「お引き止めしたんです」
「なに? その無能発言」
「無能とはなんて言い草ですか。そもそも先輩がちゃんと仕事を片付けていれば良かったんじゃないですか」
「まさかお前がそんな失態を犯すなんて思わないじゃない」
「失態、それはまた」
ハハハと乾いた笑いをする執事に歯噛みする。
漸く今日の仕事が終わると一息つけば、イルカはもう西の館に戻った後だというではないか。
「ちゃんとボクはお引き止めしましたよ」
「だーかーら。そんな口先だけで言われても現にイルカ先生は帰っちゃってるでしょ」
どうにも怒りがおさまらないらしい。
イライラとした様子で、最後の一枚に殴り書きのようにサインを書き込んだ。
「ありがとうございます」
もとはといえば仕事を溜めに溜めていたカカシのせいなのだが、とりあえず礼を言って書類の束を手に取れば、銀髪の間から覗く鋭い眼光が責めるように瞬いた。
「・・・どんな様子だった?」
「はい?」
「イルカ先生だーよ」
気になっていたのだ。
最後にイルカを見た時、彼は少し青ざめてはいなかったか?
「そうですね・・なにやら急ぎの用があるとか仰っていましたが」
引き止めるヤマトの言葉を頑なに固辞したイルカの姿を思い出す。
そういえば、いつもの溌剌とした様子とは少し違ったように見えなくもなかった。
「急ぎの用、ねぇ」
「そんなに気になりますか」
「・・・・・」
呆れた物言いには返事をする気はないらしい。
何やら考えこんだカカシに答えを期待するのはやめて、片付いた書類の山を整えた。
「そういや先生が借りた本だけど、お前覚えてる?」
「いえ・・見慣れない表紙でしたが・・」
「・・・ん」
ヤマトにはあまり馴染みのない本だった。
思い出そうとしてそう言えば、カカシの眉間にシワが寄る。
建築関係の本にしか興味が無いヤマトに聞くのは間違いだったか。
さっさとそう判断し、席を立つ。
「とりあえず、暫く仕事はしないからそのつもりで」
「・・・センパイ」
出来上がった書類を抱えながらガクリと肩を落とす後輩に手を振って、カカシは書斎を後にするのだった。
*****
書斎を抜けて、書庫へと続く廊下を足早に歩いた。
何かがおかしいと警鐘を鳴らす自分の勘が、こんな時、間違いを侵すわけがないことぐらい経験上知っている。
書庫の扉を開き、イルカがいた辺りに目線を走らせて漸く気づく。
そういえば、あの時もこの場所で彼が腕を伸ばしていた。
「・・・・・」
書棚の前に立ち、同じように目線を上げる。イルカより少しだけ背が高いカカシだから、背伸びをする必要はない。
燕尾色の革で包まれたその本は、カカシが一度も手を伸ばしたことのないものだった。
革本来の滑らかさは上質な手触りで、しっとりと吸い付き肌に馴染む。
ところどころ斑に色が変わってしまっているのは、それが年代物だからだと伝えていた。
「・・・こんな古い本・・・いや、・・日記か・・?」
開いてみれば、それはカカシと似通った筆跡で書かれたもので、厳密に言えば書籍とはいえないものだった。
「なんだ、これは」
パラパラとページを捲り呟く。
何の変哲もない日々をつらつらと書いた日記のようでもあるし、なにやら摩訶不可思議な事を綴っている日もある。
そうして出てきた人物の名前に、ピクリと眉を寄せて凝視した。
イルカ。
国土の全てが陸地である木の葉においては珍しい名前だ。
同名かと一瞬考えて、ペラリとめくった頁からこぼれ落ちた写真に思わず声が漏れた。
「これは・・、オレ・・?・・いや、違う」
唸ったのは、そればかりではない。
