「イルカ先生、今日飯でもどうですか?」
報告所にて、ご機嫌で声をかける上忍を困惑した表情で見つめる中忍。
最近の報告所の名物行事だ。
数回に一度、受け入れてもらえればラッキーなお誘いだが、断られても懲りることなく誘い続けている。
「・・・今日は、ちょっと・・」
断る口実を探しているのだろう。
モゴモゴと口ごもる様子にも頓着せずにカカシは尚も言い募る。
「仕事が残っているなら手伝いますよ?」
「いえ・・上忍の方に手伝っていただくほどのものでは・・」
「じゃあ、いけるの?」
今日は何時にもまして食い下がるな。
いつもの受付のメンバーはそう思ってウロウロと視線を彷徨わせるイルカをチラリと横目に見た。
視線が合った途端、助けてくれと瞳だけで求められる。
いやいや冗談じゃない。
いくらイルカに頼まれたとて、この里の誉れに逆らえるほどの中忍はここにはいない。
それをわかっているからこそそれぞれが押し黙ってことの成り行きを見守っているのだ。
「仕事何時まで?」
イルカが答えないことなどお見通しで、隣の同僚に問いかける。
急に話しかけられてアワアワと慌てる同僚がつい『あと半刻です』と口を滑らせた。
ギロリと睨むイルカの視線を避けて、同僚は口笛でも吹くような顔で素知らぬ顔をした。
「じゃ、待ってます」
イルカの返事も聞かずにそう言ったカカシは、楽しげにソファに座り込んだ。
「ざ、残業になるかもしれませんし、定時に終わるとはお約束できません」
だから今日は無理だと、慌ててカカシに声をかける。
チラリと振り返ったカカシが、構わないよというのに唇を噛んだ。
眉をしかめて同僚を睨みつけるも、手を合わせて拝まれて溜息をつく。
はたけカカシと食事に行くなんて、内勤の、しかも中忍からしたら喉から手が出るほど羨ましい話なのに、それを徹底的に避けようとするイルカの気が知れない。
同僚達の意見はそれ一辺倒に偏る。
ーーー身分が違うだろ?
訝しむ同僚達に問われても、イルカはサラリとそう答えるだけだ。
それにしても、よっぽど一緒に食事に行くのが嫌なのだろう。
いつもは物凄いスピードでこなす事務作業も、一つ終わらせては少し休憩と、時間を無駄にしている。
ここ最近のイルカはいつもそんな様子だ。
いや、はたけ上忍が里にいない時は以前のイルカに戻るのだが。
何かあるのかな?
聞きたいような聞きたくないような。
同僚達は気になりつつも気を使ってその話題には触れないでいる。
そうこうしている内に、就業時間が終わりを告げ、交代要員がやってくる。
溜息をつきながら引き継ぎをして、イルカはずっしりと中身の詰まった鞄を肩にかけた。
相変わらず名物のエロ本を熟読していたカカシが、顔を輝かせて待つのと反対に、苦々しい表情のイルカが足取り重くソファへと向かう。
待ち受けるカカシにそっと腰に手を回されて報告所を後にするイルカを、同僚達は目線の端に止めた後、なんとも言えない表情を見合わせて従来の仕事に取り掛かった。
*****
『俺が飯に付き合ったら、子供たちをちゃんと指導していただけるんでしょうね』
最初に食事に連れだした際、イルカが思いつめたような表情で絞り出した言葉だ。
カカシとしてはそんな恥ずかしい脅し文句、言ったことを忘れてしまいたかったぐらいなので、『はぁ、まぁ』と何ともとぼけた返事をした。
そんなことはどうでも良かったし、イルカと食事にいけるだけで一歩前に進んだと気分も高揚していた。
それから何度か一緒に食事をしているが、全く進展していないのだが。
身体まで繋げた間柄だというのに、なんとも奇妙な関係だ。
「ここでいい?」
カカシが選んだのは、いつもイルカ達アカデミー教師がよく使っている居酒屋だった。
高級な料亭は最初に連れて行った際に断られていた。
ご馳走しますと言われても、自分で払えないような所は御免被りたい。
そういったイルカの意志を汲んでの居酒屋だ。
「どーぞ」
はいっと傾けたお銚子を、渋々受けて勢い良く喉に流し込んだ。
無駄な時間を過ごしている。
そんな苦々しい顔にも気づかないふりをする。
気づいてしまったら最後、きっともう彼を誘うことは出来ない。
カウンターの前には、カカシがさっさと注文した造りの盛り合わせ、大根の炊いたん、ナスの煮浸しなどさっぱりとした食事が並んでいる。
「アンタも好きなもの注文しなよ」
促してもイルカは首を左右にふるだけで、ひたすらに注がれた盃を煽るだけだ。
仕方ないなとこっそり溜息をついて、今日はねと、話しだす。
「ナルトが任務に文句を言い出してねぇ・・・」
ピクリ。
子供たちの話になる時だけ、反応を返すイルカに悲しくなる。
彼が自分に付き合っているのは、本当にそれだけなのだと痛感する瞬間だ。
「もっと高ランクの任務を請け負いたいって」
「・・・・・」
「どうしたら良いと思う?」
尋ねるカカシに、視線だけを向けた。
「・・・積み重ねが大事だと、言い含めてください」
「言い聞かせて大人しくきく性格でもないと思うけど」
「それでも、それがナルトの為です」
何事も基本が大事だと言い切るイルカに、教師のセリフだねぇと思う。
確かにイルカのいうことは理にかなっているが、たまには危険な任務につけることもこの世界では重要だ。
もちろん、それでも大丈夫なように上忍師が就いているのだ。
酒をチビリと舐めながら、頑固そうに眉を寄せた顔を見つめる。
