ち尽くしたカカシに溜息をつく。
「六代目」
「・・・・」
「ろく・・」
「カカシって、もう呼んでくれないんですね」
「それは・・・・・」
「相変わらず真面目でお固いね、イルカ先生」
ガリガリと銀髪を掻いて、カカシが呆れたように呟く。
すうっと細められた瞳は一瞬にして為政者のそれに変わっていて、浴びせられた辛辣な言葉に唇を噛んだ。
お固い。
いつも言われていた言葉だけれど、そんな冷たい響きを含んで口にされたことはなかった。
じゃあどう呼べば良いというのだろう。
立場も、地位も、以前とは全て変わってしまったというのに。
「・・・・・・」
踵を返すカカシの背中から視線をそらし、イルカは手にした書類を確認するべくペンを取った。
二人のやりとりに耳をそばだたせていた報告所の面々も、一様にして作業を再開する。
少しばかりのざわめきを取り戻した空間で、イルカは誰にも気付かれないように奥歯を噛みしめるのだった。
*****
結局、書類は受付の別の中忍に預けた。
あれからカカシが報告所に現れることもなく、日々は変わらずに過ぎていく。
「おーいッ! イルカ先生~ッ!!」
アカデミーでの演習を終えて、戻る途中の裏庭で懐かしい声に振り返った。
見れば一回りも二回りも逞しく、頼もしくなったナルトが手を振りながら駆けてくる。
「ナルトッ! いつ戻ってきたんだ?」
「・・・っ、さっきだってばよ。一息ついたらまた里外だってば」
サスケが長期任務から戻ってきてんのに、ゆっくり話をする暇もないと頬を膨らませるナルトに笑った。
「今は猫の手も借りたい時期だから辛抱してくれ」
「カカッ先生がこき使うんだってッ!」
「そういうなよ。六代目だって休んでおられないぞ」
「しかもちゃんと書類書けって・・」
「おいおい」
「めちゃくちゃ厳しんだってばよぉ」
「任務報告書の書き方は下忍時代にちゃんと習っただろ?」
「そうだっけ?」
わかんないよ。完了してればそれでいいじゃんと呟くナルトに頭を抱える。
残念ながら逞しくなったのは身体だけのようだ。
「火影を目指すんなら、そんなこともキチンと出来るようにならなきゃ駄目だぞ」
「・・・それ、カカシ先生にも言われた」
「この里で、あの人ほど文武両道な人はいないからな」
頷いて、唇を尖らすナルトの頭を撫ぜた。
なんだかんだでできる男は違う。
「火影様が見習うべき直属の上司で良かったじゃねーか」
「ま、そーなんだけど」
どこか得意気な顔のナルトがニシシと笑う。
「ところで先生これから暇か?」
「なんだ?」
「任務に出る前に、せめて一楽で腹ごしらえしてからって思ってよ」
「あー・・・残念だが、俺はこれからまだ授業だ」
「ちぇー、イルカ先生も忙しいんだな」
「お前には俺が暇してるように見えるか?」
以前と変わらず悪戯っ子のような顔で笑うナルトの頭をコツンと叩いた。
どんなに強くなったとて、昔からの関係は変わらない。
「今度帰ってきたら絶対な」
「約束だってばよ」
「あぁ」
ニヤリと笑うナルトが、そういやとポケットからぐしゃぐしゃになった報告書を差し出す。
「これって、イルカ先生に渡しても良いのかよ?」
「お前なぁ・・」
書類は丁寧に等、色々突っ込みどころ満載の報告書を受け取って、ふと気づく。
受付には回ってこないそれは。
「これ・・・火影様の勅命か?」
「あぁ、暗部と一緒の任務だってばよ」
「そうか」
「俺が行かなきゃカカシ先生が自分で行っちゃうってば」
「・・・・・」
やはり任務に出ているのかと、内心で溜息が漏れる。
いったい何時眠っていることやら。
「そういやイルカ先生ってば最近カカシ先生に会ってないのか?」
「・・・まぁな」
ふぅんと呟くナルトに曖昧に頷いた。
受け取った手前書類を突き返すわけにもいかず、しわくちゃになった報告書を手につい押し黙ってしまう。
「イルカッ!! そろそろ授業始まるぞ」