自分と全く同じ顔の男の横で微笑むのは、紛れも無く先程までここに居たうみのイルカ本人で。
古びて色あせた写真の裏には、彼の名前も刻まれていた。
そして、その隣りに写っているのは。
『・・さん、・・だいめ・・・』
途切れ途切れにそう口にしたイルカの姿がフラッシュバックした。
愛おしむような表情でそう口にして、カカシの頬に触れた手が背中に回り・・・。
「ーーーーーッ・・・!!」
背筋をはしる冷たい汗にゾッとして、掌で口を覆う。
アレは。
込み上げる吐き気に似た気持ち悪さに、よろける身体が書棚にぶつかった。
ズルズルと滑るように尻もちをついて座り込むと、僅かに震える手で写真を持ち上げる。
「・・・三代目、ね」
そう口にして、掌の中の写真を凝視する。
己でも一瞬見間違うほどに瓜二つの顔。写真が古びていなければ、ここに写っているのはカカシとイルカだと言ってもおかしくないほどだ。
そんな二人の姿に、悔しいと心底思った。
写真の中のイルカは、その男を見つめて屈託なく笑っていた。まるで安心しきった子供の様な表情は、カカシが一度も見たことがないもので。
床の上に座り込んだまま、手にした本の頁を捲る。
俄には信じられないその内容に、表情は自然と強張っていく。
それは、普通では到底ありえない話だったけれど、『うみのイルカ』というモノが存在する現実が、皮肉にも真実を告げていた。
ーーー老いることもなく死ぬこともない。
彼は間違いなくこの時代、この場所に確かに存在していたのだ。
*****
逃げなければと思った。
冷たい、と。ヤマトが口にした言葉に、頭から冷水を浴びせかけられたようだった。
本来なら次の世代に伝承されるべきイルカの存在は、五代目であるはたけサクモが急逝したために、カカシへは引き継がれなかったということを失念していたのだ。
イルカ自身、三代目の家系だから安心だと、どこかでたかをくくっていたのかもしれない。
いや、違う。
あまりにも居心地がいいこの環境から離れがたくて、態と眼をつぶっていたのだと、自分の間抜けさに歯噛みする。
カカシと肌を重ねた時、直ぐにでもここを引き払うべきだったのだ。
それなのに、どうしても離れがたくて留まった。
子供たちのこともある。けれども一番の理由は・・・。
「・・・・・っ・・」
重なったカカシの肌の温もりを思い出す。
大きな手や逞しい身体。そして体内に受け入れた熱量を。
イルカの血液を与えられた猫は、望まぬままに生命の理を犯してしまったというのに、どうしてカカシだけは大丈夫だなどと思ったのだろう。
「・・はやくしないと・・」
呆然と座り込んだままの身体を叱咤して、無理矢理覚醒させる。
三代目との研究で導き出した答えを頭のなかに呼び起こしながら、まだ間に合うはずだと、仕舞いこんだトランクケースを引き摺り出して手当たり次第に突っ込んだ。
イルカの体液を摂取し、完全な変化を遂げてしまうまでには猶予があるはずだった。
だから早く、と。
焦るあまり、覚束ない手が何度も取りこぼすのに苛立ちだけが募る。
早く、はやく。
カカシがここを訪れる前に、この場所から姿を消してしまうのだ。
そう決意して立ち上がった瞬間。
背後に感じた気配に、ギクリと身体が強張った。
「どこか旅行でも?」
のんびりと聞こえる声に、振り返ることが出来ない。
口の中に溜まった唾液を飲み込んで、小さく息を吐いた。
遅かったのだろうか。
いや、カカシがイルカの秘密に気づいたわけではないと、そう信じて振り向いた。
「そんなに慌てて」
イルカからの答えが欲しいわけではないらしい。
