Marry Me!
目の前に書かれたメニューの前でうぅむと唸る。
魚にしようか、それとも肉か。
うどんや蕎麦もなんていうのも捨てがたい。
うどんだったらやっぱり狐だろうな。ツルリとした喉越しと、噛んだ瞬間ジュワワワなんて染み出してくる甘い出汁の味を思い出すと、思わず口の中いっぱいに唾液が溢れてくる。
よしっ! 今日はうどんに決めた。
いや待てよ。
午後からは体術の授業だから、やはりここは体力をつけるためにも定食にすべきだろうか。
「う~ん」
「随分と悩んでるねぇ、イルカ先生」
「いや~、どれもこれも旨そうで目移りして困ります」
「旨そうじゃなくて、旨いよ」
「それは勿論っ!!」
ドンッと胸を張った食堂のおばちゃんの前で、あたふたと両手を振った。
木の葉食堂の飯は文句なしに旨い。だからこそ俺はこんなにも真剣に悩んでいるのだ。
「本日のオススメ、聞いてもいいですか?」
「B定食だね」
「というと…」
「豚の生姜焼き。手塩にかけて育てた黒豚に、スライスした玉ねぎ。そこに甘辛くした醤油ダレと生姜がたっぷり絡まってそりゃあもうあんた、絶妙の…」
「くーっ!! B定食一つ!」
俺は辛抱堪らずにオバちゃんの説明を遮って叫んだ。オバちゃんはしてやったりとばかりにふくよかな身体を大きく揺すると、ニヤリと口角を上げてみせる。
「まいど」
「あ、いつもの浅漬多めに」
「了解だよ。好きだね~、イルカ先生」
「ここの浅漬けは絶品ですから」
「またまた上手いこと言っちゃって。先生には敵わないよ。しょうがない、浅漬け大盛り。持ってきなっ!」
「やった!」
バチンとウインクされて、面食らいながら鼻の頭を掻いた。
茶碗にこんもりとよそわれた白米に、ワカメの味噌汁。
生姜焼きはツヤツヤのタレが絡まっていて、いい匂いがした。思わずゴクリと喉が鳴る。
オバちゃん手作りの浅漬は、あっさりとした塩気の中に昆布の旨味が染みていて、仲間内で絶大な人気を誇る一品だったりする。
疲れた身体に塩分って染み渡るもんな。
あぁ、漬物に白米って最高。何杯でも米が食えるってもんだ。
一口目は野菜から食べるんだぞ~、なんて子供たちには指導したりしているけれど、やっぱり俺は肉だ。
この熱々ツヤツヤの豚を見てみろよ。まずこれから口にしなくてなんとする。
俺は生姜ダレがたっぷり絡んだ肉にスライスした玉ねぎを巻いて箸で持ち上げると、あーんと大口を開けて口の中に放り込んだ。
旨い。
歯ごたえのある豚肉を咀嚼すると、生姜のピリリとした刺激と甘辛いタレが口の中に広がるんだ。
あぁ、これが幸せっていうもんだよ。
これ以上の幸せがあるもんか。
俺は口いっぱいに詰め込んだ生姜焼きをモシャモシャと咀嚼して、ごくりと喉の奥へと流す。次は浅漬けだ。これがまた後味をさっぱりとさせるもんだから、また甘辛いタレへの無限ループにハマってしまうんだ。
豚丼みたいに白米の上に乗せても良い。肉がなくなったら、山盛りのキャベツの千切りにタレを絡ませるのもたまらなく旨い。
毎日こんなにうまい飯が食えるなんて、俺は木の葉の忍で本当に良かったなぁ。
ホクホクしながらオバちゃんオススメB定食に舌鼓を打っていたら、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。俺は思わず箸を止めて声の方向を視線だけで探る。
ひらけた食堂の一角。唯一柱の陰に隠れている場所から、どうやら声は聞こえてきているらしい。俺は伸び上がるようにしてその場所を窺った。
差し込む太陽の光に反射して、キラキラと光る銀髪。声の主はカカシさん……いや、今は六代目火影様と里の重鎮の一人でもあるコハル様だった。
「その話は先日お断りしたはずですけどねぇ」
「それはそれ。今日はまた別じゃ」
「はぁ…」
「なにがはぁ…じゃ、もそっと覇気のある声を出さんか」