急に黙り込んだカカシに気づいたイルカが、自分を見つめる視線に眉を顰めた。
「・・・見ないでください」
「え?」
「・・だから、・・見ないでください」
見られていると居心地が悪い。
言い捨てられた言葉に、酷いなと苦笑した。
それでも、意識されていると思うだけで嬉しくなる。
「だからアンタはずっと前を向いてるの?」
「視線をあわせたくないんです」
「なんで?」
「ーーーーッ!!」
何かをしようとしたわけじゃない。
ただ手を伸ばした瞬間、ガタンッと椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がったイルカに唖然とする。
突然上がった大きな音に、店内が驚いたようにこちらに視線を向けた。
「あ・・・」
自分でも驚いたのだろうイルカが、慌てて椅子を元に戻して座り直す。
微かに震える指先を見咎めて小さく舌打ちをした。
「よぉ、珍しい組み合わせだな」
今の音で気づかれたのか、たばこを咥えたアスマが軽く手を挙げて近づいてきた。
「ーーアスマさんッ!」
第三者の出現に、あからさまにホッとした顔に傷つく。
「お前ら顔見知りだったのか?」
「なによ。アスマこそこの人と知り合い?」
「まぁ・・、なぁ?」
思わせぶりな答えに、イルカも曖昧に頷いた。
不審げに眉をひそめるカカシが尚も問いただそうと口を開く前に、イルカが慌てて遮った。
「これから飯ですか?」
「おう」
「あの、良かったら・・」
よほど二人きりで食事するのが嫌なのか。
アスマに縋る視線を投げかけるイルカに、舌打ちする。
「悪ぃな、今日はツレがいる」
チラリと後ろを振り返りチョイチョイとテーブル席を指先で指し示す。
里では見ない顔だ。
アスマと一緒にいることから多分上忍だとは思うが、イルカは初めて見る顔だった。
落胆の色を隠せないイルカに、アスマが苦笑した。
「・・・無理してカカシに付き合う必要なんてないぞ」
「ちょっと、変なコト言わないで」
刺々しいカカシの言葉に、ふうっと紫煙を吐き出してアスマがニヤリと笑った。
「ーーアスマ」
「悪ぃ、今行く」
軽く手を上げるアスマに、声をかけた上忍が近づいてくる。
「・・お前・・カカシか?」
「どーも」
気のない返事をするカカシが、知らん顔で盃を傾ける。
「久しぶりだな」
「そうだっけ?」
「おいおい、連れねぇなぁ」
苦笑する男がガリガリと頭を掻いた。
「なんだ、お前らも知りあいか?」
「まぁ、昔のな」
「何の用よ。こっちは楽しく呑んでんの。邪魔しないで」
「楽しそうには見えねぇが・・なぁ?」
ニヤリと笑う男が、イルカの方を向いて問いかけてくる。
「・・・・・」
どう答えたらいいか分からずにイルカはただ頷くだけだ。
「・・・あんた・・・中忍か?」
「はい」
「・・・へぇ」
含み笑うような声に、何だと訝しむ。
「ちょっと、邪魔しないでって言ったでしょ」
凄むカカシにも、男は気にせず怖い怖いと両手を挙げて笑っている。
「・・・あの」
たち上がったイルカに、三人が一斉に視線を向けた。
「皆さんお知り合いのようなので、俺はこれで失礼します」
「待ってッ!」
さっさと立ち去ろうとしたイルカの手をカカシが慌てて掴む。
瞬間震えた身体に、目を見開いた。
張り詰めた気配を上忍達が見逃すはずもない。
「・・・一緒に飯でも食うか」
「いいな」
「カカシ、テーブル席へ移動だ。イルカも」
イルカの手を掴んだままのカカシを促して、テーブル席へと誘う。
促されるまま席へ座らされて、なみなみと注がれた杯をイルカは勢い良く飲み干した。
*****
「全く、どれだけ呑むのよ」
「・・・すいません・・・」
硬い背中の上、上官であるカカシに背負われながらコトリと頭を肩に乗せた。
グチグチと文句を言っているが、何だか楽しそうな様子のカカシはヨイショと声を掛けながら力の抜けた身体を背負い直した。
「背中に吐かないでよね」
「・・気をつけます・・・」
「気分悪くない?」
「・・あい・・」
ウトウトと微睡もうとする度に、声が掛かる。
あれから、アスマに勧められるままにイルカは呑みまくった。
呑ませすぎだと慌てるカカシと、そんな様子をニヤニヤ見つめる上忍の視線などあっという間に気にならなくなり、気づいた時には視界の先の店内がグニャグニャに歪んでいた。
酒に弱いわけでもないのに、酔いが回って机に突っ伏したイルカを、送って行くと申し出たのはカカシだった。
その時も、カカシに送ってもらいたくないとゴネたイルカを強引に背負い今に至る。
カンカンと態と音を立てて階段を登り、部屋の扉の前に立つ。
「鍵は?」
必要ないけれど、とりあえず聞いておく。
「・・ベストの・・」
もう眠りに落ちる寸前の声で答えたイルカをおろし、胸のベストを探った。
見つけた鍵で扉を開け、かつて知ったる寝室のベッドへとイルカを寝かせた。
「・・・・・」
いつもは精悍な顔が、酒が回って少し崩れているのに苦笑する。
そっと頬に触れた指先に気づいて、トロリとした眼を開いた。
「・・・・・」
「・・抱くんですか・・?」
「駄目なんでしょ」
「・・・好きに・・すればいいだろ・・」
好き勝手していたくせに、今更何を遠慮してんだ。
言外にそんな言葉を匂わせて、投げやりに呟いた後、ぷいっと顔をそむけた。
「・・・好きにしたら怒るくせに」
ベッドに腰掛け、背けた顔に手を伸ばして頬を撫ぜた。