不意にかけられた声に振り返ると、同僚がアカデミーの廊下から手をあげていた。
「んじゃあ俺一楽行ってくっから、それ渡しといてくれってば」
「お、おいッ」
「カカッ先生によろしくッ」
手を振って駆け出すナルトに、慌てて声をかけた。
「ちゃんと火影様と呼べよッ!!」
「わかったってばよっ」
みるみるうちに小さくなっていく背中に少しの寂しさを感じながら、イルカは成長した教え子の姿に知らず笑みが溢れるのだった。
*****
「・・・・・」
炊飯器の中にまだ残っている米を見つめて黙り込んだ。
やはり炊きすぎてしまった米は数日は残ってしまうし、またしてもお茶漬けしかないと思い、湯を沸かすべく薬缶に水を注ぐ。
その前に風呂かなと忍服に手をかけた所で、ポケットの中でカサリと音がなった。
「あ・・・」
なんだと探ったポケットの中で、昼間ナルトから預かった報告書に声が漏れた。
あの後の授業で子供が一人怪我をして、うっかり忘れてしまっていた。
「・・しまった」
炊飯器と薬缶、そして水屋に貼り付けたカレンダーの順に視線を動かすと、日付の横に書かれた薄い印に目を留めて、時計を振り返った。
カチカチと動く針の音がやけに大きく耳に響く。
ゴクリと喉を鳴らし、手にした報告書を持つ指に力が入った。
「・・・っ・・!!」
駈け出したのは衝動に駆られたから。
こんな時間まで居るはずがない。そう頭では思うのに、絶対に居るはずだと心が知ってる。
ノックもせずに開いた扉の先で、少しだけ驚いたように瞳を開いたカカシを前に、イルカは肩で息をしながら火影室に飛び込んだ。
「・・せんせっ・・えっ?」
「ほ、報告書を、提出し忘れまして・・」
「・・・・・」
「ナルトから預かって・・」
「ーーーあぁ」
立ち上がっていたカカシが、頷いて椅子に腰を下ろす。
山積みの書類は一向に減ることもなく増えるばかりのようだ。
「明日でも構わなかったのに」
「構います」
「・・・やっぱり先生は真面目・・」
「構うんですッ!」
苦笑しながらそう言ったカカシの言葉を、強い口調で遮った。
今日でなくては。
だって。
だって今日はーーー。
ポカンとするカカシに、ポケットから引っ張りだした報告書を机の上に叩きつける。
元々しわくちゃだった紙は、さらによれて酷い有様だった。
「ナルトのやつ、またこんなめちゃくちゃに・・」
「ーーー・・カカシ、さん」
カカシが困ったように笑いながら触れようとした書類ごと、その手を掴んだ。
触れた指先がピクリと震えるのにも構わずに握りしめ、今はもう赤くもない瞳を見つめた。
見開かれたその瞳の奥の自分の顔が、あまりに必死で情けなくなったけれど、暴走する感情に歯止めがきかなくて。
「・・・何度も諦めようと思いました」
何の脈絡もなく口走った言葉に、カカシが首を傾げた。
「ーーー・・・え・・?」
「あなたはもう俺の手の届かないところまで上りつめちまったってのに、俺は今も変わらず教師で中忍のままで」
「・・・・・」
「あんな約束するんじゃなかった。立場が違う、何度も忘れよう、無かったことにしようってーーー」
「・・それって」
「もう二度と、置いて逝かれるのも、大事な人を待ち続けなくちゃいけないのにも・・、耐えられないから」
「イルカ先生」
そう言ったイルカの手を、カカシが逆にキツく握りしめた。
凪のよう穏やかだった瞳の奥に、揺れる炎が立ち昇るのをイルカは歓喜に震えながら唇を開く。
だけど、と続けられた言葉は、固唾を呑んで耳を傾けるカカシに降り注いた。
「・・・ナルトがサスケを諦めなかったように、俺もあなたを諦めるのを諦めようと思います」
絞り出した言葉に、カカシが息を飲む音が聞こえた。
一瞬のうちに力いっぱい抱きすくめられて、息苦しさに背中を叩くと、上気した白皙の美貌に射すくめられる。
口付けされそうになって、寸でのところで掌で唇を覆った。
