部屋の中に足を踏み入れた瞬間、小さな嗚咽が聞こえた気がして耳を澄ませた。

「・・・・・?」

勘違いかと装備を解き、気配を辿って踏み入れた寝室のベッドの上で、三角座りした膝に顔を埋めているイルカの姿を見つけて傍に駆け寄った。

「せんせ? どうしたの?」
「ーー・・っ、カカ・・さん」

瞬間ガバリと抱きつかれて、思わず後ろに倒れそうになりながらもその身体を抱きかかえる。

「え? な、なに? 何かあった?」
「ーー俺、もう・・どうしたらいいかっ・・」

先ほど聞こえた嗚咽は空耳なんかじゃなかったようだ。
じわりと涙が肩口に染みこむ感覚に目を見張った。しゃくりあげそうになる声をカカシの忍服に押し付け、しがみつく指の力が強くなる。
そんなイルカを抱えたままベッドの端に腰掛けて、黙りこむ背中を軽く叩いた。

「・・イルカ先生?」

一体どうしたというのか。
サクヤの体験入園に、二人して機嫌良く出かけて行った姿を思い出し眉を顰めた。

「保育園で何かありましたか?」
「・・・っ、・・・・」

ピクンと反応する身体が、答えを教えてくれる。
はて。昨日は初日にしてはサクヤがぐずることもなく順調だったのだが。
それにしてもこのイルカの様子は尋常ではない。

「・・サクヤに酷いこと・・、してるんじゃないかって」
「酷い?」
「まだあんなに小さいのに、無理に預けて働くなんて・・俺のエゴで、サクに寂しい思いをさせる必要が本当にあるんでしょうか・・?」
「・・・・・」

ぐすん。肩口に伏せていた顔を上げれば、真っ赤に腫れ上がった瞼から涙がこぼれ落ちた。

「・・・身を斬られるようでした」
「泣いたの?」

コクリと頷くイルカの涙を指先で拭いながら溜息を付いた。
可愛い保育士の腕に抱かれて、終始ご機嫌だった愛息子の姿を思い出す。
困ったものだ。カカシが迎えに行った時は名前を呼んで、漸くずりばいしてやって来るほど園に馴染んでいたというのに。

「差ぁつけるじゃない」
「・・・・?」

普段から家に居ないカカシと、いつも一緒に過ごしているイルカとでは結びつきが違うということか。

「先生はどうしたいの?」

どちらを選んでも構わないよと笑うカカシに、イルカが迷うように視線を彷徨わせる。
実際復帰は少し早いかと思っていたぐらいだ。
イルカが望むなら、五代目に復帰を取りやめる様に嘆願することも厭わない。
そのせいで更に高ランクの任務を負わされることになっても。

「俺は・・・」

揺れる気持ちが、口を重くする。
だけどイルカが一度決めたことを覆さないことも知ってるから、その瞳が決意したような色を帯びるのを黙って見つめた。

「復帰しようと思います」
「ん」
「カカシさんにもご迷惑を・・」
「迷惑なんて言わないで」

イルカばかりが責任を負う必要なんて何もない。
二人で足りないところを補っていけばいいことなのだから。

「じゃあ、一緒にお迎えにでもいきますか」
「・・え?」
「そろそろ時間でしょ?」
「わっ!! も、もうこんな時間・・っ!!」
「オレとしては久々に二人きりの時間も持てたことだし、このままここで・・・」

ニヤリと笑って首筋に顔を埋めるカカシの髪を引っ張った。

「なっ!! 何やってんですかッ!!」
「ちょっとぐらい待たせても大丈夫ですって」
「ーーんん・・っ、カカッさんッ!」

ジタバタと暴れる身体をベッドに押さえつければ、思い切り暴れる身体に吹き出した。

「なーんてね。少しは元気になりましたか?」
「ーーー・・ッ!」

クスリ。顔を真赤にするイルカの鼻先を指先で摘んだ。

「・・・用意しておくから顔洗っておいで」
「あ・・、顔・・ひどいですか・・?」
「可愛いけどね」

チュッと腫れた瞼にキス。滲んだ涙を舌先で舐め取れば、少ししょっぱい涙の味がした。



*****



「サクちゃん、どうぞ」
「うあー」
「ありがとう」
「あう」
「あーん、可愛いっ!」
「贔屓なんてしちゃダメってわかってるけど、可愛すぎる~」
「う?」
「はい、これもどうぞサクちゃん」
「あー」

迎えに行った保育園で、ご機嫌に遊ぶサクヤの姿にホッとした。
渡されたぬいぐるみを小さな手がおぼつかなく握る。たったそれだけの事にキャーッと黄色い声が飛んだ。可愛い保育士さん達と可愛い我が子。写真におさめたいぐらい和やかな様子に、思わずイルカも笑ってしまう。
ここに来るまで不安だった。
誰に似たのかわからないが意外にしつこい性格だから、あれからずっと泣き続けて保育士の手を煩わせているかもれない。
そんな姿を見たら、復帰すると決めた気持ちがあっさりと覆ってしまう気がしたのだが。

