Libera Me 〜リベラ・メ〜
夕刻の慌ただしい報告業務が一段落すると、任務報告所には少しばかりの開放感と休息が訪れる。
「よかったらみんなで食べてくれよ」
鞄から取り出した菓子箱に、甘いものを求めてわらわらと寄ってきた同僚たちが、我先にと菓子箱へと手を伸ばした。
「お、かえで饅頭じゃねぇか! 」
「ってことは、まーた行ってきたのかよ。突発秘湯巡り」
まぁなと頷きつつ同僚たちの隙間を縫って饅頭を一つ摘みだす。疲れ切った頭に栄養を与えるべく饅頭を口に放り込んだ。
「うまっ」
焼き色のついたふっくらした生地の中には、クリームチーズと白味噌が練り込まれた餡がぎっしりと詰まっていて、カステラ生地の素朴さと甘じょっぱいチーズの濃厚な味わいは、湯の国の数ある土産の中で一番の人気を誇る一品なのである。
「ちょうど小腹が減ってたとはいえやっぱうめぇよな」
「かえで饅頭の中でもこのクリームチーズ味は間違いないねぇ」
同じように口に頬張った同僚達がうなるのに、イルカもそうだろとばかりに鷹揚に頷いてみせた。
「茶でも淹れるか」
「おー、コーヒーにしてくれ」
「粉のやつな」
「しけてるよなぁ。誰か予算引っ張ってきてくれよ〜」
「馬鹿言うな、受付にでかい予算なんておりるかよ」
「ちがいねぇ」
ガハハと笑い合い、並べたコップの中に粉末を入れて湯を注ぐ。インスタントといえど、原料は本物。漂う香りに全員が鼻をひくつかせたとき、ガラリと音がして報告所の扉が開いた。
「おや、いい匂いですね」
銀色の髪に眠たそうな瞳。顔のほぼ全てを隠した胡散臭い風貌の男が、長身の背中を丸めるようにして扉をくぐる。ちょうどコップに湯を注いでいたイルカに向かって声をかけてきた。
「カカシさんっ!」
「お疲れ様です、はたけ上忍。報告ですか?」
「ん〜、休憩中なら待ちますけど」
「いやいやいやいや」
そう言って、本当に報告所のソファへと腰掛けようとするのを受付中が慌てて引き止めた。
「すぐ拝見しますから、こちらへどうぞ」
「でも、せっかくのコーヒーが冷めちゃうでしょ」
「カカシさんを待たせたままゆっくりお茶するほうが落ち着きませんって」
「じゃあ、俺も飲もっかな」
「は?」
「コーヒー」
「……インスタントですけど…?」
「構いませんよ?」
キョトンとした顔。いや、そもそも顔自体ほとんど隠れているから表情は読みにくいのだけれど、カカシはそう言ってイルカの傍までやってくると、紙コップを手にとった。
「スプーン一杯でいいの?」
「わっ、俺がやりますからカカシさんは座っててくださいっ」
「え? いいの?」
「どーぞ、どーぞ。お茶菓子も食ってってください…って、そういや甘いものは苦手なんでしたっけ?」
「あ〜、まぁ……」
「かえで饅頭、旨いっすよ。はたけ上忍」
「イルカの秘湯土産なんです」
「へぇ、そうなの?」
問われた言葉にトゲを感じて、イルカは苦笑いを浮かべたまま鼻の頭を掻いた。秘湯巡りを趣味にしているイルカに、カカシは幾度か一緒に行きたいと声をかけてくれていたのだ。だけどイルカは、それを何かと理由をつけては反故にしていた。
「はは、思いがけず急な休みが取れまして…」
「ずるいなぁ。行くときは誘ってくださいって言っていたのに」
「申し訳ありません」
「ダメっすよ、はたけ上忍。イルカは思いついたらすぐなんですから」
「そうそう。温泉好きが高じて今や秘湯じゃないと満足できないとか、どんだけマニアックなんだよ」
「うるせぇ、んなこと言ってると土産も買ってこねぇからな」
「冗談だって! イルカの秘湯土産には毎回お世話になってますっ」
慌てて拝み倒すゼスチャーをした同僚に、仕方ねぇなと笑いかけた。