扉にもたれかかったカカシの視線は、イルカではなく足元のトランクケースを見つめている。
「ええ。ちょっと気になることがあり・・」
「ーーこんな夜中に?」
出かけるつもりだと口にしようとすれば、言葉尻をとらえられた。
気がつけば、もう月明かりが夜道を照らす時刻だ。
こんな時間帯にカカシがここを訪れた事に、違和感を感じながらもそれを振り払うように笑った。
「思い立ったらすぐやらないと気が済まない質でして」
「初めて会った時も外壁の蔦を刈り取ってましたっけ?」
「あぁ、そうでしたね。結局その日中には無理でしたけれど」
もう数カ月前の話だ。
何でもない会話の中で、いつも優しげな笑みを浮かべているカカシがニコリとも笑わないことに不安が募った。
もしかしてと思いつつも、それを感情が否定する。
気づかれたのだろうか? いや、そんなわけがない、と。
ぐるぐると回る思考の中で、ゆっくりと近づくカカシの姿を凝視した。
「この写真、イルカ先生ですよね」
そういえば・・、と。おもむろに差し出された一枚の古ぼけた写真に息を呑んだ。
別人だと言おうとしても、確信を持ってそう口にしたカカシの視線は揺るぎがない。
「・・それは・・・・」
「隣に写ってるのは、三代目?」
「ーーーー・・っ・・!!」
指摘された事実に、逃げようとした。
身体一つで、少しだけ斜めに構えたカカシの脇をすり抜ける。
扉への最短距離を駆け抜け外へ飛び出そうとして、それが罠だと気づいたのは引っ掛けられた足先がもつれてバランスを崩した瞬間だった。
「・・っ・・わ、ぁあ・・・!!」
無様なほどに格好悪く床に転がると予想した身体は、力強い腕によってその難を逃れた。
しかし、それはまたイルカにとっては別の災難だったわけで。
「どこへ行くつもりですか?」
掴まれた腕に、カカシの熱い体温を感じないことに言葉を失った。
冷ややかだとも聞こえる声はまるで感情がなくて、囚われる恐怖にイルカの顔が恐怖に歪む。
「離して、下さいっ」
「いやです」
「ーーカカシさんッ!」
そうして初めて気づくのだ。
目の前の男が、何故だか無性に苛立っていることに。
「ちょっ・・」
力任せにベッドへ放り投げられて、沈む身体の上に覆いかぶさってくる男を仰ぎ見る。
抵抗しようとした手を掴まれて纏めてシーツに縫い付けられると、荒々しい手がイルカの顎を捕らえた。
「・・・・っ!!」
けして逃げられないように、正面をむかされた目線の先にカカシの冷えた眼光が映る。
そらそうと身体を捩れば捩るほど物凄い力で締めあげられて、痛みに顔を歪んだ。
こんなに触れられているのに、今まで感じていたカカシの熱いほどの体温を感じないことが怖かった。
「イルカ先生。一体、あなたはナニモノ?」
「ーーーッ!」
「この写真、・・・三代目はオレの曽祖父にあたる人なんですよね」
付きつけられた写真から目を反らし、唇を噛んだ。
答えてはいけない。
継承されなかった以上、彼は秘密を共有出来る人物ではないのだと、そう決意して口を噤んだ。
「ざっと、100年前ってところですか。・・おかしな話です。その時代の写真にあなたも写っている」
「・・別人っ・・です。・・俺じゃないっ」
「ハハッ! 偶然ですね、と言いたいところですが、名前まで一緒なんてことがありますか?」
「あ・・るから、人生って面白い・・んじゃないでしょうか・・?」
頑として認めようとしないイルカに、ピクリと眉が跳ね上がる。
どうして隠そうとしているのかわからないが、そんな頑なな態度に腹の中が怒りで熱くなる。
つい両手を掴んだ腕に力が入り、苦痛にイルカが顔を顰めるのに感情が高揚した。