されるがままのイルカに気を良くしてサラリとした髪に触れると、指先でゆっくりと梳く。
サラサラと零れる髪を指先に絡めて軽く引っ張った。
本当はね、と唇から漏れるカカシの言葉に視線をむけて、イルカは酒がまわった息を吐き出す。
「アンタに触れたいよ」
「・・・・・」
熱に浮かされたようにそう囁いた。
何も言わないイルカは、ただ黙ってそんなカカシを見つめているだけだ。
酒で潤んだ瞳がユラユラと揺れるのが、まるで誘われてでもいるようだと勘違いしそうになる。
「・・・気持ちわりぃ・・」
「えっ?」
不意にもれた声に、酷いなと思う間もなく、口を覆って飛び起きたイルカがふらつく足で立ち上がろうとする。
「吐くのッ!?」
コクコクと頷くのに、慌てて身体を抱きかかえ、風呂場の扉を開いた。
シャワーのコックをひねり、四つん這いにさせたイルカの背をさすって促してやるも、まだ込み上げるだけのようで身体をヒクつかせてえづいている。
「・・・まったく。口開けて」
「やっ」
「いいから」
「ーーーンウッ・・!!」
無理矢理口を開かせ、指を突っ込んで刺激した。
勢い良く吐き出した吐瀉物をシャワーの水圧で一気に下水に流してしまう。
饐えた匂いが浴室に広がるのにも耐えて、繰り返し指先を奥に突っ込んで背中を擦った。
頭から冷水を浴びせかけ、汚れた顔も涙も全部洗い流してやる。
吐き出すものが何もなくなった頃、掌に水をためて口元に持っていった。
「口も濯いで」
「・・は・・・・」
大人しく水を含んで吐き出したイルカの身体が冷えて震えるほどになってから、漸くカカシはシャワーの水を止めた。
濡れそぼった服を脱がし、バスタオルでくるんでベッドに運んでやる。
カカシ自身も濡れた服を脱ぐとその横に転がった。
酔いが吹っ飛び、ガタガタ震える身体に熱を与えるように抱き込んで布団を被る。
腕の中で縮こまるイルカを抱えながら、可笑しくなって笑ってしまった。
「・・なに・・・?」
訝しむイルカが、まだ震えて唇も青いままカカシの胸から顔をあげる。
「あのまま抱いてたら、今頃二人共ゲロまみれだったね」
危なかったなぁと、笑いながらそう言ったカカシに、イルカがムッとした顔をするのにも構わず強引に胸に押し付けた。
バタバタと暴れる身体を力いっぱい抱きしめて。
「・・・何もしないから、もう寝なさいよ」
「・・・・」
「約束する」
濡れた髪を撫ぜて囁くと、冷えきった指先が何度もためらった後、遠慮がちに背中に回された。
「・・・どうして・・・」
「・・・・?」
微かに聞こえる声で呟くと、イルカは縋りつくようにギュッと回した指に力を込める。
密着した身体に感じるイルカの体温に、トクリと心臓が震えた。
こうやって抱き合うのは何年ぶりだろう。
ずいぶん遠い昔のような気がすると、温もりを共有しながら襲ってくる睡魔に、カカシもウトウトと瞼を閉じてゆっくりと意識を手放すのだった。
*****
手にした依頼書をじっと見る。
木の葉の里宛に差し出された依頼書をランクごとに振り分けるのは受付の仕事だ。
待機している忍びの数を把握し、適材適所に無駄なく。
忍びの生殺与奪を握っている受付の仕事は意外と重要なのだ。
「・・・・・」
Sランク、と書かれた依頼書を見つめながら、小さくため息をついたイルカに、隣の同僚がチラリと視線を投げかけてきた。
「・・・それか」
「あぁ・・・」
受付に座るものなら誰でも知っている。
容易な任務ではない依頼に、割り当てるべき人物の名前も。
「あの人しかいないだろ?」
「・・・そう、なんだけど・・・」
言いよどんでイルカはまた溜息をつく。
待機中の上忍達の名前を脳裏に浮かべ、違う、無理だと一人づつ消去法で外していく。
そうなればやはり残るのはただ一人しかいない。
「苦手なんだろ?」
丁度いいじゃないかと言外に匂わせた同僚に非難の目を向けて、イルカは依頼書をグシャリと握りつぶす。
任務の割り当ては、厄介払いをする為のものなんかじゃない。
命をかけなければならない任務に、好き嫌いで振り分けることなんて出来ないのだ。
「お前が言いにくいなら、俺が代わろうか?」
同僚の声にシワが寄った依頼書をみやる。
何を躊躇っているのだろうと、自分でも思う。
いつものように、冷静に分析してはじき出した人物に割り当てればいいだけのことだ。
・・・それが、生還の希みの少ない依頼でも。
ガラリと扉を開けて入ってきた人物に視線を向けて、イルカはゴクリと喉を鳴らした。
イルカの気持ちも身体も、全てを奪った男。
酷い言葉を浴びせかけ、淡い恋心さえ馬鹿にして踏みにじった。
ずっと何年も心の檻に鍵をかけて、忘れ去ろうとしていたのに。
それでも、再びその姿をみてしまったら、眼がはなせなくて気づかぬ内に微かな気配だけでも追ってしまう。
そんな人に。
「依頼?」
いつもの飄々とした態度でイルカの手元を覗き込む。
「・・・Sランク、ねぇ・・・」
睨みつけたまま何も言わないイルカに苦笑して、爪が白くなるほど力を込めて握っている依頼書を引っ張った。
たった一枚の紙切れだ。
彼はこれを手渡すだけで、カカシに死の宣告とも取れる路を指し示してしてしまうことになるのだ。
「イルカ先生?」
「・・・・・」
頑固そうに眉を寄せ、依頼書を握りしめたまま離そうとしないイルカに、苦笑した。
力の入った指先にそっと触れて、依頼書から引き離す。
『嫌われてるんじゃねぇか?』
あの日、焚き火を見つめながら問われた酉面の言葉。