「で、今回はどこの秘湯に行ってきたんですか?」
「湯の国国境付近にいい塩梅の温泉を見つけたって教えてもらいまして。まだあまり知られていない山中なんで、猿なんかも入りに来ていましたよ」
「いつも思うんですけど、先生のその情報って一体どこから仕入れてくるんです?」
「あー、里外任務中の幼馴染がいるんです」
「幼馴染?」
「そうです。そいつが、俺が秘湯好きなのを知ってて、情報を仕入れては式を飛ばしてくれたりなんかして…」
「……それって、もしかして女とか?」
「は? えーっと、残念ながら男ですけど」
「そ」
気のせいか。
問われた瞬間、一瞬冷えた空気に戸惑いながらコーヒーを差し出すと、カカシは優しく目を細めてありがとうと小さく呟いた。湯気がたった熱々のコーヒーをそっと口に含む。
「任務帰りのコーヒーって案外ほっこりするもんなんですねぇ」
「でしょう? 気がたっている方には落ち着いてもらうために甘いココアを差し上げることもあるんですよ」
「オレ、受付で飲ませてもらったことなんて一度もないんだけど」
「あ〜カカシさんはいつだって平常心じゃないですか。……ここだけの話、カカシさんみたいな方はありがたくて」
内緒話をするように耳元に口を近づけてそう言うと、くすぐったいとばかりにカカシが笑って肩をすくめた。普段は上忍らしく表情を全く読ませないカカシが、こんなふうに和らいだ雰囲気を出してくれることがイルカは嬉しくてたまらなかったりする。
内勤の忍がこんなことを思うなんて烏滸がましいとは思うけれど、心を許してもらっているような気持ちになるのだ。
元教え子を介して知り合ったカカシとは、今では互いの家を行き来するぐらいに個人的な付き合いをするようになっていた。
最初こそ階級格差がチラついて一歩引いていたイルカだったが、カカシの気さくさや物静かな佇まいに、いつのまにかそんな遠慮はどこへともなく消え去り、それどころかカカシにすっかり心酔してしまっていた。
『本当に強い忍っていうのは、下のものに高圧的な態度をとったりしないもんなんだよな』とは、後にイルカが同僚に語った言葉だが、冷血のカカシ、コピー忍者なんて恐れられてはいるけれど、普段の穏やかなこの人を見ていたら、他里のビンゴブックに載っている忍だなんて信じられないくらいだ。
カカシとの付き合いが深まっていくごとに、イルカはカカシに強く惹かれていくのを自覚していた。そして、できることならこの忍の隣に並び立つ男でありたいと強く思うようになっていたのだ。
「コーヒーを飲んだら、なんだか腹が減ってきましたよ。張っていた気が緩んだのかな」
「そういや任務中はあまり食べられないんでしたっけ?」
「そうでもないけど、食べ過ぎると咄嗟のときに動けなくなるからね」
「そういういとこ本当にストイックですよね。俺なんていつも腹いっぱい食っちまって」
ダメだなぁと口にしたイルカに、カカシが少しだけ眉を寄せて頷いた。
「先生は少しラーメンを自重しましょう」
「……まさか昨日も一楽へ行ったのバレてました?」
「おや、自白しちゃうの?」
「あははっ。藪蛇でしたね」
「じゃあ今日は別のところに食いに行きましょうよ。そろそろ交代の時間でしょ?」
ちらりと時計を確認すれば、本当に交代の時間だった。こんなところまで卒のないカカシのことを、本当に完璧な人だと唸ってしまう。
「良いですねぇ。では、その前に」
「ん?」
「報告書、確認させていただきます」
居酒屋木の葉は、少人数から規模の大きい大宴会までを完全個室で利用できる珍しい居酒屋だ。
大宴会があるときこそ騒がしいものの、腰を落ち着けてゆっくりと飲めるこの居酒屋は二人のお気に入りの場所だったりする。
