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 呼びだされた火影室。
 難しい顔をしたまま煙管の煙をくゆらせている三代目火影の姿に、いったいどんな無理難題を言われることかとイルカは眉を寄せた。
 かれこれこの部屋にきてからどれ位の時間がたっただろう。
 静まり返った室内では、ヒルゼンが吹かすタバコが燃える音だけがジジジと響いている。
「……あの、」
 沈黙に耐えきれずそう口にすれば、ジロリと睨む瞳は鋭い。
 それでもプロフェッサーの異名をとる火影は、眼の前で困惑した表情のまま立ち尽くす青年を前に、大きな溜息をついた。
「すまんな」
「いえ……それで、どのような……?」
 それほど重要な任務なのだろうか?
 難しい顔を崩しもしない火影の表情に、緊張を隠し切れない。
「面倒を見てもらいたい奴がおってな」
「面倒、ですか」
「……うむ」
 そう聞いて、少し拍子抜けした顔をした。
 イルカの職業はアカデミー教師だ。
 今まで様々な子供たちを教育してきたという自負もある。
 難しい顔をしているから、どんなやっかいごとをふっかけられることかと思ったが、どうやら得意分野のようだ。イルカは安堵してニコリと笑ってみせた。
「かしこまりました。して、誰の――……」
「カカシじゃ」
「へ?」
「はたけカカシじゃ」
「………」
 前言撤回。
 はたけカカシといえば、イルカなどが手も届かない雲の上の上忍様で、里の誉れと名高い男である。
「えっと…、」
 戸惑うイルカに、コンコンと煙管を打ち付けた火影が忌々しげに眉を顰める。
「任務でしくじりよってな。自宅療養させとるんじゃが、ちと訳ありでのう」
「はぁ」
「その世話を、お主にやってもらいたいのじゃ」
 嫌だ。お断りしたい。瞬間的に思ったのはそれだった。
 しかし、まっすぐに見つめる視線は否やを言わせない眼光を発していて、イルカはすぐさま断りたい気持ちをとりあえず抑えこむ。
「……、しかしっ……私とはたけ上忍は……」
 彼とイルカの間には深い確執がある。
 ナルト達の中忍試験を巡っての言い争いは、火影も知っているはずだ。
「わかっとる」
「では……」
「それでもお主に頼みたいのじゃ」
 ふうっと吐き出した煙が宙に昇っていくのを見つめながら、天を仰ぎたい気持ちで唇を噛み締めた。
 はたけカカシといえば、内勤で教師のイルカにとっては憧れで、それこそ雲の上の存在だった。カカシが子供たちの上忍師に就任するまでは、言葉すら交わしたこともなかったのだ。
 だからこそ、中忍試験での言い争いは痛恨の極みだった。互いに意見を譲らず、とどめとばかりに放たれたカカシ一言で、イルカは自分の甘さと見識の低さを痛感するしかなかったのだ。
 そういや謝りに言った時も、お前に興味なしって感じで頷かれただけだったし。
 普通はもっとあるだろ?
 ゴメンね、オレも言い過ぎたよ、とかさ。
 苦手なんだよなぁ。ああいう掴みどころのない人。
 心の中でうんざりしながらイルカはこっそりとため息を付いた。
 カカシとの一件は、苦い記憶としてイルカの中で長く尾を引いていたのだ。本当のことを言えば、あまり関わり合いたくはない存在なのである。
「……私でなくてはいけないのでしょうか」
 せめてもの抵抗と口にした言葉は、頷く火影によって肯定される。
 頼んだぞという緩やかな命により、イルカは諦めの気持ちのまま頭を下げた。