カカシさんはなにやらへにょりと両眉を下げると、困ったようにガリガリと頭を掻いている。
歴戦の雄もコハル様にかかっちゃ型無しだな。そんなことを思いながら、俺はズズッとワカメの味噌汁をすすった。
「勘弁して下さいよ」
「何を言っとるか。お主がいつまでものらりくらりと躱しよるから、皆心配してだな」
「だーから、オレはまだ身を固めるつもりはありませんって」
話はカカシさんの嫁取りだった。
カカシさんはなにやら言い訳を付けては断ろうとしているようだが、コハル様もそう簡単には引き下がってはくれないらしい。
大戦をきっかけに木の葉の里でも婚姻を結ぶ忍が増えたからこそ、独身の火影の存在は良くも悪くも目立ってしまうのだろう。
そりゃそうだよな。若い頃から引く手あまたの上忍で、今や押しも押されもせぬ火影様だ。カカシさんほどの男が嫁の一人も貰っていないことを誰もが不思議に思っているはずだ。
ま、そういう俺も独身なんだけど。
ふふふっ。なんて笑いながら、少しだけ冷めてしまった最後の一切れを口の中に放り込んだ。
「しかしじゃな、いい歳をした火影が独身など体裁が悪かろう」
「オレは体裁のために結婚しようなんて思っていませんよ」
「嫁をもらってこそ、火影として他里に認められると言うもんじゃ」
「それを言うなら、五代目だって独り者だったと記憶していますが」
「それはそれ、これはこれじゃ」
堂々巡りの論争の末、食事もそこそこにカカシさんが盛大な溜息をついて席を立つのが見えた。
あぁ、あんなにも残して。
こんなに旨いのに勿体無いな。
俺はオバちゃんオススメB定食を最後の一口まで思う存分味わって、ご馳走様ですと両手を合わせた。
*****
そんな光景を昼間に見たばかりだったから、行きつけの安い居酒屋でカカシさんが一人で呑んでいるところを見つけたときは少しばかり驚いた。
カウンターの前には薄っぺらい刺し身とだし巻き。手酌で徳利からお猪口に注いで、浮かない顔のままチビチビと口をつけている。
時折聞こえる小さな溜息に、生来の世話焼き癖が発動しちまった。やめときゃいいのに俺はツカツカとカカシさんの傍まで近づくと、お久しぶりですと声をかけたのだ。
「イルカ先生」
「お一人ですか?」
なんて、笑ってしまう。
これじゃまるで下手なナンパ師じゃないか。
教え子の上忍師だったカカシさんとは、俺は以前にやりあったことがある。立場上意見の食い違いがあったとはいえ、公衆の面前でぐうの音も出ないほどやり込められて悔しい思いもした。
はたけカカシのバカヤロウっ! アイツは何もわかってねぇ! なんて大酒呑んでくだを巻いたのもそう言えばこの店だったっけ。
それが今や火影様だもんなぁ。
感慨深げに思い出にふける俺の前で、カカシさんは少しだけ驚いたように眼を見開いたあと、くすりと笑って隣の椅子を引いてくれた。
つまりは「どうぞ」ということだろうか。
「失礼します」
俺はカカシさんの隣に腰掛けると、カウンター越しの親父に向かって声をかける。
「ビールと鳥唐、あと枝豆も」
「はいよっ!!」
威勢のいい親父の声とともに、まずはビールが手渡される。
安い店ながらジョッキまでキンキンに冷やされたビールに口をつけ一気に流し込めば、脳天まで突き抜ける冷たさが汗ばんだ身体を一気に冷やしていく。俺は思わずくぅと喉を鳴らした。
「はー、うまっ」
「アハハ。美味しそうに呑みますねぇ」
「実は発泡酒なんですけどね」
「あら、そうなの?」
じろりと親父に睨まれて、やべぇと肩をすくめる。
隣で楽しそうに笑うカカシさんが、空になったお猪口を振って「オレもビールちょうだい」なんて注文する声に嬉しくなった。
カカシさんのビールが運ばれてくるのを待って、俺達はどちらからともなく乾杯とジョッキを鳴らした。