二階の窓から木の葉の市街地を見渡せる席に隣り合わせに座り、イルカは付き出しの枝豆を口に放り込んだ。顔を出した店員にとりあえずビールと声をかけ、だし巻きや唐揚げ、焼鳥の盛り合わせに牛のサイコロステーキと続けざまに肉料理を注文すれば、カカシが慌ててサラダや冷奴もと付け加える。
間もなく運ばれてきたビールを手にすると、
「任務お疲れ様でしたっ!」
「先生も、おつかれ」
キンキンに冷えたジョッキがカツンという小気味いい音を響かせる。
喉に流し込んだ炭酸が喉元をスルスルと流れていく感覚に、イルカはくうっと喉を鳴らした。
「あー、うっま!」
「身体の芯まで染み渡りますねぇ」
溜まった熱を冷やすため、煽ったビールは一気に半分まで減ってしまっている。料理を運んできた店員に、ジョッキを掲げて同じものをと合図する。運ばれてくるビールを待つこともなく、あっという間に残りのビールを腹の中に流し込んだ。
「すすみますねぇ」
「ぬるくなったビールはビールじゃありませんから。カカシさんもぐっといっちゃてくださいよ」
一気、なんて挑発すれば、カカシも受けて立つとばかりにグラスを煽る。
「今日はとことん呑みましょう!」
「……いいですね」
はふぅと溢れる吐息と口元のホクロ。
口布をおろした秀麗な素顔に濡れた薄い唇が色っぽいなんて、ビールいっぱいでそこそこアルコールが回ってしまったらしい。イルカは妙な気分を打ち払うべくブルブルと顔を横に振って、目の前の肉に箸を伸ばした。
「ちょっと、そんなに肉ばっかり食べないで、サラダも腹に入れなさいって」
「カカシさんこそ野菜にばっか箸をつけてないで、肉を食ってくださいよ。このサイコロステーキなんて肉汁が染み出て最高に旨いんですから」
互いの皿に肉と野菜を盛り合いながら、冷たいビールを流し込む。
どれだけ呑んでもほとんど素面と変わらないカカシとは反対に、イルカは酒が進むたびにどんどん陽気で饒舌になっていった。
カカシが好きで、カカシといる時間が楽しくてたまらないから。
いつになく飲みすぎてしまうのだ。
そんなわけで、腹が一息つく頃にはイルカはすっかり出来上がってしまっていた。
卓上にうつ伏せになってうとうととするイルカの横で、カカシが変わらぬペースで酒が注がれた透明なグラスに口をつけている。いつのまに日本酒へとシフトしたんだろ。そんなことを考えていたら、カカシと目が合った。
「呑みますか?」
「……はい」
のろのろと身体を起こし、カカシのグラスを受け取ると、くいっと喉の奥に流し込む。キリリとした味わいの辛口は、ふわりとした花の芳醇な香りがした。
「うまい。けど、これ呑み過ぎちゃいますね」
「ん〜、先生はこのへんでやめておいたほうが良いかもね」
「む、見くびらんでください」
もっと一緒に呑んでいたかったから、限界も近いのに強がってみせた。
「先生は明日も仕事でしょ」
たしなめるカカシからグラスを奪って、ちびりと酒を舐める。
「だからなんだって言うんです。久しぶりにカカシさんと呑めてるんだから」
もっと一緒にいたいです。
そう言うと、カカシはちょっとだけびっくりした顔して、ふいっとイルカから顔を背けた。いつもの癖でガリガリと頭を掻いて、残った酒を一気に煽る。
その耳が少しだけ赤くなっているのに、ふふふと笑い声を上げた。
「照れちゃいましたか」
「先生が変なこと言うからでしょ」
「へへっ、可愛いなぁ」
上機嫌でそう言うと、子供たちにするようにグリグリとカカシの髪を乱暴に掻き混ぜる。
四方八方に立ち上がった銀髪は、きっと硬いのだろうと想像していたのに。指に絡んだ感触は思いの外柔らかくて、随分と手触りが良かった。