*****


「……デカい……!」
 渡されたのは住所と地図。その二つを見比べながらも辿り着いた家の前で、思わず呟いた。
 さすが上忍様、と。思わず嫌味の一つでも言いたくなるような広い庭付きの平屋が、はたけカカシの家だった。
「とりあえずは結界とトラップが必要かな」
 火影から下された命は三つ。
 療養中のカカシの世話と、屋敷の警護。
 それから。
 屋敷内のことはけして口外してはならない、ということだ。
 信用のおける者として三代目に選ばれたことは誇りに思うが、これからのことを考えると億劫だった。
 カカシだとて、よもや言い争いをしたイルカの世話になりたいだなどと思うわけもないのに、と。
 そんなことを考えて、チクリと痛む胸に首を傾げた。
「……なんだ……?」
 妙な違和感に思わず口に出すものの、その答えは見つからない。
 生来大らかな性格のイルカは、その違和感を追求することなく玄関のドアを叩いた。
「こんにちは」
 療養中ならここまで出てこられるはずはないと、不意にそんなことが頭をよぎったが、暫くして眼の前の扉はカラリと音を立てながら開いた。
「はい」
 透明感のある声と、玄関先に顔を出した人物に思わずポカンと口があく。
「……あれ?」
「?」
「間違えたかな? えーっと、こちらははたけ上忍の家では?」
「ええ、そうですよ」
 柔らかな笑みを浮かべるのは長い黒髪の女性。たおやかな着物に身を包み、戸惑うイルカに笑ってみせた。
「うみのイルカさん?」
「はい。……っと、どうして俺の名前を?」
「火影様から、今日来られるって伺っていました。あと、鼻の傷」
 指先で自らの頬から頬を辿って笑った女性の姿に、少しキュンとしてしまう。
 可愛いじゃないか。しかし……。
「あなたは?」
「サユリ」
 尋ねようとした瞬間、屋内から聞こえてきた声に阻まれた。
「まぁ、起きてはいけませんよ、カカシさん」
 驚いた声をあげ、くるりと背中を向けて部屋へと入っていく後ろ姿の先にはカカシの姿。
 着流しの着物姿で、柱に背中を預けて立っているその表情は思いのほか青白い。
 素顔を晒していることに気づいたのは、そんなことを思った時だった。
「早く入って」
 それだけ言い放つと、くるりと踵を返して室内へと姿を消す。
 振り返ったサユリがどうぞと促すのに、イルカは少しばかり戸惑いながら家の中へと足をすすめるのだった。


*****


 イルカが玄関の三和土をまたいだ時、ガタンという音と共に駆け寄る軽い足音を耳にした。
「近づくな!」
「―――……ッ……」
 厳しい声だと思った。
 案の定息を呑む女の雰囲気に、足早に二人の方へ駆け出す。
「サユリさんッ!?」
 名前を呼べば、少し怯えたような女が振り向くのと同時に、廊下に片膝を付くカカシの姿が見えた。
「あ、あの……カカシさんが……」
 近づくなと怒鳴られ、オロオロと少しの距離を保って佇んでいる。
 そんな女に頷いて、荒い息を付くカカシの傍に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「あぁ……。イルカ先生、アンタ耐毒訓練は…?」
 言葉にすることすら辛そうなカカシに頷く。
 里内で任務をこなす忍といえど、里の宝である子供たちを守るため、戦忍と同じ訓練は欠かせない。
 とくに教師は職業柄あらゆる知識を必要とされていて、イルカは上忍と同じ耐毒訓練を課されていた。
「暗部が受けるほどの強力な毒への耐性はありませんが」
「……上等。手を貸して」
 伸ばされた指先は、節くれだっていたがとても美しかった。
 この手が驚くほど素早く正確に印を結ぶのだと、子供たちが自慢気に語っていたことを思い出す。
 ふらつく身体に肩を貸せば、信じられないぐらい冷たい身体に驚いた。
 一体どんな毒に冒されているのかはわからないが、こんな身体でも意識を失わないあたりさすが上忍とでも言うべきか。
「サユリ」
「はい」
「怒鳴ってごめんーね」
 そう言って、唇の端を少しだけ上げるカカシに女が首を振る。
「奥の部屋」
「はい」
 女に話しかけるのとは反対に、愛想もクソもない一言。
 後は目線だけの指示を受けて足を踏み出すと、耳元にも荒い呼吸と熱い息が掛かる。
 不意にゾクリと背筋をはしったものに妙な違和感を覚えながらも、イルカはあえて気づかぬふりでグニャリとした身体を支え直した。
「歩けますか?」
「……っ、だれに言ってんの」
「ですよね」
 口調だけは平気な振りの男に、態とニカリと笑う。
 ほとんど力が入っていない身体はまるで頼りなくて、支えているだけのイルカのほうが必至になってしまう。
 抱きかかえたほうが早いのではと思い、チラリと隣を伺えば物凄く嫌そうな顔をされた。
 どうやら考えていることなどお見通しらしい。
 開けっ放しの襖の向こう。起き上がったままの乱れた布団の上に手を貸しながら横たわらせると、カカシの口からふーっと長い吐息が漏れた。
 少し移動しただけでびっしょりと冷汗をかいた皮膚が気持ち悪そうだ。
 ともかくタオルを探そうかと思ったものの、まだ挨拶もしていないことに気づいた。
「火影様よりあなたの世話係を言いつかってきました。うみのです」
「知ってる」
「あ、あー、そうですよね……ハハッ……」
「……本当に、来たんだね」
「は?」
「なんでもない。よろしく、イルカ先生」
 最後の方は感情もこもらない棒読みだったけれど、病人にくどくどと嫌味は言うまい。
 とにかく身体が汗で冷えきってしまう前に、と部屋の中を見渡した。
「あの、タオルなんかはどこに?」
「……浴室の前。なに? 先生が拭いてくれるの?」
「はい」
「――……やらしー」
「はぁ?」
 ニヤリ。濁った瞳、辛そうに荒い息を吐いているくせに、なにやらバカにしたような表情にムッする。
 何がやらしいのかわからないが、病人のいうことだ。教師たるものこんなことで怒ったりはしない。
「とりあえずタオルお借りします。あと、トラップを仕掛けるので家の周りの確認と、結界札を貼らせて頂きます」
「好きにして」
 ひらひらと手を振るカカシの姿に眉を顰める。
 仕事で来ているのだから別に云々は言うつもりはないが、結界やトラップがいますぐ必要だとは思えないほど適当な態度じゃないか?
「好きにしますッ!」
「……ん……」
 刺々しく言い放ち、立ち上がろうとして、真っ青な顔のカカシが実は返事をするのも億劫なほど疲弊していることに気づいた。
 そうだ。さっきだって上忍であるこの人が立っていられない程だったじゃないか。
「とにかくタオルと、着替えか……」
 いつも飄々とした態度を崩さないカカシの弱った姿に、イルカは足早に寝室を後にするのだった。