冷えたビールを流し込み、机の上に並べられた枝豆を口の中に放り込む。柔らかすぎず硬すぎず、抜群の歯ごたえの枝豆に、口に入れた後からまたすぐ手が伸びた。
「しかし、火影様がこんなところにいらっしゃるなんて驚きましたよ」
こんな所なんていうとまた親父に睨まれてしまうから、少しだけ声を潜めた。言葉の意図を察してくれたカカシさんが、またくすりと笑って結構常連よなんて言うのに俺のほうがびっくりしてしまう。
「そうなんですか?」
「なに? 火影様ってのは高級料亭にばかり出入りしていると思ってたとか?」
「はぁ、まぁそんなとこで」
カカシさんが偏見だねと苦笑するのに、俺は鼻の頭をポリポリと掻いて言葉を濁した。
「ところでイルカ先生まで、さまはやめてよ」
「そんなわけにはいきません。火影様、いや、六代目」
「あー、ソレもやめて。公務を離れたときぐらい一介の忍でいたいのに」
一見冷たそうな見た目と違って、気さくなカカシさんが里人から様付けで呼ばれることを心底照れくさがっているのは有名な話だ。そう言えば、コピー忍者だ、写輪眼のカカシだなんて言われている時も、ガイ先生とじゃんけん勝負なんかしたりして庶民的な人だったよな。
「ではカカシさんで」
「よろしく」
俺達はふふふと笑い合うと、再びジョッキに口をつけた。
「ところで、それぐらいで足りるんですか?」
カウンターの前に並べられた料理を前にそんなことを口走ってしまったのは、昼間カカシさんがほとんど何も食べていなかったのを見ていたからだ。
カカシさんが少しばかり驚いた顔でこちらを見て、それからバツが悪いように頭を掻くのに、あぁ、余計なことを言っちまったと唇を噛んだ。
「そういや先生、あそこにいましたよね」
「…ご存知でしたか」
里内だし、食堂だしで気配を消してはいなかったが、大勢人がいたからまさかバレているとは思わなかった。
「先生があんまりにも美味しそうに食べているのを見て、オレもB定食にすればよかったなんて思ってたんですよ」
「うわっ! やめてくださいよっ、恥ずかしい…」
一体どんな顔で食べていたというんだろうと思うと一気に汗が吹き出してくる。俺はあたふたしながら顔の前で両手を振った。
「恥ずかしいのはオレの方」
「へ?」
「あんなところで参ったよ…」
はぁ、とまた小さな溜息。
カカシさんが居たところは柱の陰だったとは言え、食事時にはすべての席が埋まるほど大盛況な食堂だ。衆人環視のなかで火影の見合い話なんて始められちゃ、噂の種にしかならないもんな。実際、カカシさんが出ていった後の食堂では、くノ一達が何やらキャーキャーと騒いでいたのを思い出す。
私も火影様の見合い相手に立候補したーいっ!! だったかな。けして卑屈になってはいないけれど、地位も名誉も金もある男って羨ましい。
「ところでイルカ先生は?」
「へ?」
「結婚」
「いや~、俺は…」
いきなり話を振られて、俺は目を白黒させながら言葉に詰まる。
「しないの? てっきり先生は一楽の娘さんかサドル先生と結婚するのかと思っていたよ」
「は? え? アヤメさん!? いやいや、ないないっ!! ないですよっ!」
「そう?」
「忍の神に誓ってありませんっ!!」
何をそんなに必死になって否定しているのだろうと思ったら笑えてきたけれど、ここは全力で否定した。
「じゃあ別に付き合っているヒトがいるとか」
カカシさんはカウンターに頬杖をつくと、小首を傾げてそう言った。白い肌にほんのり目元が赤く染まった表情。それがなんだか色っぽくて、俺は少しだけドキリとしてしまう。
「――そ、それは…」
「………いるの?」
「え、っと」
その間はなんだろう。妙な圧力にゴクリと喉を鳴らし、視線をあらぬ方へ彷徨わせながらボソボソと口にする。
「実は少し前に別れたところで」
「……へぇ」
だからその妙な間は何なんだ。