何度頭で反芻しても、認めるしかない自分がいる。
それでも、目の前の男が命を惜しんでくれている。
その思いだけで十分だ。
「ま、ちゃっちゃと行ってきますよ」
そう言って、奪った依頼書をヒラヒラとさせながら踵を返した。
「・・・あの・・・ッ!」
扉に手をかけた時、呼び止める声に振り返る。
立ち上がったイルカが、ウロウロと視線を彷徨わせた後まっすぐにカカシを見据えた。
「・・・・・?」
何も言わないイルカに小首を傾げ見つめ返す。
自分に向けた言葉ではなかったのかもしれない。
自惚れも甚だしいなと自嘲気味に笑って出ていこうとしたカカシに、振り絞ったようなイルカの声が聞こえた。
「・・・あの・・・、ご武運を・・・」
聞こえた言葉に驚いて振り帰るカカシの眼に飛び込んできたのは、眉を寄せ、唇を引き結んだイルカのぎこちない表情だった。
小さく頷いて報告所を後にしたカカシは、数歩足を進めたところで立ち止まり、背中を壁につけて天を仰いだ。
記憶の中にあるイルカの表情は、いつだって今にも泣き出しそうな顔だ。
掌の中の依頼書を力任せにグシャリを握りしめて、溜息を付いた。
そんな顔しかさせられなかった自分が情けない。
「オレってほんと馬鹿・・・」
吐き出す言葉に未練たらしい嘆きを含ませて、ガックリと頭を垂れた。
泣き出しそうな顔なんかじゃない。
子供たちに向ける、顔全体で笑っているような温かい笑顔が見たいと、心底思った。
*****
トボトボと歩く帰り道。
ずっしりと膨らんだ鞄が肩に食い込む程に重い。
もちろん詰め込んだ教材の重さだけではない。
良心の呵責も上乗せされた後ろめたさに、家路を目指す足取りはどんどんと重くなる。
依頼を振り分けるのは受付の役目。
いつもやっていることだ。
だけど、振り分けた任務が失敗した時、その采配が正しかったのかどうかいつも考えさせられる。
カカシほどの男だから、万が一の事があるとは思わないが、それでも絶対はありえない。
見上げた月にため息を付いて、重い足を引きずるようにして一歩前へ進めた。
「あれ? アンタこの間の中忍じゃねぇか?」
不意に呼ばれた名前に振り向くと、先日アスマと一緒にいた見慣れない上忍が軽く手をあげて屋根の上から降りてきた。
「・・・たしか、うみの・・」
「イルカです」
「そうそう、イルカ先生。仕事帰りか?」
気さくな様子で話しかけてくる上忍に、イルカはコクリと頷いた。
「・・・辛気臭ぇ顔だな」
バンバンと背中を叩かれるのによろめいて、イルカは非難の混じった視線を向ける。
「そんな顔するなよ、今日はカカシは?」
最近暇さえあればつきまとっていると噂の同僚を探してあたりを見渡す。
本気を出せば上忍に気配すら読ませない相手に注意してみるものの、本当にいないようだ。
「・・・任務で・・・」
心なしかしょんぼりとうなだれているイルカが小さな声で答えた。
カカシの言っていたとおり、見目麗しいわけでもなく見るからに平凡な中忍だ。
だけど先日居酒屋であった時に、俺のものだと言わんばかりの威嚇に失笑したのも事実。
「そういやアンタ、カカシとつきあってんだって?」
確認するつもりでもなかったけれど、口から出た言葉にピクリと身体が強張る。
そのままさも不快だと言わんばかりに眉を顰められて首を傾げた。
「違うのか?」
「それは、慰み者と言う意味ですか?」
燃えるような眼。
怒りと悲しみが入り混じったそんな瞳に思わず言葉を失う。
「いや、だってカカシの奴が・・」
「違いますッ!」
言い終わる前に声を荒らげたイルカの気迫に、目を見開いて凝視した。
「・・・あの人は、俺のことをそんな風に思ったりしていません」
「・・・・」
飽きたら捨てられる玩具の一つだ。
吐き捨てられる言葉に、呆れたように肩をすくめた。
ほらな、付き合って直ぐに花街に連れ込んで無理矢理事に及んだりするからだぞと、カカシがここにいればそう言って詰ってやれるものの、悲しいかな彼は任務で里外だ。
「・・・あいつが恋人だって」
「は・・?」
聞いた言葉が信じられないというようにポカンと口を開けたイルカに苦笑して、言葉を紡いだ。
「前に任務で一緒になった時、何年も喧嘩中の恋人がいるってよぉ」
とぼけた口調に、イルカは首を左右に振った。
「・・それは俺じゃ・・・」
「チャクラ切れでぶっ倒れた時、強制入院させたのはあんたじゃないのか?」
ハッと顔をあげたイルカにニヤリと笑う。
この貸しは高く付くぜと心のなかでほくそ笑んだ。
「見舞いに一度も来てくれない薄情な恋人」
「・・・そ、それは・・」
「ずーっと待ってたらしいぜ」
狼狽えた様子のイルカに可笑しくなって、面白がって責めるような口ぶりになる。
なんだ。
一方通行ってわけじゃないじゃないか。
良かったなと、あの日の打ちひしがれた様子のカカシに話しかけて、ポンっとイルカの肩を叩いた。
「だいたいあんたみたいな面倒そうなヤツ、アイツが遊びでちょっかい出すわけねぇだろ」
遊びならもっと熟れた女にするさ。
トドメとばかりにそう言うと、泣き出しそうなイルカの瞳と視線が交わった。
ふぅん。
悪くない。
確かに今すぐにでもつれ込みたくなる気分にはなるなと思うが、戻ってきたカカシと争いになるのは避けたい。
「アイツはガキの頃から戦場育ちだからよぉ」
「・・・・・?」
「しかもあの面だ。女にも不自由したことがない」
ムカつくだろ?