*****


 戻ってきた時、カカシは静かな寝息をたてて眠っていた。
 どうしようかと躊躇して、しかしこのまま放っておいくわけにはいかないと部屋の中に足をすすめる。
 物音を立てないようにそっと傍に座り込み、布団を剥いで着物の合わせをくつろげると、しなやかな筋肉に覆われた身体が現れた。
「……流石というか……やっぱすげーな」
 どれ位臥せっていたのかわからないが、少しも衰えていないその肉体についつい感嘆の言葉が漏れる。
「失礼します」
 晒したままの素顔は青白く、顔色は悪いままだ。
 普段は眠たそうに開いた半眼は今は閉じられ、長い銀糸に縁取られている。
 すっと通った鼻筋と薄い唇。こんなところに黒子が……などと、いつもは隠されている素顔についつい魅入ってしまう。
 物凄い整った顔だな。そう思ってブルブルと顔を左右に振った。
 意識のない人の顔、しかもいつもは隠されているそれをまじまじと見るなど、不躾な気がしたのだ。
 そういやナルトがよくカカシ先生はチャクラ切れで倒れるとか言っていた。
 そんなことを思い出しながら、濡らしたタオルで手早く身体の汗を拭い、くたりと力の抜けた身体を持ち上げて用意した着物に着せ替える。
「はやく良くなってくださいよ」
 呟いて、そっと布団をかけ直した。
「さて、次は」
 ぐるりと部屋の中を見渡し、結界札を取り出すと四方に手早く貼り付ける。
 万が一、何者かが侵入しようとした時に、直ぐにイルカに式が飛ぶ様仕掛けをしたものと、この部屋の空気を清浄に保つもの。イルカ印の特製結界札だ。
 この凄腕の上忍がイルカの助けなど必要とするわけがないと、ここへ来るまでは思っていたものだが、想像以上のカカシの具合の悪さに正直驚いていた。
「念入りにあと数枚は貼っとくか」
 普段なら、こうして誰かにこんな姿を見せることなどないはずの男だ。
 身体に掛かった負担の大きさは計り知れない。
 家のまわりにトラップを仕掛けるべく部屋を出ると、心配そうに佇むサユリの姿に微笑んだ。
「あの…、カカシさんの具合は?」
「大丈夫ですよ、今は眠ってらっしゃいます」
「えっ!? ……そう……そうですか」
 一瞬驚いた幼な顔をしたサユリに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえっ、カカシさんが眠られるなんてと驚いてしまって」
「え?」
 どういう意味だろう。
 忍といえども睡眠は必要だ。
 里外の戦闘時ならいざしらず、里内でしかも自分の家で眠らないなどとは考えられなかった。
 しかもカカシの身体は立っていることさえ辛そうな状態だったのだ。
 チラリと背後を伺って、微かだが聞こえる寝息を確認してサユリに向き直った。
「眠っておられますが……」
「ですね」
 部屋に入ることは禁じられているのだろう。
 イルカ越しに窺って、頷く。
 くるりと動く大きな瞳がとても魅力的だ。
「イルカさんのことをとても信頼していらっしゃるんだわ」
「ん?」
 それはない。なんといってもナルト達の事で言い争った仲だ。
 まさかそれを眼の前の女性に説明するわけにもいかず、イルカは押し黙った。
「今までここに来られた方は、家の中に入るまでもなく門前払い。強引に入ってこられた方は、物凄い剣幕で叩きだされることもありましたのよ」
「……はぁ」
 何だかとても信じられない話を聞いた。
 どちらかと言うと、微妙な関係である自分を信頼しているわけもないのにと思うのだが、眼の前の女性はホッとしたようにまたチラリと部屋の中を覗き込んでいる。
「子供みたいな寝顔」
 驚きのあまり声も出せないイルカにふふっと微笑む。
 カカシの家にいるからには、きっと彼と関係の深い女性なのだろう。
 だが、三代目にカカシの家の中のことは他言無用と言われている以上、深くはかかわらないほうが懸命だし、聞いてしまってそれが心の枷になるのは正直気が重い。
 気にならないわけも無かったが、ここは湧き上がる好奇心をぐっと堪えた。


