「変わったことは?」

 微かに聞こえた声に、身体を横たえていた太い木の枝から身を起こした。
 月明かりの下でキラキラと輝く銀髪に視線をやり、彼がコソコソと話しかけている小動物に視線を移す。
 あれは…、尊敬してやまないセンパイの使役する忍犬。名前は確かパックンだったか。

「熱っぽかったり、日中ぼうっとしていることもない?」
「…心配症じゃな」
「当然でしょ。それで、どうなの?」

 ずずいっと乗り出す契約主に、使役犬のほうはやや引き気味である。

「変わったことなぞなにも無い。それよりお前のことこそ心配しておったぞ」
「オレ? やだなぁ、先生ったら」
「デレデレと鼻の下を伸ばすな、みっともない」

 ガリガリと頭を掻くカカシに、忍犬がフシュンと呆れたように鼻を鳴らした。

「とにかく、何かあったらすぐに知らせるゆえ」
「わかった。まだ大丈夫そうだから、先生のことはパックンに任せるよ」
「うむ」
「あ、待って」

 踵を返した忍犬の身体を、慌てて引き止めた手が乱暴に掴んだ。

「なんじゃっ!」
「その…、泣いたりしてない?」
「………」

 これには忍犬も答えようが無いのか、両者の間に暫しの沈黙が訪れる。しかし、すぐにカカシがゴメンと口を開いた。

「すぐに戻るからって伝えて」
「………」
「お願い」

 パチンと手を合わせての懇願。里の誉れがなんという姿だろう。これでは忍犬でなくても呆れてしまうというものだ。
 案の定、しかめっ面(をしているように見えた)の忍犬が、垂れた頬を更に垂らして声にならない鳴き声を上げた。

「…心得た」
「ありがと。里に戻ったら、木の葉印の最高級缶詰でお礼するから」
「うむ」

 今度こそ、忍犬が背を向けて走りだす。それを見送ったカカシが、ふらりとこちらを振り返った。

「――で? 盗み聞きとはいい度胸じゃない。テンゾ」

 そこに居るのは知っていたとばかりのセリフに、思わずホールドアップしながら首を振る。気づいたときには既にカカシは目の前だった。


*****


「イルカ先生ですか?」
「まぁね」

 幹を挟んで背中合わせの会話。忍犬を帰した後のカカシと言えば、ぼんやりと月を見上げながら心ここにあらずといった雰囲気だ。

「そんなに心配するようなことでしょうか」
「お前にはわかんないよ」

 少し困ったような、笑いを含んだ返事をどう受け取れば良いのだろう。
 つい先日まで見合い結婚なんてゴメンだとほざいていたその唇が、今では正反対の言葉を紡いでいる。
 番を持たないヤマトには、カカシがどうしてそんなにもイルカに心を砕いているのか理解できない。ましてやここは戦場の最前線だ。のんびり番の心配などしているカカシに苦言を呈するのをぐっと堪えた。

「……発情期は三ヶ月に一度だったかと」

 踏み込んだ発言だとは自覚している。だけど忍犬を戦場に呼びつけてまで番の様子を訊ねるなど全くもって不可解。

「普通のオメガならね」

 つまりイルカは普通のオメガではないということか。
 流石にその先を促すことは出来ずに、視線だけでチラリと背後のカカシを盗み見る。
 気配を感じ取ったのだろう、仕方がないとばかりにカカシが苦笑するのが見えた。

「気になる?」
「そんなことは…」

 気にならないと言えば嘘になる。散々っぱら浮名を流した男が最終的に選んだヒトだ。それも女ではない男のオメガ。そういう眼で見ては行けないと思いつつ、こっそり調べたカカシの想い人は、溌剌とした好青年だった。

「意外と知りたがりだもんねぇ」
「向学心をこんなところで褒めていただけるとは」
「褒めてないんだけど」

 憮然とした声に笑ってしまう。だけどヤマトがイルカを調べたことなどとっくにお見通しなのだろう。その表情には少しばかりの呆れが浮かんでいる。

「……成熟していないからね」

 ポツリと口を開いたカカシの言葉に思わず振り返った。

「…え……?」
「落ち着くまでは傍にいてあげたいの」

 成熟していれば、規則的に訪れるオメガの発情期にあわせて番は休暇を取ればいい話だ。しかし未成熟であるイルカのヒートは突発的で、しかもカカシが長く傍にいないときを狙ったように始まってしまう。精神的なことが関連しているのかもしれないが、専門医に診察を受けてもはっきりとした診断結果は出ないままだ。
 里に居さえすれば、イルカが出すフェロモンの匂いで判断することが出来る。
 問題は、こんなふうに長期に里を離れた場合、すぐには戻ってやれないことが気がかりなだけ。

「それに…」
「まだあるんですか!?」
「なによ、聞きたいって言ったのはお前でしょ」
「………」

 聞きたいなんて一言も言ってはいないが、反論することは経験上許されてはいないので大人しくカカシの言葉に従うことにする。

「泣くのよね、あのヒト」

 そういえば、さっきも忍犬に確認していたか。

「それは……ご馳走様です」
「そういう意味じゃなーいよ」

 てっきり惚気だと思っていたのだが、あぁもうっ! と、頭を抱えたカカシの姿に目を剥いた。

「センパイ?」
「なにがあったか、とか。聞けば良いんだろうけど。……や、これを使えば無理やり聞き出すことも出来るんだけど」
「はぁ」

 指先が、額当てに隠された左目にサラリと触れた。
 だけどため息混じりに天を仰いだカカシが写輪眼をイルカに使うことは多分無い。

「番の過去の話なんて、聞きたくないっていうのが男心ってもんじゃない?」

 数々の浮名を流しながら、この人は何を言っているのだろう。
 はっきり言って、イルカ先生の過去よりセンパイの過去のほうが後ろ暗いのでは? なんて言葉は、敏いヤマトは口にしなかった。