「・・・良かった・・」

ホッと息を吐けば、隣のカカシに苦笑される。
それにしても、あれほど泣いていたというのに随分とご機嫌じゃないか。
心配して胸の潰れるような思いをした自分が少し恥ずかしいくらいに思えてきて、むうっと眉を顰めた。
しかも、その甘え全開の笑顔は何だよ。唯でさえカカシに似てとんでもなく可愛い顔で愛想を振りまくものだから、サクヤのまわりを保育士がぐるりと取り囲んでいる。
赤ん坊の時からこれでは、将来頭が痛いことになりそうだ。
だけど、これなら。
朝のお見送りさえクリアすれば、何の心配もなく復帰出来る。そう思った時だった。
不意に、サクヤの視線が保育室の外に立つ自分たちを見た。
ポカンと口を開いて、それから一瞬にしてその顔がくしゃりと歪む。

「え・・?」

その瞬間を、イルカは忘れることが出来ない。
「サク」と。笑顔で呼んだ自分の前で、とんでもない絶叫と、爆発的なチャクラが膨れ上がるのを窓ガラス越しに感じる。
あとはもう、叫び声や建物の軋む音。それから、あっという間もなく吹き飛んだ屋根。

「土遁ッ! 土流壁ッ!! 口寄せの術っ!」

ガシっと身体を抱き込まれ、カカシが術を唱える声を遠くで聞いた。
相変わらずとんでもないスピードだな。なんて、当たり前のことを頭の隅で思いながら、何がどうなってこんな事になったのか想像も出来ない。
ただサクヤを迎えに来ただけで建物が倒壊すること自体が飲み込めなくて、パックンに首根っこをつかまれた状態で運ばれてきたサクヤに向かって必死に手を伸ばした。

「ーーサクッ!!!」
「うぎゃぁぁああぁぁんっ!!」
「大丈夫だ! 怖かったな・・っ! 大丈夫だからなっ!!」
「うやぁぁーーーーんっ!!!」

無事を確かめるようにひしっと抱き合い、その温もりを腕の中に力いっぱい抱きしめる。
安心したのか次第に小さくなる声に漸く身体を離せば、カカシに物凄い力でサクヤを奪われた。

「こーら、いい加減にしなさいよ」

温厚なカカシにしては、珍しく怒りを含んだ声と凄まじい怒気。
それが、今まさに災難にあったばかりの我が子に向けられている。

「カカシ・・さん・・・、サク・・?」
「いくら寂しかったからって、やっていいことと悪いことがあるでしょ」
「・・あーう」

眉を顰め、めっと口にするカカシに流石にマズイという顔をしたサクヤが、ふやぁぁんと情けない泣き声をあげてイルカに助けを求める。
グルリとまわりを見渡せば、瓦礫になった建物の傍らで、忍犬に保護された保育士や他の子供たちが恐怖に引きつった顔でこちらを見ていた。
信じられない思いで、カカシに腕一本で持ち上げられている我が子に視線を戻す。

「まさか・・・」

だってサクヤはまだ産まれて半年程の赤ん坊で、忍術など使えるわけがないと口にしようとして、この子は天才忍者と謳われたカカシの子なのだと思い知る。
忍術が使えないからこそコントロールが出来ず、膨れ上がった膨大なチャクラが暴走してしまったというのだろうか。

「・・う、嘘だろ」
「うやぁん」

呆然とするイルカの前で、溜息をついたカカシが優美な手付きで印を結び式を飛ばす。
次々と現れる暗部や正規部隊の姿に、イルカは幼い我が子を腕に抱きながら深々と頭を下げるのだった。



*****



「いー」
「ん、ちょっと待ってろよー。お疲れ様です、お預かりします」

書類を受け取って、書き込まれた報告書に目を通し判を押す。結構ですと頷けば、次の書類が差し出された。

「お預かりします」
「いー」
「はーい、ちょっと待ってろー」

ふふっと頭上で笑う気配に顔を上げれば、目線が受付の端に置かれたベビーベッドを見つめてた。

「大きくなったな」
「・・え?」
「最初にここに来た時は、まだ寝転がってるだけの赤ん坊だったのに」

そう言ってまたクスクスと笑い出す。
視線の先には、まるで檻に入れられた獣の様にベビーベッドの中で掴まり立ちをしているサクヤだ。
イルカが自分を見ているのが嬉しいのか、満面の笑みで膝をぴょこぴょこと膝を曲げ伸ばししている。

「ここに来て半年ほど経ちますから」
「そうか。赤ん坊の成長は早いな」

熊のようないかつい見た目とは裏腹に子供好きなのだろう。大きな身体を震わせてまたクスリと笑う。
こんな人ばかりなら助かるのにな。
サクヤをここに置くことに不満を唱える者たちがいることを知っているからこそそんな風に思ってしまう。
だけど。

「・・・・・」

満面の笑みを浮かべるサクヤを見ながら頭を左右に振った。
これは五代目から与えられた特例の措置なのだ。
あの事件以後、全ての保育園から入園を拒否されたサクヤの所業を思い出し、イルカは苦々しい思いでため息をつく。

「いー」
「んー、あとちょっとなー」
「あう」

そういうわけで、複雑な心境のイルカとは反対にサクヤは今日もご機嫌である。
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