*****


「目が覚めましたか?」
 日も暮れた頃。ひょこりと覗いた寝室で、ぼんやりと天井を見つめているカカシに声をかけた。
 ゆっくりと眼球だけを動かしたカカシを確認し、部屋の中に入る。
 呼吸は先程よりは穏やかだ。
「失礼しますね」
 断りをいれて、布団から引っ張りだした手首から脈を測る。
 トクトクと規則正しく刻む脈拍に小さく頷いて、末端が冷えてしまわないように再び布団の中に押し込んだ。
「安静時にしては少し速いですが、乱れはありません」
「どーも」
「何か食べられそうなら持ってきますけど」
「ん。あれ、イルカ先生が?」
「え? …あぁ」
 目線の先が貼り付けた結界札を指しているのに小さく頷いた。
 やはり少し大げさすぎだだろうか?
 上忍を侮ったわけではないが、そう思われてもおかしいぐらいには貼りまくった札に、カカシが小さく笑う声が聞こえた。
「助かります」
 だから感謝の言葉が出てきたことに正直驚いたのだ。
「この結界の中はとても居心地がいい」
「そ、そうですか」
「……やっぱりチャクラの性質が合うのかな」
 それでもまだ辛そうな口調に、熱をはかろうとして掌を額に乗せた。
 驚いたように開かれる瞳を不思議に思いつつ少し強めに押し付けてみる。僅かだが掌に熱を感じるけれど、いかんせん血の気の多いイルカのほうが体温が高い。
「うーん」
 どうもわかりにくいと、額当てを外して自らの額を押し付けた。
「ち、ちょっ……!」
「じっとしてて下さい」
 さきほどよりは上がっている気がする。それよりも、頬にかかる吐息がなんとも熱っぽかった。
「体温はもともと低い方ですか?」
「っさぁ」
「…ふむ」
「――いつまでやってんの」
 苛ついた声とともに、ぐいっと頭のてっぺんで結んだ髪を引っ張られた。
「いてぇっ!」
 あまりの強さに声を上げれば、目の前には白皙の頬に朱がさしたカカシが眉を顰めてそっぽを向く。
「急に引っ張るなんて、酷いじゃないですかっ」
「あんたこそっ! 子供じゃあるまいし、信じられない」
 そんな言葉にキョトンとした。
 カカシが何をそんなに怒っているのか分からないが、イルカの行動で機嫌をそこねたことは間違いないようだ。
「あー、スミマセン。普段子供たちと過ごしているもんで」
「…………」
「少しは回復したようですし、食欲はあるんですよね?」
「…………」
「はたけ上忍?」
「兵糧丸でいい」
 そっぽを向いたままそう呟いたカカシに、ムッとしたのはイルカの方だった。
「具合が悪くて臥せっているのに、んなもん食べて良くなるわけないじゃないですか」
「良いって言ってんでしょ、さっさと持ってきて」
「ダメです! あれはあくまで非常食なんですからね!」
「オレが良いっていってんだから、アンタはそれに従ってれば良いんだよ」
「病人が何を言っているんですか。そんなことばかり言っているからいつまでも治ら……」
「――うるさいっ!」
 叩きつけるように吐き出された言葉にぐっと息を呑んだが、睨みつける視線のきつさに怯むようなイルカではない。
 報告所にやってくる殺気立った上忍たちをさばいているのは誰だと思っているのだ。
 受付中忍を舐めないでもらいたい。
「おじや、作ってきます」
「いらないって言っているでしょ」
「それだけ元気があれば食べられますよね」
「イル……!」
「食べて下さい。……あなたがこんな状態だなんて知ったら、子供たちが心配します」
 ビシリと指先を付きつけそう宣告すれば、黙りこむのはカカシの番だった。
「ったく、面倒な人を」
「火影様から拝命した以上、あなたが完治するまで傍についていますから」
「……勝手にしろ」
 一歩も譲らない姿勢のイルカに諦めて、カカシはふうっと重い溜息を付きながら天井を仰いだ。