「そうだ。館にある本を読みました」
「ーーーっ・・」
「三代目の手記で、興味深い内容が書かれていましたよ。共同執筆者の名前はうみのイルカ。・・・あなたですよね」
「な、にを」
「その内容が・・」
「やめーーー」
すらすらと紡がれる言葉に耳を塞ぎたくなった。
まるで死刑台に昇る囚人のような気持ちで、イルカから目を離そうとしないカカシを見上げた。
その次の言葉を聞きたくない。
どうか、決定的なことを言わないでと願うのに、冷酷な表情を浮かべる男の唇は、無情にもイルカを嘆かせる言葉を口にした。
「ーーーー不老不死」
「・・・・ッ!!」
ヒュッと、息を飲む音だけが静まり返った室内に響いた。
見つめるカカシの瞳はこの部屋に入ってきてからずっと冷ややかで、感情一つ読み取ることが出来ない。
恐怖で震えそうになる身体を必死で押さえつけ、イルカは首を振った。
『バケモノ』
いつか誰かに言われたように。
この男からも告げられるのだろうか。
イルカを庇護した三代目と同じ顔の男が、イルカをバケモノだと糾弾すると言うのか。
「・・・三代目が好きだった?」
だから。
カカシがそう口にした時、イルカには何を言われているのかわからなかった。
「な、に・・?」
問い返したイルカに、少しだけ眉を寄せたカカシが、言葉のとおりだと繰り返す。
思わず頷けば、イルカを見据える瞳が剣呑な光を宿す。
カカシの怒りに触れる理由が分からず、捕らえる腕から逃れようと見動けば、顔を掴まれて無理矢理口付けられた。
「・・・んぅ・・ン・・!」
嵐のような口付けに、わけが分からず暴れる身体を押さえつけられる。
生き物の熱を感じない事が、イルカを更に恐怖に陥れた。
これ以上、体液の交換がすすんだら。
カカシは人として引き返せないところまで来てしまうのだ。
「ヤ、メ・・ーーーッ!」
「・・・三代目にもこうして抱かれた?」
「ーーーえ・・?」
抵抗する腕がまた囚えられた。
声を荒げるカカシの激昂する様子を、目を見開いて凝視する。
カカシが何に怒っているのかわからない。
「なに・・」
「同じ顔だから?」
「・・何を言って」
「三代目が好きだからっ、オレと寝たの?」
「え・・」
「ーーーこんな、顔」
ごちるように呟いたカカシが、おもむろに枕の下に手を伸ばす。
護身用に隠されていた鋭利な刃物にギクリと身体をこわばらせた瞬間。
「カカシさんッ!!」
イルカが止める間もなく、それはカカシの顔の左側を切り裂いたのだ。
「なに? その無能発言」
「無能とはなんて言い草ですか。そもそも先輩がちゃんと仕事を片付けていれば良かったんじゃないですか」
「まさかお前がそんな失態を犯すなんて思わないじゃない」
「失態、それはまた」
ハハハと乾いた笑いをする執事に歯噛みする。
漸く今日の仕事が終わると一息つけば、イルカはもう西の館に戻った後だというではないか。
「ちゃんとボクはお引き止めしましたよ」
「だーかーら。そんな口先だけで言われても現にイルカ先生は帰っちゃってるでしょ」
どうにも怒りがおさまらないらしい。
イライラとした様子で、最後の一枚に殴り書きのようにサインを書き込んだ。
「ありがとうございます」
もとはといえば仕事を溜めに溜めていたカカシのせいなのだが、とりあえず礼を言って書類の束を手に取れば、銀髪の間から覗く鋭い眼光が責めるように瞬いた。
「・・・どんな様子だった?」
「はい?」
「イルカ先生だーよ」
気になっていたのだ。
最後にイルカを見た時、彼は少し青ざめてはいなかったか?