「そんなわけで、俺も恋人募集中ってわけですよ」
何がそんなわけでだ。
彼女のことは精一杯大事にしていたし、同僚にも「あんないい子を逃したらもう次はないぞ」なんて口を酸っぱくして言われていたのに、結局うまくいかなかった。
『イルカは本当に優しいよね。なんでも言うことを聞いてくれるし、私のこと怒ったりもしない』
最初はそう言って笑っていたのに。
何が悪かったというのだろう。
彼女の望むことは出来る限り叶えてきたつもりだった。
『いつも私に気を使って、イルカはそれでいいの!? 私にはイルカが何を求めているのかわかんないよ』
詰られても泣かれても。
掛ける言葉が見つからなくて見て見ぬふりをした。
争うのが面倒だと言うのが本音だった気がする。
『イルカは私のこと、本当は好きじゃないでしょう…?』
寂しそうに笑いながらそう言った彼女に、痛いところを突かれたと思った。
当たりだったから。
一言の言い訳さえしないまま、去っていく小さな背中に手を伸ばさなかったのは俺の方だ。
「……うして? なんて踏み込んだこと聞いちゃダメだな」
「―――ふぁっ!? な、なんですか?」
別れの記憶に意識を飛ばしていたもんだから、カカシさんの言葉がはっきりと聞こえなかった。
素っ頓狂な声を上げた俺に、カカシさんは首を振って「何でもない」と言う素振りをすると、まだ手付かずだっただし巻きに箸をつけた。
挟むようにして持ち上げれば、切り分けたところからたっぷりとした出汁が溢れ出してくる。すりおろした大根に醤油を少しばかり垂らして、口布をおろした薄い唇の中に…。
ゴクリ。おっと、いかん。つられて喉を鳴らしてしまった。
「おいし」
「そのようで」
妙な返事をした俺に、カカシさんがついと皿を俺の前まで押し出した。
「食べます?」
「…俺はそんなに物欲しそうな顔をしていましたか」
「そういうわけじゃないけど…アハハッ」
吹き出されて顔から火が出そうになった。俺は羞恥心に苛まれながらも唐揚げが盛られた皿をカカシさんへと差し出した。
「か…唐揚げも旨いですよっ」
「交換ですね」
互いの皿を分け合って、俺はカカシさんのだし巻きを口の中に頬張った。噛めば溢れてくる出汁の風味が鼻から抜ける。想像通りの旨さに顔を綻ばせている俺の横で、唐揚げを口にしたカカシさんが浮かない顔をしているのに気づいてふと真顔になった。
「あの…旨くないですか?」
「旨いよ」
そう言って笑うのに、明らかに表情はパッとしない。やはり、食堂でのコハル様とのやりとりが気にかかっているからだろうか。
「あの…食堂の件なら気にすることないと思いますよ」
「ん~?」
「わざわざ見合いなんてしなくても、素敵なお嬢さんがきっと現れると思いますから」
「は? …あぁ、うん…」
「俺が保証しますっ!! 大名の姫君から店の看板娘まで、カカシさんなら選り取りみどりですって!」
慰めるつもりがどうやら的はずれなことを言ったようだ。
カカシさんはポカンとした顔をして、それから困ったように苦笑した。
「独り身で自由気ままに暮らしてきたってのに、今更世帯を持てなんて言われてもねぇ」
「それはそうですけど…」
カカシさんの言うこともよくわかる。
だけど、幼くして天涯孤独になった身だからこそ、家族は居たほうが良いと思わずにはいられないのが本心だ。けしてコハル様の肩を持っているわけではないぞ。
「先生は結婚したいとか思ってる?」
「そりゃあ出来るもんならしたいですよっ!」
結婚するかもしれないな、なんてぼんやり考えていた相手には見事に振られたけれど。
俺は古傷を抉られながらそう答えた。
カカシさんは何やら逡巡するように考え込んだ後、冗談みたいにポンと手を叩き、声を潜めて俺を呼んだ。
「じゃあ、オレと偽装結婚しませんか?」
魚にしようか、それとも肉か。