*****


 炊きたての米の匂い。土鍋から上がった湯気がふわりと頬を撫ぜるのに、鼻先をひくつかせた。鍋の中でとろりととろけた白米に、自然と口元が緩んでしまう。
 先ほどの「兵糧丸」云々が尾を引いているのだろう。憮然とした表情のまま口を開こうとしないカカシの口元に、イルカは匙で掬った粥を差し出した。
「どうぞ」
「…………」
「はたけ上忍、あーん」
 驚いた顔をしてポカンと口を空けたカカシの口に、粥を乗せた匙を突っ込んだ。
「アツッ!」
「わ、すみません! 口開けてくださいっ」
「――い……」
「はやくッ! 口の中の皮がべろーんって剥けちゃいますから、ほらっ」
 口を押さえて顔をそむけるカカシの頬を掴んで掌を引き剥がした。
 熱々の粥を冷ますべく、半開きになった口にフーフーっと息を吹きかける。
「どうです? 冷めました……か……?」
「……えぇ」
 そういった瞬間、物凄く顔が近いことにギョッとした。
 頬を掴み、まるで口づけでもしていたかのような距離に、心なしかカカシの顔もうっすらと赤くなっている。
「わっ!! ――……スミマセン……ッ!!」
「いえ」
 互いにギクシャクとしながらそう言って、いまだ湯気の上がる土鍋を匙でかき混ぜた。
「今度はちゃんと冷ましますから」
「あー、イルカ先生」
「はい?」
 なるべく早く冷める様にぐるぐるとかき混ぜていると、困ったような声で名前を呼ばれた。
 なんだろうと目線を上げれば、ガリガリと頭を掻きながら小さな溜息。
「自分で食べられます」
 子供じゃないんだから。と、続けられた声に一気に頭まで血が昇った。
「ス、スミマセンッ!! 俺ッ!! そうですよねっ、生徒じゃないんだから……!」
「いや、オレも正直ビックリして」
 上忍相手になんてことをしてしまったんだ。
 昇った血が一気に下へと下がっていく。弱っている姿にたまらずやってしまった。バカにするなと手打ちにされても文句は言えない。
「本当に申し訳ありませんっ」
「いえ、なんだか新鮮でしたよ」
 熱い粥を押し込んだせいで少し赤くなっている唇が、ゆっくりと弧を描いた。
 照れたように苦笑し、土鍋から粥を掬って口に入れる。
「あぁ、旨いね」
 ニコリと微笑まれて胸がドキリと大きく鼓動した。
 粥なんて、米と水と塩だけのシンプルなものだ。だけどやはり旨いと言ってもらえると嬉しくなる。
「ね。兵糧丸なんて味気ないでしょう?」
「確かに」
「里にいるんですから、これからは兵糧丸なんかで済ませずに、ちゃんと食ってくださいよ」
 生徒に言い聞かせるようにそう言うと、カカシが匙を口に含んだまま破顔した。
 素顔だからだろうか? いつもは口布で隠されたその顔が、なんだかとても幼く見える。
 凄腕上忍の隠された秘密を知った様な気分になって、少しだけ気持ちが高揚した。
「これからは俺が毎食つくりますから」
「そんな訳にはいかないでしょ」
 教師と受付を兼務していると知っているカカシからの言葉に首を振った。
「今はあなたの世話係及び護衛が俺の任務です」
「…任務」
「はい。しっかりお世話しますから、早くよくなってください」
「そうだね。オレがよくならないと、いつまでたってもアカデミーに帰れないもんねぇ」
「そういうことを言ってんじゃありません。元気になって欲しいだけです」
 ただでさえ色素の薄い顔が、青ざめて見えるほどに憔悴しきっているカカシの手をそっと握った。
 暖かいものを口にしたのに、体温はまだ低いままだ。
 とにかく身体は温めたほうが良いだろう。
「一応さっき汗は拭きましたけど、風呂に入るなら介助しますよ」
「臭う?」
「いえ、そんなには……」
「んー、暫く入ってなかったし、お願いしようかな」
「わかりました。じゃあ、はたけ上忍が食べてる間に風呂沸かしてきます。あー、あとお茶も」
「ん」
 いそいそと立ち上がり、風呂の準備をするべく部屋を後にする。
 だから。
 態と兵糧丸だけを口にしていたんだーよ。と呟いたカカシの言葉は、イルカの耳には届かなかった。