「そうですね・・なにやら急ぎの用があるとか仰っていましたが」
引き止めるヤマトの言葉を頑なに固辞したイルカの姿を思い出す。
そういえば、いつもの溌剌とした様子とは少し違ったように見えなくもなかった。
「急ぎの用、ねぇ」
「そんなに気になりますか」
「・・・・・」
呆れた物言いには返事をする気はないらしい。
何やら考えこんだカカシに答えを期待するのはやめて、片付いた書類の山を整えた。
「そういや先生が借りた本だけど、お前覚えてる?」
「いえ・・見慣れない表紙でしたが・・」
「・・・ん」
ヤマトにはあまり馴染みのない本だった。
思い出そうとしてそう言えば、カカシの眉間にシワが寄る。
建築関係の本にしか興味が無いヤマトに聞くのは間違いだったか。
さっさとそう判断し、席を立つ。
「とりあえず、暫く仕事はしないからそのつもりで」
「・・・センパイ」
出来上がった書類を抱えながらガクリと肩を落とす後輩に手を振って、カカシは書斎を後にするのだった。
*****
書斎を抜けて、書庫へと続く廊下を足早に歩いた。
何かがおかしいと警鐘を鳴らす自分の勘が、こんな時、間違いを侵すわけがないことぐらい経験上知っている。
書庫の扉を開き、イルカがいた辺りに目線を走らせて漸く気づく。
そういえば、あの時もこの場所で彼が腕を伸ばしていた。
「・・・・・」
書棚の前に立ち、同じように目線を上げる。イルカより少しだけ背が高いカカシだから、背伸びをする必要はない。
燕尾色の革で包まれたその本は、カカシが一度も手を伸ばしたことのないものだった。
革本来の滑らかさは上質な手触りで、しっとりと吸い付き肌に馴染む。
ところどころ斑に色が変わってしまっているのは、それが年代物だからだと伝えていた。
「・・・こんな古い本・・・いや、・・日記か・・?」
開いてみれば、それはカカシと似通った筆跡で書かれたもので、厳密に言えば書籍とはいえないものだった。
「なんだ、これは」
パラパラとページを捲り呟く。
何の変哲もない日々をつらつらと書いた日記のようでもあるし、なにやら摩訶不可思議な事を綴っている日もある。
そうして出てきた人物の名前に、ピクリと眉を寄せて凝視した。
イルカ。
国土の全てが陸地である木の葉においては珍しい名前だ。
同名かと一瞬考えて、ペラリとめくった頁からこぼれ落ちた写真に思わず声が漏れた。
「これは・・、オレ・・?・・いや、違う」
唸ったのは、そればかりではない。
自分と全く同じ顔の男の横で微笑むのは、紛れも無く先程までここに居たうみのイルカ本人で。
古びて色あせた写真の裏には、彼の名前も刻まれていた。
そして、その隣りに写っているのは。
『・・さん、・・だいめ・・・』
途切れ途切れにそう口にしたイルカの姿がフラッシュバックした。
愛おしむような表情でそう口にして、カカシの頬に触れた手が背中に回り・・・。
「ーーーーーッ・・・!!」
背筋をはしる冷たい汗にゾッとして、掌で口を覆う。
アレは。
込み上げる吐き気に似た気持ち悪さに、よろける身体が書棚にぶつかった。
ズルズルと滑るように尻もちをついて座り込むと、僅かに震える手で写真を持ち上げる。
「・・・三代目、ね」
そう口にして、掌の中の写真を凝視する。
己でも一瞬見間違うほどに瓜二つの顔。写真が古びていなければ、ここに写っているのはカカシとイルカだと言ってもおかしくないほどだ。
そんな二人の姿に、悔しいと心底思った。
写真の中のイルカは、その男を見つめて屈託なく笑っていた。まるで安心しきった子供の様な表情は、カカシが一度も見たことがないもので。
床の上に座り込んだまま、手にした本の頁を捲る。
俄には信じられないその内容に、表情は自然と強張っていく。
それは、普通では到底ありえない話だったけれど、『うみのイルカ』というモノが存在する現実が、皮肉にも真実を告げていた。
ーーー老いることもなく死ぬこともない。
彼は間違いなくこの時代、この場所に確かに存在していたのだ。
*****
逃げなければと思った。
冷たい、と。ヤマトが口にした言葉に、頭から冷水を浴びせかけられたようだった。
本来なら次の世代に伝承されるべきイルカの存在は、五代目であるはたけサクモが急逝したために、カカシへは引き継がれなかったということを失念していたのだ。