「だって二週間ぶりじゃないですか」
「あー、里外の情勢も不安定ですからね」
「えぇ」
受付にも僅かだが情報はあがってくる。諜報部から式が届くたびに、火影室を出入りするお歴々の表情が険しさを増すのに不安がないわけではない。
「……あいつらは大丈夫なんでしょうか」
既に一端の忍として活躍する元教え子たちを、いつまでも子供だなんて思ってはいないけれど。どうにもイルカはナルトたちに対して過保護になるきらいがあった。カカシはそんなイルカに仕方ないなぁという顔をしたかと思うと、 「ま、なんとかするでしょ」とでも言うように笑ってみせた。
「それより、先生に幼馴染がいるなんて初耳でした」
「言ってませんでしたっけ? アカデミーで一緒だったヤツなんですけど、卒業後も同じ班で任務に出ていたんですよ」
そのスリーマンセルも任務失敗が原因で解体され、イルカは三代目のすすめもあって教師を目指した。
「その男が、先生に秘湯情報を?」
「ははっ。秘湯情報はついでですよ。ハヤタは──、あ、そいつ足柄ハヤタっていうんですけど、医療班に所属していて、里外を飛び回っているもんで。ご存じないですか?」
カカシはしばらく考えて、知らないと小さく首を横に振る。上忍師になる前は暗部に所属していたらしいから、里の人員にはあまり明るくないのかもしれない。そもそもすべての忍のことまで把握するのは、受付に在籍しているイルカでも至難の業だ。
「たまに里に戻って来ているんですけどね。この間なんてあんまりにも久しぶりに帰ってきたもんだから、ついつい深酒しちまって、気づいたら二人して玄関前の廊下で爆睡ですよ」
翌朝砂まみれで重なるようにして眠っていたことを思い出して笑ってしまう。あの日は一日中二日酔いで死ぬ思いをしたっけ。
イルカが里の誉れと呼ばれたカカシと飲みに行く間柄だと知ったら、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして驚くだろうと想像したら更に可笑しくなった。
今度ハヤタが戻ってきたら自慢してやろう。
「その人と随分仲がいいんですね」
「仲が良いっていうか、互いに知らないことなんてないんじゃないかってぐらい付き合いだけは無駄に長いんで。所謂、腐れ縁ってやつですかね」
ガハハと笑うイルカに、カカシは少しだけ目を細めて。
「なんだか妬けるな」
そう言って、コツンと小さな音を立ててグラスを机に置いた。
「へ……?」
「先生が、ナルトや受付以外の人の話をすることなんてあまりないでしょ」
「あ〜、そういやそうですかね?」
今は内勤と外勤に分かれてしまっているが、ハヤタはスリーマンセルで共に死線をくぐり抜け、同じ釜の飯を食った仲間だ。
もちろん受付連中とは気が合うけれど、イルカにとってハヤタは別の意味でも特別な存在だった。
「……油断したなって」
「はい?」
「先生が魅力的なのは知っていたのに、悠長に構えているなんてオレも平和ボケしていたのかな」
「み、魅力的とかっ!! あははっ。御冗談を」
「冗談を言ったつもりはありませんけど」
「……へ……?」
一瞬訪れた緊張の後、ゆっくりとカカシの手が伸びてくる。大きな手で後頭部を掴まれて、強引に引き寄せられた。気づいたときにはカカシの素顔が目の前にあって。
やっぱこの人綺麗な顔をしているな。なんてぼんやりした頭で見惚れていたら、唇が柔らかいものに触れていた。
「?」
眼下に見えるのはキラキラ光る銀色の睫毛。何をされているのか認識する間もなく、優しく触れていた唇が啄むように一度離れると、長い指がスルリと頬を辿る。