*****


「―――……風呂もでけぇ……!!」
 浴室の扉を開けて直ぐに感嘆のため息がもれた。
 洗い場も広ければ、浴槽も大人三人が余裕で入れる程の大きさだ。
 しかもこの匂い。スンっと鼻を鳴らし、品のいい檜の香りを思い切り肺の中まで吸い込む。
「はー…、いい匂い」
 檜の浴槽が家にあるなんて、さすが里が誇る上忍。本気で羨ましい。
 それに比べてイルカの住む中忍の独身寮といえば、足も伸ばせないステンレスの狭い浴槽だ。
 心の底から風呂を愛するイルカは、思わず我が家の浴槽を思い出してガクリと肩を落とした。
 格差社会なんてこんなもんだよ。僻むな、うみのイルカ。俺の家の風呂だって、いい匂いこそしないものの疲れた身体を労ってくれる可愛いヤツじゃないか。捨てたもんじゃないぞ。
 なんて独り言をぶつぶつと言いながら自分を励まし、給湯器のボタンを押す。
「お風呂ですか?」
「うわっ! は、はい?」
 背後から声をかけられて、ギクリと身体が跳ね上がった。
 振り返ればキョトンと小首を傾げたサユリが、あまりに慌てたイルカの姿にクスリと笑う。
「ダメですよ、忍びの背後に立っちゃ」
 殺されます。眉を顰めてそう言うと、吃驚した様子でスミマセンと頭を下げる。
「軽率でしたよね。私ったら」
 またカカシさんに怒られちゃう。ボソリと呟いて肩を落とした。
 全くもってこのサユリという女性は可愛いのに気取ったところもなく素直だ。
 しかし。
 イルカに気配を感じさせない身のこなし。もしや同業者であったかと記憶のページを捲ってみたが、どうにも該当しない。
 一体どういう素性なのだろうか。
 余計な詮索は身を滅ぼすとわかっていながらも好奇心が湧き上がるのを抑えられそうもない。
「あの、イルカさん?」
 ついついそんな表情が出てしまっていたのだろうか?
 戸惑った様子で覗き込んできたサユリの、吸い込まれそうに大きな瞳に仰け反った。
「わわわっ! ……い、いえ、俺の方こそ油断していました」
「まぁ! では次はもっと気配を消して驚かせちゃいましょうか」
「だからそれはダメですってっ」
 慌ててそう言えば、ふふっと丸みを帯びた顔が破顔する。
 ふわりと花が咲いたような笑顔がまた可愛くて、デレてしまいそうな顔をあわてて引き締めた。
「冗談です。それで…、」
 チラリと浴室に視線を動かしたサユリに頷く。
「えぇ。はたけ上忍の風呂の介助をしようかと思いまして」
「では私も」
「いやっ! あの、ふ、風呂なので……、女性は……」
 とんでもないと首を振りながらも、着物をはだけたしどけない姿を想像しそうになって、あわてて自分の鼻を掌で覆った。
 ナルトのお色気の術でさえ鼻血を拭いてしまうような貧弱な血管だ。それがこんなにしっとりとした女性の裸体を見ようもんなら……いやいやいかん。想像するな。
 なんとか自制心を取り戻そうとあわあわと眼を泳がせれば、ふいにサユリの少し膨らんだ腹部に目が止まった。
「……ん……?」
 あえて勘ぐらないように務めてきたせいで気にも止めていなかったが、細い身体に似つかわしくない腹部にイルカの視線は釘付けになる。
 これはもしかして、「おめでた」というやつじゃなかろうか。
「…………」
 ということは。
 カカシの家で共に暮らしているらしいこの女性は、カカシの恋人、もしくは夫人ということになる。
 はたと思い当たった仮説は、考えれば考えるほどそれが事実である様に思えた。
 カカシは里でもトップクラスの上忍で、他里のビンゴブックにも載るような男である以上、様々なしがらみがつきまとう。命だって狙われるだろう。彼の子を身籠っているというなら、三代目がけして他言しないようにと釘をさした理由も理解できた。
「いやだ、イルカ先生ったら。今日は泊まっていかれるのでしょう? 来客用の着物の用意をさせていただきますね」
 じっと気難しい顔で腹部を見つめるイルカの前で、吹き出したサユリが顔を綻ばせて声をあげた。
「え? 泊まる?」
「違うんですか?」
 互いに見つめ合って、しばしの沈黙。それを破ったのは第三者の声だった。
「そうしていただけるとありがたいんですけどねぇ」
「カカシさんッ! 起きられて大丈夫なのですか?」
「あぁ。……サユリ、向こうへ」
 視線だけで別の部屋を指すと、先程まで花が咲いたようだった可愛い顔があっという間に萎んでしまう。
「でも」
「オレに近付かないで」
「はたけ上忍、そんな言い方は……」
「アンタは黙ってて。――サユリ」
 逆らうことの出来ない威圧感。病床にあるというのに、その気配はやはり超一流の忍のモノだ。
「……わかりました」
 しゅんと俯きながら部屋へ戻るべく踵を返す。
「サユリさん」
 いったいこの二人の間には何があるというのだろうか?
 愛しい人に向ける甘い雰囲気は皆無で、打ちひしがれたように背を向けるサユリの小さな背中を、イルカはただ黙って見送るしかなかった。