「ぐだぐだ悩むぐらいなら、聞いてスッキリしたいですけど」
「…モテないでしょ、テンゾ」
「センパイに比べたら足元にも及びません」

 しれっと答えたヤマトに、整った顔が力いっぱい嫌そうに歪んだ。

「お前のそういうとこ、キライ」

 呟いたカカシが、遠方で上がった火の手を見てさてとばかりに立ち上がる。月の光に照らされた銀糸の髪に、思わず目を細めた。

「最短でこの任務を終わらせるよ」
「えぇ」
「こき使ってやるから」

 笑いながらそう告げたカカシに小さく頷いて。
 実際死ぬほどこき使われるんだろうなと、これからの激務に思いを馳せるのだった。


***** 


 薄暗い玄関に足を踏み入れ、できるだけ音をたてないように装備を外して寝室へと足を運んだ。
 幼い頃から戦場で育ち、生き死にの狭間で生きてきたカカシの感覚は鋭い。
 上忍師として里内で暮らすようになっても、染み付いた習性というものは簡単には変えられないというのが悲しい現実だ。

「……っ…ぃ、……ッ!!」

 かくして静まり返った室内で発せられた微かな悲鳴に、カカシは慌ててベッドへと駆け寄った。

「イルカせんせ…っ!?」

 普段は朗らかで、表情豊かな男だ。それが今は顔を横切る傷痕は歪み、目尻には滲んだ涙。歯を食いしばり、眉間にシワを寄せたまま眠っている姿に溜息をつく。 

「また泣いてる…」

 番になるまでのイルカがどうやって生きてきたのかを、カカシは知らない。
 もちろん忍の家系だから、安穏と生きてきたわけではないだろうし、実際にイルカは九尾の災厄で両親を失っている。
 庇護すべき両親のいないオメガがどうやって生きてきたか。
 里が守ってくれるとはいえ、細部まで手が回らないことなんて誰でも知っている。
 それに、イルカは以前「子供の頃襲われかけたことがある」と言っていた。

「………」

 出会う前のことを嘆いても仕方ないとわかってはいるが、言い様のない胸の悪さにギリリと奥歯を噛みしめえる。

「泣かないでよ」

 滲んだ涙を指先で拭ってやれば、ビクリと身体を震わせたイルカが目を開いた。

「………ィ、ヤ……ッ!」
「せんせ?」
「い、や――…イヤ……――ッ!」

 凄い勢いで払い除けた腕を強引に掴み取る。夢と現を彷徨うイルカを落ち着かせるべく抱き込めば、腕の中で小さく息を詰める声が聞こえた。
 次いで、スンっと僅かに鼻が鳴る。
 イルカが発情していないから、カカシから発せられる匂いは薄い。何度も確かめるように吸い込んで、漸く落ち着いたようにイルカが顔を上げた。

「……カカシさん…?」
「ん」
「…あの…、おかえりなさい…」
「ただーいま」

 戦場帰りの泥だらけの身体だ。うっかりこのままベッドに横になってしまえば、明日には寝具一式洗濯機に放り込まねばならなくなる。
 それはさすがに面倒だと。カカシが身体を離そうとすれば、いやいやをするようにイルカが縋り付いてきた。

「怖い夢でも見ましたか?」

 知っていて、わざと口にした言葉にイルカがギクリと身体を強張らせる。

「……っ、どうでしょう……」

 躊躇って、それでも答えないイルカに少しばかりの寂しさを感じる。だけどそれをおくびにも出さずに、冷や汗で湿ったイルカの身体を撫ぜた。

「仕方ないな」

 強張ったままの身体を抱えたままベッドの上に転がりこもうとして、布団の中に散乱した衣服にふと気づく。

「あれ?」
「あ…っ!」
「これってオレの支給服…?」
「いや、あの…」
「それも着古してボロボロになったものばかりじゃない」
「………」
「ふっ…、アハハ」

 バツが悪そうに慌てふためくイルカに、声をあげて笑ってしまった。
 さっきまで感じていた寂しさなんて、どうでも良くなってしまう。

「随分と寂しかったんですねぇ」
「――そっ、そんなことありませんっ!!」

 薄暗がりだから。気づかれていないと思っているだろうけど、耳まで真っ赤だよイルカ先生。
 ぐるぐると言い訳を考えているだろうイルカを抱きしめながら、カカシは愛しい番の首筋に顔を寄せた。

「……ぁ、ん……」

 じっと動かなくなったイルカの項に唇を押し付けて匂いを嗅げば、応えるようにふわりと甘い匂いが立ち込める。
 それが、意地っ張りで恥ずかしがり屋なイルカの精一杯の気持ちのようで、愛しさが胸にこみ上げてきた。

「……良い匂い」
「そん、な…嗅がないでくださ……」
「どうして? オレが帰ってきたからこんなに良い匂いさせてんでしょ」
「……っ……」

 蚊の鳴くような声に、喉の奥で含み笑う。
 今はまだ叶わなくとも。
 いつかきっと。
 イルカの口からすべてを話してくれる日がくるだろう。
 そう信じてカカシはくたびれた身体をベッドに横たえるのだ。

 そしてそれは、きっとそう遠くない未来のこと―――。
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