うどんや蕎麦もなんていうのも捨てがたい。
うどんだったらやっぱり狐だろうな。ツルリとした喉越しと、噛んだ瞬間ジュワワワなんて染み出してくる甘い出汁の味を思い出すと、思わず口の中いっぱいに唾液が溢れてくる。
よしっ! 今日はうどんに決めた。
いや待てよ。
午後からは体術の授業だから、やはりここは体力をつけるためにも定食にすべきだろうか。
「う~ん」
「随分と悩んでるねぇ、イルカ先生」
「いや~、どれもこれも旨そうで目移りして困ります」
「旨そうじゃなくて、旨いよ」
「それは勿論っ!!」
ドンッと胸を張った食堂のおばちゃんの前で、あたふたと両手を振った。
木の葉食堂の飯は文句なしに旨い。だからこそ俺はこんなにも真剣に悩んでいるのだ。
「本日のオススメ、聞いてもいいですか?」
「B定食だね」
「というと…」
「豚の生姜焼き。手塩にかけて育てた黒豚に、スライスした玉ねぎ。そこに甘辛くした醤油ダレと生姜がたっぷり絡まってそりゃあもうあんた、絶妙の…」
「くーっ!! B定食一つ!」
俺は辛抱堪らずにオバちゃんの説明を遮って叫んだ。オバちゃんはしてやったりとばかりにふくよかな身体を大きく揺すると、ニヤリと口角を上げてみせる。
「まいど」
「あ、いつもの浅漬多めに」
「了解だよ。好きだね~、イルカ先生」
「ここの浅漬けは絶品ですから」
「またまた上手いこと言っちゃって。先生には敵わないよ。しょうがない、浅漬け大盛り。持ってきなっ!」
「やった!」
バチンとウインクされて、面食らいながら鼻の頭を掻いた。
茶碗にこんもりとよそわれた白米に、ワカメの味噌汁。
生姜焼きはツヤツヤのタレが絡まっていて、いい匂いがした。思わずゴクリと喉が鳴る。
オバちゃん手作りの浅漬は、あっさりとした塩気の中に昆布の旨味が染みていて、仲間内で絶大な人気を誇る一品だったりする。
疲れた身体に塩分って染み渡るもんな。
あぁ、漬物に白米って最高。何杯でも米が食えるってもんだ。
一口目は野菜から食べるんだぞ~、なんて子供たちには指導したりしているけれど、やっぱり俺は肉だ。
この熱々ツヤツヤの豚を見てみろよ。まずこれから口にしなくてなんとする。
俺は生姜ダレがたっぷり絡んだ肉にスライスした玉ねぎを巻いて箸で持ち上げると、あーんと大口を開けて口の中に放り込んだ。
旨い。
歯ごたえのある豚肉を咀嚼すると、生姜のピリリとした刺激と甘辛いタレが口の中に広がるんだ。
あぁ、これが幸せっていうもんだよ。
これ以上の幸せがあるもんか。
俺は口いっぱいに詰め込んだ生姜焼きをモシャモシャと咀嚼して、ごくりと喉の奥へと流す。次は浅漬けだ。これがまた後味をさっぱりとさせるもんだから、また甘辛いタレへの無限ループにハマってしまうんだ。
豚丼みたいに白米の上に乗せても良い。肉がなくなったら、山盛りのキャベツの千切りにタレを絡ませるのもたまらなく旨い。
毎日こんなにうまい飯が食えるなんて、俺は木の葉の忍で本当に良かったなぁ。
ホクホクしながらオバちゃんオススメB定食に舌鼓を打っていたら、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。俺は思わず箸を止めて声の方向を視線だけで探る。
ひらけた食堂の一角。唯一柱の陰に隠れている場所から、どうやら声は聞こえてきているらしい。俺は伸び上がるようにしてその場所を窺った。
差し込む太陽の光に反射して、キラキラと光る銀髪。声の主はカカシさん……いや、今は六代目火影様と里の重鎮の一人でもあるコハル様だった。
「その話は先日お断りしたはずですけどねぇ」
「それはそれ。今日はまた別じゃ」
「はぁ…」
「なにがはぁ…じゃ、もそっと覇気のある声を出さんか」
カカシさんはなにやらへにょりと両眉を下げると、困ったようにガリガリと頭を掻いている。