フンっと鼻息荒く肩を怒らせるのに、小さく笑った。
「つまり、接し方を知らないんだよ」
「・・・接し方・・・?」
子供と一緒だと、ため息混じりに呟く。
「ーー簡単に言やぁ、好きな子に意地悪したいのさ」
そんな言葉にギョッとして、月明かりでもわかるぐらい真っ赤になったイルカに、ニヤリと笑った。
「ただ、子供と違って力があるだけ質が悪い・・・」
「・・・・・」
「アンタにしたことを許してやれとは言わねぇが、そこだけはわかってやってくれ」
「・・・・・」
そんな言葉に、ウロウロと迷うような視線を彷徨わせた後、イルカは何も言わずにペコリと頭を下げた。
言うべきことは言ってやったぞ。
後は野となれ山となれだ。
今はいないカカシに呟いて、それじゃあなとポンっと頭に手を置いた。
ヒラリとまた屋根の上へと飛んだ上忍の背中を、イルカは見上げたままいつまでも見送り続けた。
報告所にて、ご機嫌で声をかける上忍を困惑した表情で見つめる中忍。
最近の報告所の名物行事だ。
数回に一度、受け入れてもらえればラッキーなお誘いだが、断られても懲りることなく誘い続けている。
「・・・今日は、ちょっと・・」
断る口実を探しているのだろう。
モゴモゴと口ごもる様子にも頓着せずにカカシは尚も言い募る。
「仕事が残っているなら手伝いますよ?」
「いえ・・上忍の方に手伝っていただくほどのものでは・・」
「じゃあ、いけるの?」
今日は何時にもまして食い下がるな。
いつもの受付のメンバーはそう思ってウロウロと視線を彷徨わせるイルカをチラリと横目に見た。
視線が合った途端、助けてくれと瞳だけで求められる。
いやいや冗談じゃない。
いくらイルカに頼まれたとて、この里の誉れに逆らえるほどの中忍はここにはいない。
それをわかっているからこそそれぞれが押し黙ってことの成り行きを見守っているのだ。
「仕事何時まで?」
イルカが答えないことなどお見通しで、隣の同僚に問いかける。
急に話しかけられてアワアワと慌てる同僚がつい『あと半刻です』と口を滑らせた。
ギロリと睨むイルカの視線を避けて、同僚は口笛でも吹くような顔で素知らぬ顔をした。
「じゃ、待ってます」
イルカの返事も聞かずにそう言ったカカシは、楽しげにソファに座り込んだ。
「ざ、残業になるかもしれませんし、定時に終わるとはお約束できません」
だから今日は無理だと、慌ててカカシに声をかける。
チラリと振り返ったカカシが、構わないよというのに唇を噛んだ。
眉をしかめて同僚を睨みつけるも、手を合わせて拝まれて溜息をつく。
はたけカカシと食事に行くなんて、内勤の、しかも中忍からしたら喉から手が出るほど羨ましい話なのに、それを徹底的に避けようとするイルカの気が知れない。
同僚達の意見はそれ一辺倒に偏る。
ーーー身分が違うだろ?
訝しむ同僚達に問われても、イルカはサラリとそう答えるだけだ。
それにしても、よっぽど一緒に食事に行くのが嫌なのだろう。
いつもは物凄いスピードでこなす事務作業も、一つ終わらせては少し休憩と、時間を無駄にしている。
ここ最近のイルカはいつもそんな様子だ。
いや、はたけ上忍が里にいない時は以前のイルカに戻るのだが。
何かあるのかな?
聞きたいような聞きたくないような。
同僚達は気になりつつも気を使ってその話題には触れないでいる。
そうこうしている内に、就業時間が終わりを告げ、交代要員がやってくる。
溜息をつきながら引き継ぎをして、イルカはずっしりと中身の詰まった鞄を肩にかけた。
相変わらず名物のエロ本を熟読していたカカシが、顔を輝かせて待つのと反対に、苦々しい表情のイルカが足取り重くソファへと向かう。
待ち受けるカカシにそっと腰に手を回されて報告所を後にするイルカを、同僚達は目線の端に止めた後、なんとも言えない表情を見合わせて従来の仕事に取り掛かった。
*****
『俺が飯に付き合ったら、子供たちをちゃんと指導していただけるんでしょうね』
最初に食事に連れだした際、イルカが思いつめたような表情で絞り出した言葉だ。
カカシとしてはそんな恥ずかしい脅し文句、言ったことを忘れてしまいたかったぐらいなので、『はぁ、まぁ』と何ともとぼけた返事をした。
そんなことはどうでも良かったし、イルカと食事にいけるだけで一歩前に進んだと気分も高揚していた。
それから何度か一緒に食事をしているが、全く進展していないのだが。
身体まで繋げた間柄だというのに、なんとも奇妙な関係だ。
「ここでいい?」
カカシが選んだのは、いつもイルカ達アカデミー教師がよく使っている居酒屋だった。
高級な料亭は最初に連れて行った際に断られていた。
ご馳走しますと言われても、自分で払えないような所は御免被りたい。
そういったイルカの意志を汲んでの居酒屋だ。
「どーぞ」
はいっと傾けたお銚子を、渋々受けて勢い良く喉に流し込んだ。
無駄な時間を過ごしている。
そんな苦々しい顔にも気づかないふりをする。
気づいてしまったら最後、きっともう彼を誘うことは出来ない。
カウンターの前には、カカシがさっさと注文した造りの盛り合わせ、大根の炊いたん、ナスの煮浸しなどさっぱりとした食事が並んでいる。
「アンタも好きなもの注文しなよ」
促してもイルカは首を左右にふるだけで、ひたすらに注がれた盃を煽るだけだ。
仕方ないなとこっそり溜息をついて、今日はねと、話しだす。
「ナルトが任務に文句を言い出してねぇ・・・」
ピクリ。
子供たちの話になる時だけ、反応を返すイルカに悲しくなる。
彼が自分に付き合っているのは、本当にそれだけなのだと痛感する瞬間だ。
「もっと高ランクの任務を請け負いたいって」
「・・・・・」
「どうしたら良いと思う?」
尋ねるカカシに、視線だけを向けた。
「・・・積み重ねが大事だと、言い含めてください」
「言い聞かせて大人しくきく性格でもないと思うけど」
「それでも、それがナルトの為です」