「ーー・・イルカ・・・ッ・・・」
「一つだけ、確認させて下さい」
「・・・・?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられる腕の中、気がかりだったもう一つのことを口にする。
「・・・文を交わす女性がいらっしゃると・・」
「ーーーーー・・誰がそんな」
「サクラや、子供たちが」
途端に苦虫を噛み潰した顔になったカカシが、眉を顰めて溜息を付いた。
「・・・あいつら・・」
「ーー嘘では無いですよね?」
飛鯱丸襲撃後の采配は周知の事実だ。
火のない所に煙はたたないと言うように、ただの噂話ではないと知ってる。
「彼女のことは、イルカ先生が気に病むことなんて何もありませんよ」
「・・本当に・・?」
「何のために今まで独り身だったと思ってんですか」
言い募るカカシの表情が真実を告げている。
意地悪はここまでだと、少し固めの銀髪に指を絡めて軽く引っ張った。
「あなたは本当に欲しい物を口にしないから」
「えーー・・?」
優しすぎて、自分でも気づかぬうちに先回りして相手のことを考えて行動してしまう。
それが幼い頃のトラウマか何か知らないけれど、それ故に何度も歯痒い思いを味わった。
だけど今日ぐらいは。
「わがまま言っても良いんですよ」
そう言って、口布越しのキスをする。
へにゃりと下がる眉が百戦錬磨の上忍とは思えなくて、子供のように抱き寄せて、輝く銀髪に顔を埋めた。
「欲しいものは欲しいって言わなきゃ手に入らんもんです」
「ーー・・良いの?」
「どうぞ」
繋いだこの手を離すまいと、もう覚悟を決めたのだ。
「・・・オレを甘やかすとつけあがるよ」
「あなたこそ、こんなモサイ男で良いんですか?」
「・・あなたが良いって最初から言ってるでしょ」
だから傍にいてーーと、肩口から聞こえる少し拗ねたような呟きに微笑んで頷いた。
「今日は特別な日なので」
「・・・・?」
訝しむカカシの眼の前でカレンダーを指さし、ニカリと笑う。
9月15日
日付の変わる少し前。
月明かりの中、「誕生日おめでとうございます」の言葉とともに、二つの影は重なりあって消えた。
『この戦から生きて戻って来られたらーーー・・・』
第四次忍界大戦。
この世界に起こった未曾有の危機に、戦場へと旅立つあの人が口にした別れ際のセリフ。
返事を聞かぬまま、彼は死神が手をこまねく戦場へ。
そして、イルカはナルトを島に留めるための説得という後方での任務を与えられた。
自分の力が戦力として乏しいということなんて、嫌というほどわかってる。
けれど隣に、なんて言わないから。
最前線に立つあの人の、せめて傍にいられたらーーーと。
あの時ほど切実に思ったこともなかっただろう。
戦忍と内勤とでは、負うリスクが違いすぎる。
結局また自分は一人置いて逝かれるのだ。
忍びとして、自分が思っていた以上に長く生かされてきたけれど、終戦後の今もまだその先は見えない。
次は火影として全ての忍びの矢面に立つ人。
つまりその身は誰より先に矢を受ける盾となる。
だからそれを逆手に取って逃げまわっている事を、聡いあの人がどう思っているかなんて容易に想像がつく。
誰よりも優しくて、その優しさゆえにけしてこの手を強引に掴もうとはしない。
でもその優しさはーーー。
「・・・臆病者」
見上げた空にそう呟く。
彼も、そして自分も。
一歩踏み出すことすら出来やしないのに、今日も言い訳を口にして、気づかないふりで毎日を過ごす。
返事は何時までたっても保留のままだ。
それで良い。
それが最良の選択なのだからと、信じてーーー。
*****
けして華々しい披露式典ではなかった。
復興に喘ぐ木の葉の里はいまだ疲弊していたし、六代目となるカカシ自身もあまり派手な事を好む人でもなかったから、儀式は淡々と簡潔に進められた。
「でもよぉ」
「・・・?」