*****


「……痛い」
「痛いようにやってんですっ」
 ゴシゴシと力いっぱい擦れば、唯でさえ白い皮膚が摩擦で赤くなった。
「なに怒ってるのよ」
「わからないなら結構です」
「さっきもいきなり頭からお湯かけるし、病人に乱暴だね」
 呆れた物言いにむうっとした。洗髪時、腹立ちまぎれに浴びせたシャワーの温度は、身体に障らないようにちゃんと適温に設定しておいた。
 水じゃなかっただけありがたいと思ってもらいたいもんだ。
「うるさいですよ」
 叱りつけるようにそう言って、再び引き締まった背中をこする腕に力を込めた。
『オレに近付かないで』
 ―――あんな言い方しなくても。
 サユリにむけて言い放ったセリフに、苛立ちが込み上げてくる。
 何だかやけにムキになっている自覚はあるが、怒りのあまり深くは考えられない。大体いくら自分の女だからって身重の女性にそんな言い方はないだろうと、ついつい鼻息も荒くなる。
「……仕方ないでしょ」
 ボソリと呟かれた言葉に、力いっぱいタオルを擦りつけていた手を止めた。
 心なしが消沈している様にも見えるが、背後に座り込んでいるせいでカカシの顔は見えない。
「腕あげられますか?」
「無理」
 即答で帰ってきた返事に少しだけ眉を顰めて、綺麗な筋肉がついた腕を持ち上げた。
 どこをみても、均整が取れた完璧な肉体だ。
 柔らかな筋肉と、引き締まった身体。色白で、ともすれば華奢にも見えるカカシだが、こうしてみるとやはり鍛え上げられた身体は逞しく、同じ男から見ても魅力的に思えた。
 泡が足りなくなったタオルに石鹸を包み込み再度泡立てると、カカシの前へと移動する。
「…………」
 顔だって、どうして隠しているんだろうと思うぐらい美丈夫だ。
 いやまてよ。むしろ隠しておいてくれていたほうがありがたいか。
 唯でさえ狭い社会でお相手を見つけなければならない職業だ。これ以上この男に根こそぎ女性を持っていかれてはたまったもんじゃないと、心のなかでそう考えてイルカは神妙な顔で頷いた。
 そうだ。
 上忍で、エリートで、しかもこの顔だなんて女が放っておくわけないじゃないか。
「不公平とはこのこと」
「は?」
「いえ、こちらの話です」
 思わず出てしまった心の声。怪訝そうな顔をしたカカシに首を振って、泡立てたタオルを首筋に押し当てる。
 耳の裏と首筋は丁寧に。元暗部という噂は本当だったらしい。特殊部隊の証である刺青の上はそっと撫ぜた。それから少し膨れた胸筋にタオルを滑らせる。
「……んっ……」
「え?」
 何やら色っぽい声が頭上から聞こえた気がして顔を上げれば、面前に迫ったカカシの上気した顔にドキリとした。
 何だ?
 タオルを握りしめたまま、目の前に跪いた姿勢で思わず動きを止める。
「……はっ……たまんないね」
 苦笑するカカシが、何かを振り払うように小さく頭を振る。
「どう……か、しましたか?」
 具合が悪いというわけではなさそうだが。白磁の頬はほんのりと色づき、心なしか潤んでいるように思える瞳に射すくめられた。
 彼の二つ名である写輪眼は閉じられたままだというのに、その視線から目が離せない。
 はぁ…っ、と。眉を寄せたカカシの吐息から石鹸の香りとは違う甘い花の匂いを嗅ぎとって、鼻をひくつかせた。
「これっ!」
 気づいた時にはもう遅い。ズルリと力を失い、倒れかかってきたカカシの身体を受け止めた。
 ふわん。密着すればするほど甘い匂いに包まれてむせ返りそうになる。
 イルカにはこの匂いに覚えがあった。
「……まさか、媚薬……?」
「―――……せーかい」
 耳元で、熱い吐息混じりの声で囁かれる。
 それだけじゃないけどね、と。呟く声と共に薄い唇が耳に押し付けられた。その柔らかい感触と腰に響く声色に、ゾクリとする。
「うっ……わ…!」
 身体中に電気が走ったような衝撃を感じて、支えていた身体を突き飛ばしてしまった。
「――――……ッ!」
「わっ!! す、すみませんっ!!」
 ドサリ。椅子から転げ落ち、突き飛ばされた身体が浴室の床に投げ出される。
 風呂桶やシャンプーが床に落ちるけたたましい音に気を取られながらも、べたりと床に座り込んだカカシに駆け寄った。
「だ、大丈夫ですかっ!!」
「ひどいね」
「申し訳ありませんっ! び、吃驚して…っ」