何事も基本が大事だと言い切るイルカに、教師のセリフだねぇと思う。
確かにイルカのいうことは理にかなっているが、たまには危険な任務につけることもこの世界では重要だ。
もちろん、それでも大丈夫なように上忍師が就いているのだ。
酒をチビリと舐めながら、頑固そうに眉を寄せた顔を見つめる。
急に黙り込んだカカシに気づいたイルカが、自分を見つめる視線に眉を顰めた。
「・・・見ないでください」
「え?」
「・・だから、・・見ないでください」
見られていると居心地が悪い。
言い捨てられた言葉に、酷いなと苦笑した。
それでも、意識されていると思うだけで嬉しくなる。
「だからアンタはずっと前を向いてるの?」
「視線をあわせたくないんです」
「なんで?」
「ーーーーッ!!」
何かをしようとしたわけじゃない。
ただ手を伸ばした瞬間、ガタンッと椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がったイルカに唖然とする。
突然上がった大きな音に、店内が驚いたようにこちらに視線を向けた。
「あ・・・」
自分でも驚いたのだろうイルカが、慌てて椅子を元に戻して座り直す。
微かに震える指先を見咎めて小さく舌打ちをした。
「よぉ、珍しい組み合わせだな」
今の音で気づかれたのか、たばこを咥えたアスマが軽く手を挙げて近づいてきた。
「ーーアスマさんッ!」
第三者の出現に、あからさまにホッとした顔に傷つく。
「お前ら顔見知りだったのか?」
「なによ。アスマこそこの人と知り合い?」
「まぁ・・、なぁ?」
思わせぶりな答えに、イルカも曖昧に頷いた。
不審げに眉をひそめるカカシが尚も問いただそうと口を開く前に、イルカが慌てて遮った。
「これから飯ですか?」
「おう」
「あの、良かったら・・」
よほど二人きりで食事するのが嫌なのか。
アスマに縋る視線を投げかけるイルカに、舌打ちする。
「悪ぃな、今日はツレがいる」
チラリと後ろを振り返りチョイチョイとテーブル席を指先で指し示す。
里では見ない顔だ。
アスマと一緒にいることから多分上忍だとは思うが、イルカは初めて見る顔だった。
落胆の色を隠せないイルカに、アスマが苦笑した。
「・・・無理してカカシに付き合う必要なんてないぞ」
「ちょっと、変なコト言わないで」
刺々しいカカシの言葉に、ふうっと紫煙を吐き出してアスマがニヤリと笑った。
「ーーアスマ」
「悪ぃ、今行く」
軽く手を上げるアスマに、声をかけた上忍が近づいてくる。
「・・お前・・カカシか?」
「どーも」
気のない返事をするカカシが、知らん顔で盃を傾ける。
「久しぶりだな」
「そうだっけ?」
「おいおい、連れねぇなぁ」
苦笑する男がガリガリと頭を掻いた。
「なんだ、お前らも知りあいか?」
「まぁ、昔のな」
「何の用よ。こっちは楽しく呑んでんの。邪魔しないで」
「楽しそうには見えねぇが・・なぁ?」
ニヤリと笑う男が、イルカの方を向いて問いかけてくる。
「・・・・・」
どう答えたらいいか分からずにイルカはただ頷くだけだ。
「・・・あんた・・・中忍か?」
「はい」
「・・・へぇ」
含み笑うような声に、何だと訝しむ。
「ちょっと、邪魔しないでって言ったでしょ」
凄むカカシにも、男は気にせず怖い怖いと両手を挙げて笑っている。
「・・・あの」
たち上がったイルカに、三人が一斉に視線を向けた。
「皆さんお知り合いのようなので、俺はこれで失礼します」
「待ってッ!」
さっさと立ち去ろうとしたイルカの手をカカシが慌てて掴む。
瞬間震えた身体に、目を見開いた。
張り詰めた気配を上忍達が見逃すはずもない。
「・・・一緒に飯でも食うか」
「いいな」
「カカシ、テーブル席へ移動だ。イルカも」
イルカの手を掴んだままのカカシを促して、テーブル席へと誘う。
促されるまま席へ座らされて、なみなみと注がれた杯をイルカは勢い良く飲み干した。
*****
「全く、どれだけ呑むのよ」
「・・・すいません・・・」
硬い背中の上、上官であるカカシに背負われながらコトリと頭を肩に乗せた。
グチグチと文句を言っているが、何だか楽しそうな様子のカカシはヨイショと声を掛けながら力の抜けた身体を背負い直した。
「背中に吐かないでよね」
「・・気をつけます・・・」
「気分悪くない?」
「・・あい・・」
ウトウトと微睡もうとする度に、声が掛かる。
あれから、アスマに勧められるままにイルカは呑みまくった。
呑ませすぎだと慌てるカカシと、そんな様子をニヤニヤ見つめる上忍の視線などあっという間に気にならなくなり、気づいた時には視界の先の店内がグニャグニャに歪んでいた。
酒に弱いわけでもないのに、酔いが回って机に突っ伏したイルカを、送って行くと申し出たのはカカシだった。
その時も、カカシに送ってもらいたくないとゴネたイルカを強引に背負い今に至る。
カンカンと態と音を立てて階段を登り、部屋の扉の前に立つ。
「鍵は?」
必要ないけれど、とりあえず聞いておく。
「・・ベストの・・」
もう眠りに落ちる寸前の声で答えたイルカをおろし、胸のベストを探った。
見つけた鍵で扉を開け、かつて知ったる寝室のベッドへとイルカを寝かせた。
「・・・・・」
いつもは精悍な顔が、酒が回って少し崩れているのに苦笑する。
そっと頬に触れた指先に気づいて、トロリとした眼を開いた。
「・・・・・」
「・・抱くんですか・・?」
「駄目なんでしょ」
「・・・好きに・・すればいいだろ・・」
好き勝手していたくせに、今更何を遠慮してんだ。
言外にそんな言葉を匂わせて、投げやりに呟いた後、ぷいっと顔をそむけた。
「・・・好きにしたら怒るくせに」
ベッドに腰掛け、背けた顔に手を伸ばして頬を撫ぜた。
されるがままのイルカに気を良くしてサラリとした髪に触れると、指先でゆっくりと梳く。
サラサラと零れる髪を指先に絡めて軽く引っ張った。