頭上を見上げて口を開くイワシが、呆れたように溜息を付きながらボヤく。
「火影様のマントぐらいなんとかならなかったのかよ・・・」
遠目からでは見えないが、つぎはぎで貼り付けられた『六』の文字を思い出し思わず苦笑した。
「まぁ、急だったし」
「それでも、あのはたけ上忍だぜ?」
「うん」
「写輪眼がなくなろうと、あの人が里にどれだけ貢献したと思ってんだよ」
「そうだな」
憤るイワシに頷いて、間に合わなかった衣装を身に纏うカカシの姿を見上げた。
構わないよ。
そう言って笑った顔が脳裏をよぎる。
全てに対して執着を感じることはない。
まるで任務をこなすかのように、今度は【火影】という与えられた役目を全うする。
そこに自分の我を通す事など許されないと言うように。
呆れるぐらいの自己犠牲。
忍びの性が、身体の芯にまで染み付いているのだ。
「お前、火影直属補佐官の指名とかきてねぇのかよ?」
「ーー来るわけねぇだろ」
「嘘だろ? 絶対指名されると思ってたのに」
「何言ってんだよ。・・・俺は今まで通りアカデミー教師と受付だよ」
これからもよろしくな、と言ってイワシの肩を叩きながら思う。
そうだ。
火影の権威をもって強引に任命することだって出来たはず。
覚悟はしていたけれど、それは全くの杞憂に終わった。
結局は自分の望みよりもイルカの意思を尊重してくれた結果だろう。
「・・・こんな時まで」
「なんだ?」
思わず口にして、イワシが問い返すのにいいやと首を振った。
こんな時まで、自分の望みは後回しだ。
じゃあ、アンタは一体何を望むんだよ、と。
見上げた先で、手を振るカカシがニコリと微笑むのを見やった。
相変わらず口布で顔の半分は覆ったままだが、その左眼に写輪眼は見当たらない。
こんな目出度い晴れの舞台で、どうしてアンタはそんなに淋しげな眼をしているのか。
一言傍にと言ってくれたなら・・・。
ふとそんなことを思い、首をふる。
いや、言われたからどうなるというのだ。
結局のところ、また俺は逃げ出すつもりだったんじゃないのか?
自己嫌悪に彼の瞳から目を背けた。
ずっと遠い人だったけれど、もう手の届かない所に行ってしまったのだ。
返事は保留のままで良い。
いや、むしろなかったことにしてしまえば良いと。
そう思い、歓喜に湧く就任式から背を向けた。
・・・もう二度と、その瞳の奥に炎を見ることも、自分がその中で焼かれる事もない。
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白米と味噌汁、そして少しばかりの漬物という簡素な朝食を口にしながら、アカデミーのスケジュールや書類の提出期限などがみっちりと書かれたカレンダーを見つめた。
「・・今日は報告所か」
誰に話すわけでもなく呟いて、ゆっくりと咀嚼する。
日付の経過した米は固く少し変色していたけれど、食べられないこともない。
つい多めに炊いてしまう癖をそろそろ止めないとと思いながらも、もうどれぐらい経っただろう。
「夜はお茶漬けだな」
呟いて、味噌汁を啜った。
忍びといえど、内勤であるイルカの一日の始まりはいつもこんなものだ。
水屋に貼り付けたカレンダーの日付を追って溜息をつく。
薄い鉛筆で印付けられた日付は、もう目前に迫っていた。
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「はい、確認しました。お疲れ様です」
ニコリと微笑みながら、済印を押して提出箱に入れる。
「次の任務まで上忍待機所にてお待ち願えますか?」
「うへぇ~、休みなしかよっ」
「申し訳ありません、こんな時なもんで」
「でもなぁ、ちょっと人使い荒くないか? 任務も立て続けで・・っと・・」
疲れから、つい文句を言おうとした上忍が報告所に入ってきた人物を見て慌てて口を閉ざす。
そんな仕草につい口元が緩んだ。