歴戦の雄もコハル様にかかっちゃ型無しだな。そんなことを思いながら、俺はズズッとワカメの味噌汁をすすった。
「勘弁して下さいよ」
「何を言っとるか。お主がいつまでものらりくらりと躱しよるから、皆心配してだな」
「だーから、オレはまだ身を固めるつもりはありませんって」
話はカカシさんの嫁取りだった。
カカシさんはなにやら言い訳を付けては断ろうとしているようだが、コハル様もそう簡単には引き下がってはくれないらしい。
大戦をきっかけに木の葉の里でも婚姻を結ぶ忍が増えたからこそ、独身の火影の存在は良くも悪くも目立ってしまうのだろう。
そりゃそうだよな。若い頃から引く手あまたの上忍で、今や押しも押されもせぬ火影様だ。カカシさんほどの男が嫁の一人も貰っていないことを誰もが不思議に思っているはずだ。
ま、そういう俺も独身なんだけど。
ふふふっ。なんて笑いながら、少しだけ冷めてしまった最後の一切れを口の中に放り込んだ。
「しかしじゃな、いい歳をした火影が独身など体裁が悪かろう」
「オレは体裁のために結婚しようなんて思っていませんよ」
「嫁をもらってこそ、火影として他里に認められると言うもんじゃ」
「それを言うなら、五代目だって独り者だったと記憶していますが」
「それはそれ、これはこれじゃ」
堂々巡りの論争の末、食事もそこそこにカカシさんが盛大な溜息をついて席を立つのが見えた。
あぁ、あんなにも残して。
こんなに旨いのに勿体無いな。
俺はオバちゃんオススメB定食を最後の一口まで思う存分味わって、ご馳走様ですと両手を合わせた。
*****
そんな光景を昼間に見たばかりだったから、行きつけの安い居酒屋でカカシさんが一人で呑んでいるところを見つけたときは少しばかり驚いた。
カウンターの前には薄っぺらい刺し身とだし巻き。手酌で徳利からお猪口に注いで、浮かない顔のままチビチビと口をつけている。
時折聞こえる小さな溜息に、生来の世話焼き癖が発動しちまった。やめときゃいいのに俺はツカツカとカカシさんの傍まで近づくと、お久しぶりですと声をかけたのだ。
「イルカ先生」
「お一人ですか?」
なんて、笑ってしまう。
これじゃまるで下手なナンパ師じゃないか。
教え子の上忍師だったカカシさんとは、俺は以前にやりあったことがある。立場上意見の食い違いがあったとはいえ、公衆の面前でぐうの音も出ないほどやり込められて悔しい思いもした。
はたけカカシのバカヤロウっ! アイツは何もわかってねぇ! なんて大酒呑んでくだを巻いたのもそう言えばこの店だったっけ。
それが今や火影様だもんなぁ。
感慨深げに思い出にふける俺の前で、カカシさんは少しだけ驚いたように眼を見開いたあと、くすりと笑って隣の椅子を引いてくれた。
つまりは「どうぞ」ということだろうか。
「失礼します」
俺はカカシさんの隣に腰掛けると、カウンター越しの親父に向かって声をかける。
「ビールと鳥唐、あと枝豆も」
「はいよっ!!」
威勢のいい親父の声とともに、まずはビールが手渡される。
安い店ながらジョッキまでキンキンに冷やされたビールに口をつけ一気に流し込めば、脳天まで突き抜ける冷たさが汗ばんだ身体を一気に冷やしていく。俺は思わずくぅと喉を鳴らした。
「はー、うまっ」
「アハハ。美味しそうに呑みますねぇ」
「実は発泡酒なんですけどね」
「あら、そうなの?」
じろりと親父に睨まれて、やべぇと肩をすくめる。
隣で楽しそうに笑うカカシさんが、空になったお猪口を振って「オレもビールちょうだい」なんて注文する声に嬉しくなった。
カカシさんのビールが運ばれてくるのを待って、俺達はどちらからともなく乾杯とジョッキを鳴らした。
冷えたビールを流し込み、机の上に並べられた枝豆を口の中に放り込む。柔らかすぎず硬すぎず、抜群の歯ごたえの枝豆に、口に入れた後からまたすぐ手が伸びた。