イルカ自身、三代目の家系だから安心だと、どこかでたかをくくっていたのかもしれない。
いや、違う。
あまりにも居心地がいいこの環境から離れがたくて、態と眼をつぶっていたのだと、自分の間抜けさに歯噛みする。
カカシと肌を重ねた時、直ぐにでもここを引き払うべきだったのだ。
それなのに、どうしても離れがたくて留まった。
子供たちのこともある。けれども一番の理由は・・・。
「・・・・・っ・・」
重なったカカシの肌の温もりを思い出す。
大きな手や逞しい身体。そして体内に受け入れた熱量を。
イルカの血液を与えられた猫は、望まぬままに生命の理を犯してしまったというのに、どうしてカカシだけは大丈夫だなどと思ったのだろう。
「・・はやくしないと・・」
呆然と座り込んだままの身体を叱咤して、無理矢理覚醒させる。
三代目との研究で導き出した答えを頭のなかに呼び起こしながら、まだ間に合うはずだと、仕舞いこんだトランクケースを引き摺り出して手当たり次第に突っ込んだ。
イルカの体液を摂取し、完全な変化を遂げてしまうまでには猶予があるはずだった。
だから早く、と。
焦るあまり、覚束ない手が何度も取りこぼすのに苛立ちだけが募る。
早く、はやく。
カカシがここを訪れる前に、この場所から姿を消してしまうのだ。
そう決意して立ち上がった瞬間。
背後に感じた気配に、ギクリと身体が強張った。
「どこか旅行でも?」
のんびりと聞こえる声に、振り返ることが出来ない。
口の中に溜まった唾液を飲み込んで、小さく息を吐いた。
遅かったのだろうか。
いや、カカシがイルカの秘密に気づいたわけではないと、そう信じて振り向いた。
「そんなに慌てて」
イルカからの答えが欲しいわけではないらしい。
扉にもたれかかったカカシの視線は、イルカではなく足元のトランクケースを見つめている。
「ええ。ちょっと気になることがあり・・」
「ーーこんな夜中に?」
出かけるつもりだと口にしようとすれば、言葉尻をとらえられた。
気がつけば、もう月明かりが夜道を照らす時刻だ。
こんな時間帯にカカシがここを訪れた事に、違和感を感じながらもそれを振り払うように笑った。
「思い立ったらすぐやらないと気が済まない質でして」
「初めて会った時も外壁の蔦を刈り取ってましたっけ?」
「あぁ、そうでしたね。結局その日中には無理でしたけれど」
もう数カ月前の話だ。
何でもない会話の中で、いつも優しげな笑みを浮かべているカカシがニコリとも笑わないことに不安が募った。
もしかしてと思いつつも、それを感情が否定する。
気づかれたのだろうか? いや、そんなわけがない、と。
ぐるぐると回る思考の中で、ゆっくりと近づくカカシの姿を凝視した。
「この写真、イルカ先生ですよね」
そういえば・・、と。おもむろに差し出された一枚の古ぼけた写真に息を呑んだ。
別人だと言おうとしても、確信を持ってそう口にしたカカシの視線は揺るぎがない。
「・・それは・・・・」
「隣に写ってるのは、三代目?」
「ーーーー・・っ・・!!」
指摘された事実に、逃げようとした。
身体一つで、少しだけ斜めに構えたカカシの脇をすり抜ける。
扉への最短距離を駆け抜け外へ飛び出そうとして、それが罠だと気づいたのは引っ掛けられた足先がもつれてバランスを崩した瞬間だった。
「・・っ・・わ、ぁあ・・・!!」
無様なほどに格好悪く床に転がると予想した身体は、力強い腕によってその難を逃れた。
しかし、それはまたイルカにとっては別の災難だったわけで。
「どこへ行くつもりですか?」
掴まれた腕に、カカシの熱い体温を感じないことに言葉を失った。
冷ややかだとも聞こえる声はまるで感情がなくて、囚われる恐怖にイルカの顔が恐怖に歪む。
「離して、下さいっ」
「いやです」
「ーーカカシさんッ!」
そうして初めて気づくのだ。
目の前の男が、何故だか無性に苛立っていることに。
「ちょっ・・」
力任せにベッドへ放り投げられて、沈む身体の上に覆いかぶさってくる男を仰ぎ見る。
抵抗しようとした手を掴まれて纏めてシーツに縫い付けられると、荒々しい手がイルカの顎を捕らえた。
「・・・・っ!!」
けして逃げられないように、正面をむかされた目線の先にカカシの冷えた眼光が映る。