「では、任務依頼書が纏まりましたら待機所までお持ちします」
「おうっ、頼む」
一礼し、そそくさと去る上忍を横目に、イルカの前に立ったカカシが一枚の紙を差し出した。
「これ・・、不備がありました」
「・・・六代目」
「お願いします」
「あの、わざわざ持って来られなくても呼んでいただければ伺いますから」
「だって、どうせイルカ先生は来ないでしょ」
「・・・・・」
指摘されて思わず口を噤んだ。
カカシが火影に就任してから、二人きりで会うことを避けていた。
いや、厳密に言えば飛鯱丸の襲撃事件よりカカシが戻ってきてからだ。
「とにかく、火影様が仕事を置いてこんなところまでのこのこ来られては・・・」
机の上に山積みにされた書類の束を嘆く補佐官達の顔を思い浮かべて眉を顰める。
復興と、これから里をどう導いていくかの指針。それを同時にこなしながらもどうやら人知れず任務にも出ているらしいと耳にしたのはついこの間のこと。
久方ぶりに見るその顔は変わらず端正ではあったが、どことなく疲労も滲んでいるように思えた。
「・・火影様、ねぇ・・」
「なんですか?」
「・・いえ、別に」
随分他人行儀だねと、言外に匂わされた気がして怯んだ。
しかし、見上げたカカシは元々猫背気味の背を更に丸めた姿で、項垂れて書類を差し出したままだ。
「ではお預かりして、訂正後届けにあがります。申し訳ありませんでした」
「先生が持ってくるの?」
「それは・・・」
「・・・・・」
言葉を濁して逃げようなんて許してはくれないらしい。
書類を受け取り、答えを聞くまで帰らないとでも言うように立ち尽くしたカカシに溜息をつく。
「六代目」
「・・・・」
「ろく・・」
「カカシって、もう呼んでくれないんですね」
「それは・・・・・」
「相変わらず真面目でお固いね、イルカ先生」
ガリガリと銀髪を掻いて、カカシが呆れたように呟く。
すうっと細められた瞳は一瞬にして為政者のそれに変わっていて、浴びせられた辛辣な言葉に唇を噛んだ。
お固い。
いつも言われていた言葉だけれど、そんな冷たい響きを含んで口にされたことはなかった。
じゃあどう呼べば良いというのだろう。
立場も、地位も、以前とは全て変わってしまったというのに。
「・・・・・・」
踵を返すカカシの背中から視線をそらし、イルカは手にした書類を確認するべくペンを取った。
二人のやりとりに耳をそばだたせていた報告所の面々も、一様にして作業を再開する。
少しばかりのざわめきを取り戻した空間で、イルカは誰にも気付かれないように奥歯を噛みしめるのだった。
*****
結局、書類は受付の別の中忍に預けた。
あれからカカシが報告所に現れることもなく、日々は変わらずに過ぎていく。
「おーいッ! イルカ先生~ッ!!」
アカデミーでの演習を終えて、戻る途中の裏庭で懐かしい声に振り返った。
見れば一回りも二回りも逞しく、頼もしくなったナルトが手を振りながら駆けてくる。
「ナルトッ! いつ戻ってきたんだ?」
「・・・っ、さっきだってばよ。一息ついたらまた里外だってば」
サスケが長期任務から戻ってきてんのに、ゆっくり話をする暇もないと頬を膨らませるナルトに笑った。
「今は猫の手も借りたい時期だから辛抱してくれ」
「カカッ先生がこき使うんだってッ!」
「そういうなよ。六代目だって休んでおられないぞ」
「しかもちゃんと書類書けって・・」
「おいおい」
「めちゃくちゃ厳しんだってばよぉ」
「任務報告書の書き方は下忍時代にちゃんと習っただろ?」
「そうだっけ?」
わかんないよ。完了してればそれでいいじゃんと呟くナルトに頭を抱える。
残念ながら逞しくなったのは身体だけのようだ。
「火影を目指すんなら、そんなこともキチンと出来るようにならなきゃ駄目だぞ」
「・・・それ、カカシ先生にも言われた」
「この里で、あの人ほど文武両道な人はいないからな」