「……嫌だったらちゃんと抵抗してね?」
何がと答える前に再び唇が重ねられ、呆然とするイルカの唇を割ってぬるりとしたものが口内へ潜り込んできた。
「んっ、ぅっ」
生暖かい感触が歯列をたどり、僅かな隙間から奥深くまで入り込んでくる。口内を弄られる感触。驚いて押し返そうとした舌まで絡め取られてきつく吸い付かれた。
「……っ!」
反射的に胸を打った腕はいつの間にか折り畳まれ、密着する身体に狼狽えまくるイルカにカカシが伸し掛かってくる。上顎を舌先で何度も擽られて、下腹に走った甘い痺れに愕然とした。
身体の深い部分がじわりと濡れるような感触。ダイレクトに重くなる腰に理性が追いつかない。
ダメだ。こんなことという焦りとは反対に、身体が勝手に快感に応えようとしていた。
「待って……、カ、カシさ…っ」
「待てない」
息苦しさに喘いだイルカを逃さず、カカシが更に唇を深く重ね合わせてくる。
角度を変え、激しく貪られる口づけに頭の芯がぼうっとする。息苦しくてたまらないはずなのに、口元に感じる息や唾液が絡む音に五感を刺激されて、イルカは水の中を藻掻くみたいにカカシに縋り付いた。
「ンン…ッ……ア…ッ!」
腕の中に抱きかかえられたまま口内を執拗に愛撫され、たまらず反応を示した瞬間───、
扉を叩くノックの音とやけに大きく響いたラストオーダーの声に、触れていた唇が水音を鳴らして離れていく。
「大丈夫ですよ〜。ついでにお会計お願いします」
何事もなかったように扉を振り返ったカカシが、腰砕けになったイルカを抱えて笑顔で応対するのに、イルカはその場にへたり込んだまま濡れた口元を掌で覆い隠した。
一体何が。
どうなって。
煩いぐらいに鳴る心臓を落ち着けるべく、はっはと短い息を吐く。
「イルカ先生」
困惑と混乱で茫然自失になっているイルカの頬に、カカシの手が触れる。
反射的にビクリと震えたイルカの唇に再び顔を近づけてきた。
「……いい?」
今度こそ。
拒まなければと思っているのに。
頭の中で鳴る警鐘に耳をふさぎ、イルカはカカシを受け入れるべく唇をひらいた。
「よかったらみんなで食べてくれよ」
鞄から取り出した菓子箱に、甘いものを求めてわらわらと寄ってきた同僚たちが、我先にと菓子箱へと手を伸ばした。
「お、かえで饅頭じゃねぇか! 」
「ってことは、まーた行ってきたのかよ。突発秘湯巡り」
まぁなと頷きつつ同僚たちの隙間を縫って饅頭を一つ摘みだす。疲れ切った頭に栄養を与えるべく饅頭を口に放り込んだ。
「うまっ」
焼き色のついたふっくらした生地の中には、クリームチーズと白味噌が練り込まれた餡がぎっしりと詰まっていて、カステラ生地の素朴さと甘じょっぱいチーズの濃厚な味わいは、湯の国の数ある土産の中で一番の人気を誇る一品なのである。
「ちょうど小腹が減ってたとはいえやっぱうめぇよな」
「かえで饅頭の中でもこのクリームチーズ味は間違いないねぇ」
同じように口に頬張った同僚達がうなるのに、イルカもそうだろとばかりに鷹揚に頷いてみせた。
「茶でも淹れるか」
「おー、コーヒーにしてくれ」
「粉のやつな」
「しけてるよなぁ。誰か予算引っ張ってきてくれよ〜」
「馬鹿言うな、受付にでかい予算なんておりるかよ」
「ちがいねぇ」
ガハハと笑い合い、並べたコップの中に粉末を入れて湯を注ぐ。インスタントといえど、原料は本物。漂う香りに全員が鼻をひくつかせたとき、ガラリと音がして報告所の扉が開いた。
「おや、いい匂いですね」
銀色の髪に眠たそうな瞳。顔のほぼ全てを隠した胡散臭い風貌の男が、長身の背中を丸めるようにして扉をくぐる。ちょうどコップに湯を注いでいたイルカに向かって声をかけてきた。