本当はね、と唇から漏れるカカシの言葉に視線をむけて、イルカは酒がまわった息を吐き出す。
「アンタに触れたいよ」
「・・・・・」
熱に浮かされたようにそう囁いた。
何も言わないイルカは、ただ黙ってそんなカカシを見つめているだけだ。
酒で潤んだ瞳がユラユラと揺れるのが、まるで誘われてでもいるようだと勘違いしそうになる。
「・・・気持ちわりぃ・・」
「えっ?」
不意にもれた声に、酷いなと思う間もなく、口を覆って飛び起きたイルカがふらつく足で立ち上がろうとする。
「吐くのッ!?」
コクコクと頷くのに、慌てて身体を抱きかかえ、風呂場の扉を開いた。
シャワーのコックをひねり、四つん這いにさせたイルカの背をさすって促してやるも、まだ込み上げるだけのようで身体をヒクつかせてえづいている。
「・・・まったく。口開けて」
「やっ」
「いいから」
「ーーーンウッ・・!!」
無理矢理口を開かせ、指を突っ込んで刺激した。
勢い良く吐き出した吐瀉物をシャワーの水圧で一気に下水に流してしまう。
饐えた匂いが浴室に広がるのにも耐えて、繰り返し指先を奥に突っ込んで背中を擦った。
頭から冷水を浴びせかけ、汚れた顔も涙も全部洗い流してやる。
吐き出すものが何もなくなった頃、掌に水をためて口元に持っていった。
「口も濯いで」
「・・は・・・・」
大人しく水を含んで吐き出したイルカの身体が冷えて震えるほどになってから、漸くカカシはシャワーの水を止めた。
濡れそぼった服を脱がし、バスタオルでくるんでベッドに運んでやる。
カカシ自身も濡れた服を脱ぐとその横に転がった。
酔いが吹っ飛び、ガタガタ震える身体に熱を与えるように抱き込んで布団を被る。
腕の中で縮こまるイルカを抱えながら、可笑しくなって笑ってしまった。
「・・なに・・・?」
訝しむイルカが、まだ震えて唇も青いままカカシの胸から顔をあげる。
「あのまま抱いてたら、今頃二人共ゲロまみれだったね」
危なかったなぁと、笑いながらそう言ったカカシに、イルカがムッとした顔をするのにも構わず強引に胸に押し付けた。
バタバタと暴れる身体を力いっぱい抱きしめて。
「・・・何もしないから、もう寝なさいよ」
「・・・・」
「約束する」
濡れた髪を撫ぜて囁くと、冷えきった指先が何度もためらった後、遠慮がちに背中に回された。
「・・・どうして・・・」
「・・・・?」
微かに聞こえる声で呟くと、イルカは縋りつくようにギュッと回した指に力を込める。
密着した身体に感じるイルカの体温に、トクリと心臓が震えた。
こうやって抱き合うのは何年ぶりだろう。
ずいぶん遠い昔のような気がすると、温もりを共有しながら襲ってくる睡魔に、カカシもウトウトと瞼を閉じてゆっくりと意識を手放すのだった。
*****
手にした依頼書をじっと見る。
木の葉の里宛に差し出された依頼書をランクごとに振り分けるのは受付の仕事だ。
待機している忍びの数を把握し、適材適所に無駄なく。
忍びの生殺与奪を握っている受付の仕事は意外と重要なのだ。
「・・・・・」
Sランク、と書かれた依頼書を見つめながら、小さくため息をついたイルカに、隣の同僚がチラリと視線を投げかけてきた。
「・・・それか」
「あぁ・・・」
受付に座るものなら誰でも知っている。
容易な任務ではない依頼に、割り当てるべき人物の名前も。
「あの人しかいないだろ?」
「・・・そう、なんだけど・・・」
言いよどんでイルカはまた溜息をつく。
待機中の上忍達の名前を脳裏に浮かべ、違う、無理だと一人づつ消去法で外していく。
そうなればやはり残るのはただ一人しかいない。
「苦手なんだろ?」
丁度いいじゃないかと言外に匂わせた同僚に非難の目を向けて、イルカは依頼書をグシャリと握りつぶす。
任務の割り当ては、厄介払いをする為のものなんかじゃない。
命をかけなければならない任務に、好き嫌いで振り分けることなんて出来ないのだ。
「お前が言いにくいなら、俺が代わろうか?」
同僚の声にシワが寄った依頼書をみやる。
何を躊躇っているのだろうと、自分でも思う。
いつものように、冷静に分析してはじき出した人物に割り当てればいいだけのことだ。
・・・それが、生還の希みの少ない依頼でも。
ガラリと扉を開けて入ってきた人物に視線を向けて、イルカはゴクリと喉を鳴らした。
イルカの気持ちも身体も、全てを奪った男。
酷い言葉を浴びせかけ、淡い恋心さえ馬鹿にして踏みにじった。
ずっと何年も心の檻に鍵をかけて、忘れ去ろうとしていたのに。
それでも、再びその姿をみてしまったら、眼がはなせなくて気づかぬ内に微かな気配だけでも追ってしまう。
そんな人に。
「依頼?」
いつもの飄々とした態度でイルカの手元を覗き込む。
「・・・Sランク、ねぇ・・・」
睨みつけたまま何も言わないイルカに苦笑して、爪が白くなるほど力を込めて握っている依頼書を引っ張った。
たった一枚の紙切れだ。
彼はこれを手渡すだけで、カカシに死の宣告とも取れる路を指し示してしてしまうことになるのだ。
「イルカ先生?」
「・・・・・」
頑固そうに眉を寄せ、依頼書を握りしめたまま離そうとしないイルカに、苦笑した。
力の入った指先にそっと触れて、依頼書から引き離す。
『嫌われてるんじゃねぇか?』
あの日、焚き火を見つめながら問われた酉面の言葉。
何度頭で反芻しても、認めるしかない自分がいる。
それでも、目の前の男が命を惜しんでくれている。
その思いだけで十分だ。
「ま、ちゃっちゃと行ってきますよ」
そう言って、奪った依頼書をヒラヒラとさせながら踵を返した。
「・・・あの・・・ッ!」
扉に手をかけた時、呼び止める声に振り返る。
立ち上がったイルカが、ウロウロと視線を彷徨わせた後まっすぐにカカシを見据えた。
「・・・・・?」
何も言わないイルカに小首を傾げ見つめ返す。
自分に向けた言葉ではなかったのかもしれない。