「しかし、火影様がこんなところにいらっしゃるなんて驚きましたよ」
こんな所なんていうとまた親父に睨まれてしまうから、少しだけ声を潜めた。言葉の意図を察してくれたカカシさんが、またくすりと笑って結構常連よなんて言うのに俺のほうがびっくりしてしまう。
「そうなんですか?」
「なに? 火影様ってのは高級料亭にばかり出入りしていると思ってたとか?」
「はぁ、まぁそんなとこで」
カカシさんが偏見だねと苦笑するのに、俺は鼻の頭をポリポリと掻いて言葉を濁した。
「ところでイルカ先生まで、さまはやめてよ」
「そんなわけにはいきません。火影様、いや、六代目」
「あー、ソレもやめて。公務を離れたときぐらい一介の忍でいたいのに」
一見冷たそうな見た目と違って、気さくなカカシさんが里人から様付けで呼ばれることを心底照れくさがっているのは有名な話だ。そう言えば、コピー忍者だ、写輪眼のカカシだなんて言われている時も、ガイ先生とじゃんけん勝負なんかしたりして庶民的な人だったよな。
「ではカカシさんで」
「よろしく」
俺達はふふふと笑い合うと、再びジョッキに口をつけた。
「ところで、それぐらいで足りるんですか?」
カウンターの前に並べられた料理を前にそんなことを口走ってしまったのは、昼間カカシさんがほとんど何も食べていなかったのを見ていたからだ。
カカシさんが少しばかり驚いた顔でこちらを見て、それからバツが悪いように頭を掻くのに、あぁ、余計なことを言っちまったと唇を噛んだ。
「そういや先生、あそこにいましたよね」
「…ご存知でしたか」
里内だし、食堂だしで気配を消してはいなかったが、大勢人がいたからまさかバレているとは思わなかった。
「先生があんまりにも美味しそうに食べているのを見て、オレもB定食にすればよかったなんて思ってたんですよ」
「うわっ! やめてくださいよっ、恥ずかしい…」
一体どんな顔で食べていたというんだろうと思うと一気に汗が吹き出してくる。俺はあたふたしながら顔の前で両手を振った。
「恥ずかしいのはオレの方」
「へ?」
「あんなところで参ったよ…」
はぁ、とまた小さな溜息。
カカシさんが居たところは柱の陰だったとは言え、食事時にはすべての席が埋まるほど大盛況な食堂だ。衆人環視のなかで火影の見合い話なんて始められちゃ、噂の種にしかならないもんな。実際、カカシさんが出ていった後の食堂では、くノ一達が何やらキャーキャーと騒いでいたのを思い出す。
私も火影様の見合い相手に立候補したーいっ!! だったかな。けして卑屈になってはいないけれど、地位も名誉も金もある男って羨ましい。
「ところでイルカ先生は?」
「へ?」
「結婚」
「いや~、俺は…」
いきなり話を振られて、俺は目を白黒させながら言葉に詰まる。
「しないの? てっきり先生は一楽の娘さんかサドル先生と結婚するのかと思っていたよ」
「は? え? アヤメさん!? いやいや、ないないっ!! ないですよっ!」
「そう?」
「忍の神に誓ってありませんっ!!」
何をそんなに必死になって否定しているのだろうと思ったら笑えてきたけれど、ここは全力で否定した。
「じゃあ別に付き合っているヒトがいるとか」
カカシさんはカウンターに頬杖をつくと、小首を傾げてそう言った。白い肌にほんのり目元が赤く染まった表情。それがなんだか色っぽくて、俺は少しだけドキリとしてしまう。
「――そ、それは…」
「………いるの?」
「え、っと」
その間はなんだろう。妙な圧力にゴクリと喉を鳴らし、視線をあらぬ方へ彷徨わせながらボソボソと口にする。
「実は少し前に別れたところで」
「……へぇ」
だからその妙な間は何なんだ。
「そんなわけで、俺も恋人募集中ってわけですよ」
何がそんなわけでだ。