「カカシさんっ!」
「お疲れ様です、はたけ上忍。報告ですか?」
「ん〜、休憩中なら待ちますけど」
「いやいやいやいや」
そう言って、本当に報告所のソファへと腰掛けようとするのを受付中が慌てて引き止めた。
「すぐ拝見しますから、こちらへどうぞ」
「でも、せっかくのコーヒーが冷めちゃうでしょ」
「カカシさんを待たせたままゆっくりお茶するほうが落ち着きませんって」
「じゃあ、俺も飲もっかな」
「は?」
「コーヒー」
「……インスタントですけど…?」
「構いませんよ?」
キョトンとした顔。いや、そもそも顔自体ほとんど隠れているから表情は読みにくいのだけれど、カカシはそう言ってイルカの傍までやってくると、紙コップを手にとった。
「スプーン一杯でいいの?」
「わっ、俺がやりますからカカシさんは座っててくださいっ」
「え? いいの?」
「どーぞ、どーぞ。お茶菓子も食ってってください…って、そういや甘いものは苦手なんでしたっけ?」
「あ〜、まぁ……」
「かえで饅頭、旨いっすよ。はたけ上忍」
「イルカの秘湯土産なんです」
「へぇ、そうなの?」
問われた言葉にトゲを感じて、イルカは苦笑いを浮かべたまま鼻の頭を掻いた。秘湯巡りを趣味にしているイルカに、カカシは幾度か一緒に行きたいと声をかけてくれていたのだ。だけどイルカは、それを何かと理由をつけては反故にしていた。
「はは、思いがけず急な休みが取れまして…」
「ずるいなぁ。行くときは誘ってくださいって言っていたのに」
「申し訳ありません」
「ダメっすよ、はたけ上忍。イルカは思いついたらすぐなんですから」
「そうそう。温泉好きが高じて今や秘湯じゃないと満足できないとか、どんだけマニアックなんだよ」
「うるせぇ、んなこと言ってると土産も買ってこねぇからな」
「冗談だって! イルカの秘湯土産には毎回お世話になってますっ」
慌てて拝み倒すゼスチャーをした同僚に、仕方ねぇなと笑いかけた。
「で、今回はどこの秘湯に行ってきたんですか?」
「湯の国国境付近にいい塩梅の温泉を見つけたって教えてもらいまして。まだあまり知られていない山中なんで、猿なんかも入りに来ていましたよ」
「いつも思うんですけど、先生のその情報って一体どこから仕入れてくるんです?」
「あー、里外任務中の幼馴染がいるんです」
「幼馴染?」
「そうです。そいつが、俺が秘湯好きなのを知ってて、情報を仕入れては式を飛ばしてくれたりなんかして…」
「……それって、もしかして女とか?」
「は? えーっと、残念ながら男ですけど」
「そ」
気のせいか。
問われた瞬間、一瞬冷えた空気に戸惑いながらコーヒーを差し出すと、カカシは優しく目を細めてありがとうと小さく呟いた。湯気がたった熱々のコーヒーをそっと口に含む。
「任務帰りのコーヒーって案外ほっこりするもんなんですねぇ」
「でしょう? 気がたっている方には落ち着いてもらうために甘いココアを差し上げることもあるんですよ」
「オレ、受付で飲ませてもらったことなんて一度もないんだけど」
「あ〜カカシさんはいつだって平常心じゃないですか。……ここだけの話、カカシさんみたいな方はありがたくて」
内緒話をするように耳元に口を近づけてそう言うと、くすぐったいとばかりにカカシが笑って肩をすくめた。普段は上忍らしく表情を全く読ませないカカシが、こんなふうに和らいだ雰囲気を出してくれることがイルカは嬉しくてたまらなかったりする。
内勤の忍がこんなことを思うなんて烏滸がましいとは思うけれど、心を許してもらっているような気持ちになるのだ。
元教え子を介して知り合ったカカシとは、今では互いの家を行き来するぐらいに個人的な付き合いをするようになっていた。