自惚れも甚だしいなと自嘲気味に笑って出ていこうとしたカカシに、振り絞ったようなイルカの声が聞こえた。
「・・・あの・・・、ご武運を・・・」
聞こえた言葉に驚いて振り帰るカカシの眼に飛び込んできたのは、眉を寄せ、唇を引き結んだイルカのぎこちない表情だった。
小さく頷いて報告所を後にしたカカシは、数歩足を進めたところで立ち止まり、背中を壁につけて天を仰いだ。
記憶の中にあるイルカの表情は、いつだって今にも泣き出しそうな顔だ。
掌の中の依頼書を力任せにグシャリを握りしめて、溜息を付いた。
そんな顔しかさせられなかった自分が情けない。
「オレってほんと馬鹿・・・」
吐き出す言葉に未練たらしい嘆きを含ませて、ガックリと頭を垂れた。
泣き出しそうな顔なんかじゃない。
子供たちに向ける、顔全体で笑っているような温かい笑顔が見たいと、心底思った。
*****
トボトボと歩く帰り道。
ずっしりと膨らんだ鞄が肩に食い込む程に重い。
もちろん詰め込んだ教材の重さだけではない。
良心の呵責も上乗せされた後ろめたさに、家路を目指す足取りはどんどんと重くなる。
依頼を振り分けるのは受付の役目。
いつもやっていることだ。
だけど、振り分けた任務が失敗した時、その采配が正しかったのかどうかいつも考えさせられる。
カカシほどの男だから、万が一の事があるとは思わないが、それでも絶対はありえない。
見上げた月にため息を付いて、重い足を引きずるようにして一歩前へ進めた。
「あれ? アンタこの間の中忍じゃねぇか?」
不意に呼ばれた名前に振り向くと、先日アスマと一緒にいた見慣れない上忍が軽く手をあげて屋根の上から降りてきた。
「・・・たしか、うみの・・」
「イルカです」
「そうそう、イルカ先生。仕事帰りか?」
気さくな様子で話しかけてくる上忍に、イルカはコクリと頷いた。
「・・・辛気臭ぇ顔だな」
バンバンと背中を叩かれるのによろめいて、イルカは非難の混じった視線を向ける。
「そんな顔するなよ、今日はカカシは?」
最近暇さえあればつきまとっていると噂の同僚を探してあたりを見渡す。
本気を出せば上忍に気配すら読ませない相手に注意してみるものの、本当にいないようだ。
「・・・任務で・・・」
心なしかしょんぼりとうなだれているイルカが小さな声で答えた。
カカシの言っていたとおり、見目麗しいわけでもなく見るからに平凡な中忍だ。
だけど先日居酒屋であった時に、俺のものだと言わんばかりの威嚇に失笑したのも事実。
「そういやアンタ、カカシとつきあってんだって?」
確認するつもりでもなかったけれど、口から出た言葉にピクリと身体が強張る。
そのままさも不快だと言わんばかりに眉を顰められて首を傾げた。
「違うのか?」
「それは、慰み者と言う意味ですか?」
燃えるような眼。
怒りと悲しみが入り混じったそんな瞳に思わず言葉を失う。
「いや、だってカカシの奴が・・」
「違いますッ!」
言い終わる前に声を荒らげたイルカの気迫に、目を見開いて凝視した。
「・・・あの人は、俺のことをそんな風に思ったりしていません」
「・・・・」
飽きたら捨てられる玩具の一つだ。
吐き捨てられる言葉に、呆れたように肩をすくめた。
ほらな、付き合って直ぐに花街に連れ込んで無理矢理事に及んだりするからだぞと、カカシがここにいればそう言って詰ってやれるものの、悲しいかな彼は任務で里外だ。
「・・・あいつが恋人だって」
「は・・?」
聞いた言葉が信じられないというようにポカンと口を開けたイルカに苦笑して、言葉を紡いだ。
「前に任務で一緒になった時、何年も喧嘩中の恋人がいるってよぉ」
とぼけた口調に、イルカは首を左右に振った。
「・・それは俺じゃ・・・」
「チャクラ切れでぶっ倒れた時、強制入院させたのはあんたじゃないのか?」
ハッと顔をあげたイルカにニヤリと笑う。
この貸しは高く付くぜと心のなかでほくそ笑んだ。
「見舞いに一度も来てくれない薄情な恋人」
「・・・そ、それは・・」
「ずーっと待ってたらしいぜ」
狼狽えた様子のイルカに可笑しくなって、面白がって責めるような口ぶりになる。
なんだ。
一方通行ってわけじゃないじゃないか。
良かったなと、あの日の打ちひしがれた様子のカカシに話しかけて、ポンっとイルカの肩を叩いた。
「だいたいあんたみたいな面倒そうなヤツ、アイツが遊びでちょっかい出すわけねぇだろ」
遊びならもっと熟れた女にするさ。
トドメとばかりにそう言うと、泣き出しそうなイルカの瞳と視線が交わった。
ふぅん。
悪くない。
確かに今すぐにでもつれ込みたくなる気分にはなるなと思うが、戻ってきたカカシと争いになるのは避けたい。
「アイツはガキの頃から戦場育ちだからよぉ」
「・・・・・?」
「しかもあの面だ。女にも不自由したことがない」
ムカつくだろ?
フンっと鼻息荒く肩を怒らせるのに、小さく笑った。
「つまり、接し方を知らないんだよ」
「・・・接し方・・・?」
子供と一緒だと、ため息混じりに呟く。
「ーー簡単に言やぁ、好きな子に意地悪したいのさ」
そんな言葉にギョッとして、月明かりでもわかるぐらい真っ赤になったイルカに、ニヤリと笑った。
「ただ、子供と違って力があるだけ質が悪い・・・」
「・・・・・」
「アンタにしたことを許してやれとは言わねぇが、そこだけはわかってやってくれ」
「・・・・・」
そんな言葉に、ウロウロと迷うような視線を彷徨わせた後、イルカは何も言わずにペコリと頭を下げた。
言うべきことは言ってやったぞ。
後は野となれ山となれだ。
今はいないカカシに呟いて、それじゃあなとポンっと頭に手を置いた。
ヒラリとまた屋根の上へと飛んだ上忍の背中を、イルカは見上げたままいつまでも見送り続けた。
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