頷いて、唇を尖らすナルトの頭を撫ぜた。
なんだかんだでできる男は違う。
「火影様が見習うべき直属の上司で良かったじゃねーか」
「ま、そーなんだけど」
どこか得意気な顔のナルトがニシシと笑う。
「ところで先生これから暇か?」
「なんだ?」
「任務に出る前に、せめて一楽で腹ごしらえしてからって思ってよ」
「あー・・・残念だが、俺はこれからまだ授業だ」
「ちぇー、イルカ先生も忙しいんだな」
「お前には俺が暇してるように見えるか?」
以前と変わらず悪戯っ子のような顔で笑うナルトの頭をコツンと叩いた。
どんなに強くなったとて、昔からの関係は変わらない。
「今度帰ってきたら絶対な」
「約束だってばよ」
「あぁ」
ニヤリと笑うナルトが、そういやとポケットからぐしゃぐしゃになった報告書を差し出す。
「これって、イルカ先生に渡しても良いのかよ?」
「お前なぁ・・」
書類は丁寧に等、色々突っ込みどころ満載の報告書を受け取って、ふと気づく。
受付には回ってこないそれは。
「これ・・・火影様の勅命か?」
「あぁ、暗部と一緒の任務だってばよ」
「そうか」
「俺が行かなきゃカカシ先生が自分で行っちゃうってば」
「・・・・・」
やはり任務に出ているのかと、内心で溜息が漏れる。
いったい何時眠っていることやら。
「そういやイルカ先生ってば最近カカシ先生に会ってないのか?」
「・・・まぁな」
ふぅんと呟くナルトに曖昧に頷いた。
受け取った手前書類を突き返すわけにもいかず、しわくちゃになった報告書を手につい押し黙ってしまう。
「イルカッ!! そろそろ授業始まるぞ」
不意にかけられた声に振り返ると、同僚がアカデミーの廊下から手をあげていた。
「んじゃあ俺一楽行ってくっから、それ渡しといてくれってば」
「お、おいッ」
「カカッ先生によろしくッ」
手を振って駆け出すナルトに、慌てて声をかけた。
「ちゃんと火影様と呼べよッ!!」
「わかったってばよっ」
みるみるうちに小さくなっていく背中に少しの寂しさを感じながら、イルカは成長した教え子の姿に知らず笑みが溢れるのだった。
*****
「・・・・・」
炊飯器の中にまだ残っている米を見つめて黙り込んだ。
やはり炊きすぎてしまった米は数日は残ってしまうし、またしてもお茶漬けしかないと思い、湯を沸かすべく薬缶に水を注ぐ。
その前に風呂かなと忍服に手をかけた所で、ポケットの中でカサリと音がなった。
「あ・・・」
なんだと探ったポケットの中で、昼間ナルトから預かった報告書に声が漏れた。
あの後の授業で子供が一人怪我をして、うっかり忘れてしまっていた。
「・・しまった」
炊飯器と薬缶、そして水屋に貼り付けたカレンダーの順に視線を動かすと、日付の横に書かれた薄い印に目を留めて、時計を振り返った。
カチカチと動く針の音がやけに大きく耳に響く。
ゴクリと喉を鳴らし、手にした報告書を持つ指に力が入った。
「・・・っ・・!!」
駈け出したのは衝動に駆られたから。
こんな時間まで居るはずがない。そう頭では思うのに、絶対に居るはずだと心が知ってる。
ノックもせずに開いた扉の先で、少しだけ驚いたように瞳を開いたカカシを前に、イルカは肩で息をしながら火影室に飛び込んだ。
「・・せんせっ・・えっ?」
「ほ、報告書を、提出し忘れまして・・」
「・・・・・」
「ナルトから預かって・・」
「ーーーあぁ」
立ち上がっていたカカシが、頷いて椅子に腰を下ろす。
山積みの書類は一向に減ることもなく増えるばかりのようだ。
「明日でも構わなかったのに」
「構います」
「・・・やっぱり先生は真面目・・」
「構うんですッ!」
苦笑しながらそう言ったカカシの言葉を、強い口調で遮った。
今日でなくては。
だって。
だって今日はーーー。
ポカンとするカカシに、ポケットから引っ張りだした報告書を机の上に叩きつける。
元々しわくちゃだった紙は、さらによれて酷い有様だった。