最初こそ階級格差がチラついて一歩引いていたイルカだったが、カカシの気さくさや物静かな佇まいに、いつのまにかそんな遠慮はどこへともなく消え去り、それどころかカカシにすっかり心酔してしまっていた。
『本当に強い忍っていうのは、下のものに高圧的な態度をとったりしないもんなんだよな』とは、後にイルカが同僚に語った言葉だが、冷血のカカシ、コピー忍者なんて恐れられてはいるけれど、普段の穏やかなこの人を見ていたら、他里のビンゴブックに載っている忍だなんて信じられないくらいだ。
カカシとの付き合いが深まっていくごとに、イルカはカカシに強く惹かれていくのを自覚していた。そして、できることならこの忍の隣に並び立つ男でありたいと強く思うようになっていたのだ。
「コーヒーを飲んだら、なんだか腹が減ってきましたよ。張っていた気が緩んだのかな」
「そういや任務中はあまり食べられないんでしたっけ?」
「そうでもないけど、食べ過ぎると咄嗟のときに動けなくなるからね」
「そういういとこ本当にストイックですよね。俺なんていつも腹いっぱい食っちまって」
ダメだなぁと口にしたイルカに、カカシが少しだけ眉を寄せて頷いた。
「先生は少しラーメンを自重しましょう」
「……まさか昨日も一楽へ行ったのバレてました?」
「おや、自白しちゃうの?」
「あははっ。藪蛇でしたね」
「じゃあ今日は別のところに食いに行きましょうよ。そろそろ交代の時間でしょ?」
ちらりと時計を確認すれば、本当に交代の時間だった。こんなところまで卒のないカカシのことを、本当に完璧な人だと唸ってしまう。
「良いですねぇ。では、その前に」
「ん?」
「報告書、確認させていただきます」
居酒屋木の葉は、少人数から規模の大きい大宴会までを完全個室で利用できる珍しい居酒屋だ。
大宴会があるときこそ騒がしいものの、腰を落ち着けてゆっくりと飲めるこの居酒屋は二人のお気に入りの場所だったりする。
二階の窓から木の葉の市街地を見渡せる席に隣り合わせに座り、イルカは付き出しの枝豆を口に放り込んだ。顔を出した店員にとりあえずビールと声をかけ、だし巻きや唐揚げ、焼鳥の盛り合わせに牛のサイコロステーキと続けざまに肉料理を注文すれば、カカシが慌ててサラダや冷奴もと付け加える。
間もなく運ばれてきたビールを手にすると、
「任務お疲れ様でしたっ!」
「先生も、おつかれ」
キンキンに冷えたジョッキがカツンという小気味いい音を響かせる。
喉に流し込んだ炭酸が喉元をスルスルと流れていく感覚に、イルカはくうっと喉を鳴らした。
「あー、うっま!」
「身体の芯まで染み渡りますねぇ」
溜まった熱を冷やすため、煽ったビールは一気に半分まで減ってしまっている。料理を運んできた店員に、ジョッキを掲げて同じものをと合図する。運ばれてくるビールを待つこともなく、あっという間に残りのビールを腹の中に流し込んだ。
「すすみますねぇ」
「ぬるくなったビールはビールじゃありませんから。カカシさんもぐっといっちゃてくださいよ」
一気、なんて挑発すれば、カカシも受けて立つとばかりにグラスを煽る。
「今日はとことん呑みましょう!」
「……いいですね」
はふぅと溢れる吐息と口元のホクロ。
口布をおろした秀麗な素顔に濡れた薄い唇が色っぽいなんて、ビールいっぱいでそこそこアルコールが回ってしまったらしい。イルカは妙な気分を打ち払うべくブルブルと顔を横に振って、目の前の肉に箸を伸ばした。
「ちょっと、そんなに肉ばっかり食べないで、サラダも腹に入れなさいって」