そらそうと身体を捩れば捩るほど物凄い力で締めあげられて、痛みに顔を歪んだ。
こんなに触れられているのに、今まで感じていたカカシの熱いほどの体温を感じないことが怖かった。
「イルカ先生。一体、あなたはナニモノ?」
「ーーーッ!」
「この写真、・・・三代目はオレの曽祖父にあたる人なんですよね」
付きつけられた写真から目を反らし、唇を噛んだ。
答えてはいけない。
継承されなかった以上、彼は秘密を共有出来る人物ではないのだと、そう決意して口を噤んだ。
「ざっと、100年前ってところですか。・・おかしな話です。その時代の写真にあなたも写っている」
「・・別人っ・・です。・・俺じゃないっ」
「ハハッ! 偶然ですね、と言いたいところですが、名前まで一緒なんてことがありますか?」
「あ・・るから、人生って面白い・・んじゃないでしょうか・・?」
頑として認めようとしないイルカに、ピクリと眉が跳ね上がる。
どうして隠そうとしているのかわからないが、そんな頑なな態度に腹の中が怒りで熱くなる。
つい両手を掴んだ腕に力が入り、苦痛にイルカが顔を顰めるのに感情が高揚した。
「そうだ。館にある本を読みました」
「ーーーっ・・」
「三代目の手記で、興味深い内容が書かれていましたよ。共同執筆者の名前はうみのイルカ。・・・あなたですよね」
「な、にを」
「その内容が・・」
「やめーーー」
すらすらと紡がれる言葉に耳を塞ぎたくなった。
まるで死刑台に昇る囚人のような気持ちで、イルカから目を離そうとしないカカシを見上げた。
その次の言葉を聞きたくない。
どうか、決定的なことを言わないでと願うのに、冷酷な表情を浮かべる男の唇は、無情にもイルカを嘆かせる言葉を口にした。
「ーーーー不老不死」
「・・・・ッ!!」
ヒュッと、息を飲む音だけが静まり返った室内に響いた。
見つめるカカシの瞳はこの部屋に入ってきてからずっと冷ややかで、感情一つ読み取ることが出来ない。
恐怖で震えそうになる身体を必死で押さえつけ、イルカは首を振った。
『バケモノ』
いつか誰かに言われたように。
この男からも告げられるのだろうか。
イルカを庇護した三代目と同じ顔の男が、イルカをバケモノだと糾弾すると言うのか。
「・・・三代目が好きだった?」
だから。
カカシがそう口にした時、イルカには何を言われているのかわからなかった。
「な、に・・?」
問い返したイルカに、少しだけ眉を寄せたカカシが、言葉のとおりだと繰り返す。
思わず頷けば、イルカを見据える瞳が剣呑な光を宿す。
カカシの怒りに触れる理由が分からず、捕らえる腕から逃れようと見動けば、顔を掴まれて無理矢理口付けられた。
「・・・んぅ・・ン・・!」
嵐のような口付けに、わけが分からず暴れる身体を押さえつけられる。
生き物の熱を感じない事が、イルカを更に恐怖に陥れた。
これ以上、体液の交換がすすんだら。
カカシは人として引き返せないところまで来てしまうのだ。
「ヤ、メ・・ーーーッ!」
「・・・三代目にもこうして抱かれた?」
「ーーーえ・・?」
抵抗する腕がまた囚えられた。
声を荒げるカカシの激昂する様子を、目を見開いて凝視する。
カカシが何に怒っているのかわからない。
「なに・・」
「同じ顔だから?」
「・・何を言って」
「三代目が好きだからっ、オレと寝たの?」
「え・・」
「ーーーこんな、顔」
ごちるように呟いたカカシが、おもむろに枕の下に手を伸ばす。
護身用に隠されていた鋭利な刃物にギクリと身体をこわばらせた瞬間。
「カカシさんッ!!」
イルカが止める間もなく、それはカカシの顔の左側を切り裂いたのだ。
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【恋は銀色の翼にのりて】
恋は銀色の翼にのりて
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Home Sweet Home
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夜に引き裂かれても
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