「ナルトのやつ、またこんなめちゃくちゃに・・」
「ーーー・・カカシ、さん」
カカシが困ったように笑いながら触れようとした書類ごと、その手を掴んだ。
触れた指先がピクリと震えるのにも構わずに握りしめ、今はもう赤くもない瞳を見つめた。
見開かれたその瞳の奥の自分の顔が、あまりに必死で情けなくなったけれど、暴走する感情に歯止めがきかなくて。
「・・・何度も諦めようと思いました」
何の脈絡もなく口走った言葉に、カカシが首を傾げた。
「ーーー・・・え・・?」
「あなたはもう俺の手の届かないところまで上りつめちまったってのに、俺は今も変わらず教師で中忍のままで」
「・・・・・」
「あんな約束するんじゃなかった。立場が違う、何度も忘れよう、無かったことにしようってーーー」
「・・それって」
「もう二度と、置いて逝かれるのも、大事な人を待ち続けなくちゃいけないのにも・・、耐えられないから」
「イルカ先生」
そう言ったイルカの手を、カカシが逆にキツく握りしめた。
凪のよう穏やかだった瞳の奥に、揺れる炎が立ち昇るのをイルカは歓喜に震えながら唇を開く。
だけど、と続けられた言葉は、固唾を呑んで耳を傾けるカカシに降り注いた。
「・・・ナルトがサスケを諦めなかったように、俺もあなたを諦めるのを諦めようと思います」
絞り出した言葉に、カカシが息を飲む音が聞こえた。
一瞬のうちに力いっぱい抱きすくめられて、息苦しさに背中を叩くと、上気した白皙の美貌に射すくめられる。
口付けされそうになって、寸でのところで掌で唇を覆った。
「ーー・・イルカ・・・ッ・・・」
「一つだけ、確認させて下さい」
「・・・・?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられる腕の中、気がかりだったもう一つのことを口にする。
「・・・文を交わす女性がいらっしゃると・・」
「ーーーーー・・誰がそんな」
「サクラや、子供たちが」
途端に苦虫を噛み潰した顔になったカカシが、眉を顰めて溜息を付いた。
「・・・あいつら・・」
「ーー嘘では無いですよね?」
飛鯱丸襲撃後の采配は周知の事実だ。
火のない所に煙はたたないと言うように、ただの噂話ではないと知ってる。
「彼女のことは、イルカ先生が気に病むことなんて何もありませんよ」
「・・本当に・・?」
「何のために今まで独り身だったと思ってんですか」
言い募るカカシの表情が真実を告げている。
意地悪はここまでだと、少し固めの銀髪に指を絡めて軽く引っ張った。
「あなたは本当に欲しい物を口にしないから」
「えーー・・?」
優しすぎて、自分でも気づかぬうちに先回りして相手のことを考えて行動してしまう。
それが幼い頃のトラウマか何か知らないけれど、それ故に何度も歯痒い思いを味わった。
だけど今日ぐらいは。
「わがまま言っても良いんですよ」
そう言って、口布越しのキスをする。
へにゃりと下がる眉が百戦錬磨の上忍とは思えなくて、子供のように抱き寄せて、輝く銀髪に顔を埋めた。
「欲しいものは欲しいって言わなきゃ手に入らんもんです」
「ーー・・良いの?」
「どうぞ」
繋いだこの手を離すまいと、もう覚悟を決めたのだ。
「・・・オレを甘やかすとつけあがるよ」
「あなたこそ、こんなモサイ男で良いんですか?」
「・・あなたが良いって最初から言ってるでしょ」
だから傍にいてーーと、肩口から聞こえる少し拗ねたような呟きに微笑んで頷いた。
「今日は特別な日なので」
「・・・・?」
訝しむカカシの眼の前でカレンダーを指さし、ニカリと笑う。
9月15日
日付の変わる少し前。
月明かりの中、「誕生日おめでとうございます」の言葉とともに、二つの影は重なりあって消えた。
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