彼女のことは精一杯大事にしていたし、同僚にも「あんないい子を逃したらもう次はないぞ」なんて口を酸っぱくして言われていたのに、結局うまくいかなかった。
『イルカは本当に優しいよね。なんでも言うことを聞いてくれるし、私のこと怒ったりもしない』
最初はそう言って笑っていたのに。
何が悪かったというのだろう。
彼女の望むことは出来る限り叶えてきたつもりだった。
『いつも私に気を使って、イルカはそれでいいの!? 私にはイルカが何を求めているのかわかんないよ』
詰られても泣かれても。
掛ける言葉が見つからなくて見て見ぬふりをした。
争うのが面倒だと言うのが本音だった気がする。
『イルカは私のこと、本当は好きじゃないでしょう…?』
寂しそうに笑いながらそう言った彼女に、痛いところを突かれたと思った。
当たりだったから。
一言の言い訳さえしないまま、去っていく小さな背中に手を伸ばさなかったのは俺の方だ。
「……うして? なんて踏み込んだこと聞いちゃダメだな」
「―――ふぁっ!? な、なんですか?」
別れの記憶に意識を飛ばしていたもんだから、カカシさんの言葉がはっきりと聞こえなかった。
素っ頓狂な声を上げた俺に、カカシさんは首を振って「何でもない」と言う素振りをすると、まだ手付かずだっただし巻きに箸をつけた。
挟むようにして持ち上げれば、切り分けたところからたっぷりとした出汁が溢れ出してくる。すりおろした大根に醤油を少しばかり垂らして、口布をおろした薄い唇の中に…。
ゴクリ。おっと、いかん。つられて喉を鳴らしてしまった。
「おいし」
「そのようで」
妙な返事をした俺に、カカシさんがついと皿を俺の前まで押し出した。
「食べます?」
「…俺はそんなに物欲しそうな顔をしていましたか」
「そういうわけじゃないけど…アハハッ」
吹き出されて顔から火が出そうになった。俺は羞恥心に苛まれながらも唐揚げが盛られた皿をカカシさんへと差し出した。
「か…唐揚げも旨いですよっ」
「交換ですね」
互いの皿を分け合って、俺はカカシさんのだし巻きを口の中に頬張った。噛めば溢れてくる出汁の風味が鼻から抜ける。想像通りの旨さに顔を綻ばせている俺の横で、唐揚げを口にしたカカシさんが浮かない顔をしているのに気づいてふと真顔になった。
「あの…旨くないですか?」
「旨いよ」
そう言って笑うのに、明らかに表情はパッとしない。やはり、食堂でのコハル様とのやりとりが気にかかっているからだろうか。
「あの…食堂の件なら気にすることないと思いますよ」
「ん~?」
「わざわざ見合いなんてしなくても、素敵なお嬢さんがきっと現れると思いますから」
「は? …あぁ、うん…」
「俺が保証しますっ!! 大名の姫君から店の看板娘まで、カカシさんなら選り取りみどりですって!」
慰めるつもりがどうやら的はずれなことを言ったようだ。
カカシさんはポカンとした顔をして、それから困ったように苦笑した。
「独り身で自由気ままに暮らしてきたってのに、今更世帯を持てなんて言われてもねぇ」
「それはそうですけど…」
カカシさんの言うこともよくわかる。
だけど、幼くして天涯孤独になった身だからこそ、家族は居たほうが良いと思わずにはいられないのが本心だ。けしてコハル様の肩を持っているわけではないぞ。
「先生は結婚したいとか思ってる?」
「そりゃあ出来るもんならしたいですよっ!」
結婚するかもしれないな、なんてぼんやり考えていた相手には見事に振られたけれど。
俺は古傷を抉られながらそう答えた。
カカシさんは何やら逡巡するように考え込んだ後、冗談みたいにポンと手を叩き、声を潜めて俺を呼んだ。
「じゃあ、オレと偽装結婚しませんか?」
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