 身体を助け起こそうと伸ばした手を掴まれ、その手の熱さに面前のカカシの顔を見やった。
 温まった浴室の温度のせいではない。
 言い換えるなら、眠りにつく寸前の子供の様な温もり。それなのに、いま目の前にいる男の眼は爛々とひかり、まるで獲物を狙う獣のようだった。
「な、に…?」
 自分を見上げるカカシの瞳から目が離せない。ゴクリと喉を鳴らしてそれだけを呟けば、病人とは思えない力で引き寄せられた。
 喘ぐようなカカシの荒い息が何度も耳元に吹きかけられるたびに、腰のあたりからゾクゾクとした感覚が身体中を走り抜ける。
 熱い身体と甘い匂い。
 それから―――。
 どちらのものとも分からない激しい鼓動が頭にまで響いてくる。
 それだけではない。抱き寄せられた身体に当たるモノに困惑する。
「……は…たけ、上忍……?」
 この状態をどう回避すれば良いのか解らずに名前を呼べば、
「――……っ」
 何かに耐えるように押し殺した溜息が返された。
 媚薬を盛られているのだから当然といえば当然なのだが、特殊部隊の訓練を受けたカカシをここまでにする程の薬とはいったい。
 それに、と。引き寄せられたままの格好で、眉を寄せるカカシの表情を凝視した。
 密室でこの匂いを嗅いでいるからだろうか?
 イルカ自身も強力な媚薬に冒された様な感覚に陥ってしまったのか、切ない息を吐く艶めかしい面から眼が離せない。
 食い入る様に見つめるイルカの視線に気づいたカカシが、ニヤリと薄い唇に笑みを刷いた。
「……おいで…」
 呟かれた一言にゴクリと喉が上下した。
 たったそれだけの言葉なのに頭がクラリとする。
 濡れた指先が唇の端から端をたどり、わずかに開いた隙間にへカカシの薄い唇が押し当てられた。
「……んっ……」
 まるで甘い蜜に誘われたかのように、自然と滑り込んできた舌に吸い付いた。
 ぴちゃりと鳴った水音は、果たしてどこから聞こえたものだったのだろう。
 口付けを交わしながら手繰り寄せられた指に、熱いものを握らされ、ぎょっとする。
「――ンンッ……な、なにっ…!」
「…っ、……いーから、擦って……」
 狼狽えるイルカの指の上を大きな掌が強引に覆い、そのまま上下させられる。
 こんな場所で、他人のモノを握らされて。
 ヌルヌルと粘る体液が鈴口からこぼれ落ち、擦り上げる場所が淫らな音をたてるのに聴覚が刺激される。
「……っ、うぁ…ッ!」
 カカシが切羽詰まった荒い息を吐いている。イルカは熱に浮かされた声を聞きながら、握った竿から熱い飛沫が吹き出すのを見た。
「わっ…!」
「――ハッ…さすがにキツイ……」
「え、……まだ…?」
 放ってもまだなお硬さを失わないモノが、ドクドクと掌の中で主張する。
 狼狽えるイルカの後頭部を掴んだカカシに強引に引き寄せられて、歯が当たるほど乱暴に口付けられた。
「ンン、ン―――!!」
 押し入ってきた舌と唇に口内をめちゃくちゃに荒らされて、逃げようとする身体を押さえつけられる。
 なにが、どうして、などと考える間もなく、ただその激しさに翻弄されてカカシの肩に縋った。
 だから迂闊にも気づかなかったのだ。
「カカシさん…?……大丈夫ですか……?」
 不意に、浴室の外から聞こえた声にギクリとした。
「――……サユリさん……っ!?」
「あの…さっき凄い音が聞こえたので……」
 ウロウロと、浴室の外を動く気配に身体を強張らせる。
 いまだカカシを掴んだ掌は動かされたままで、激しくなる鼓動が口から飛び出てしまいそうな感覚にあわあわと慌てふためいた。
「あぁっ!! …だ、大丈夫ですっ!!」
「でも」
「ちょ、ちょっと俺が滑ってしまいまして、それで大きな音がっ」
「カカシさんは?」
「……ヘーキ」
 ひどく冷静な声で、口の端に口付けたままカカシが答えた。
「……ほんとうに?」
「ん。だから、部屋へ戻ってて」
「…………」
「あ、あのっ! もうすぐ上がりますから、大丈夫ですよっ!」
 何だか自分ばかりが慌てている様な気がしないでもないが、サユリのわかりましたと答える声に安堵する。
 立ち去る気配を感じる間もなく、再び重なってきた熱い舌を受け入れて。
 カカシの熱が治まるのをただひたすらに待った。


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