「カカシさんこそ野菜にばっか箸をつけてないで、肉を食ってくださいよ。このサイコロステーキなんて肉汁が染み出て最高に旨いんですから」
互いの皿に肉と野菜を盛り合いながら、冷たいビールを流し込む。
どれだけ呑んでもほとんど素面と変わらないカカシとは反対に、イルカは酒が進むたびにどんどん陽気で饒舌になっていった。
カカシが好きで、カカシといる時間が楽しくてたまらないから。
いつになく飲みすぎてしまうのだ。
そんなわけで、腹が一息つく頃にはイルカはすっかり出来上がってしまっていた。
卓上にうつ伏せになってうとうととするイルカの横で、カカシが変わらぬペースで酒が注がれた透明なグラスに口をつけている。いつのまに日本酒へとシフトしたんだろ。そんなことを考えていたら、カカシと目が合った。
「呑みますか?」
「……はい」
のろのろと身体を起こし、カカシのグラスを受け取ると、くいっと喉の奥に流し込む。キリリとした味わいの辛口は、ふわりとした花の芳醇な香りがした。
「うまい。けど、これ呑み過ぎちゃいますね」
「ん〜、先生はこのへんでやめておいたほうが良いかもね」
「む、見くびらんでください」
もっと一緒に呑んでいたかったから、限界も近いのに強がってみせた。
「先生は明日も仕事でしょ」
たしなめるカカシからグラスを奪って、ちびりと酒を舐める。
「だからなんだって言うんです。久しぶりにカカシさんと呑めてるんだから」
もっと一緒にいたいです。
そう言うと、カカシはちょっとだけびっくりした顔して、ふいっとイルカから顔を背けた。いつもの癖でガリガリと頭を掻いて、残った酒を一気に煽る。
その耳が少しだけ赤くなっているのに、ふふふと笑い声を上げた。
「照れちゃいましたか」
「先生が変なこと言うからでしょ」
「へへっ、可愛いなぁ」
上機嫌でそう言うと、子供たちにするようにグリグリとカカシの髪を乱暴に掻き混ぜる。
四方八方に立ち上がった銀髪は、きっと硬いのだろうと想像していたのに。指に絡んだ感触は思いの外柔らかくて、随分と手触りが良かった。
「だって二週間ぶりじゃないですか」
「あー、里外の情勢も不安定ですからね」
「えぇ」
受付にも僅かだが情報はあがってくる。諜報部から式が届くたびに、火影室を出入りするお歴々の表情が険しさを増すのに不安がないわけではない。
「……あいつらは大丈夫なんでしょうか」
既に一端の忍として活躍する元教え子たちを、いつまでも子供だなんて思ってはいないけれど。どうにもイルカはナルトたちに対して過保護になるきらいがあった。カカシはそんなイルカに仕方ないなぁという顔をしたかと思うと、 「ま、なんとかするでしょ」とでも言うように笑ってみせた。
「それより、先生に幼馴染がいるなんて初耳でした」
「言ってませんでしたっけ? アカデミーで一緒だったヤツなんですけど、卒業後も同じ班で任務に出ていたんですよ」
そのスリーマンセルも任務失敗が原因で解体され、イルカは三代目のすすめもあって教師を目指した。
「その男が、先生に秘湯情報を?」
「ははっ。秘湯情報はついでですよ。ハヤタは──、あ、そいつ足柄ハヤタっていうんですけど、医療班に所属していて、里外を飛び回っているもんで。ご存じないですか?」
カカシはしばらく考えて、知らないと小さく首を横に振る。上忍師になる前は暗部に所属していたらしいから、里の人員にはあまり明るくないのかもしれない。そもそもすべての忍のことまで把握するのは、受付に在籍しているイルカでも至難の業だ。
「たまに里に戻って来ているんですけどね。この間なんてあんまりにも久しぶりに帰ってきたもんだから、ついつい深酒しちまって、気づいたら二人して玄関前の廊下で爆睡ですよ」
翌朝砂まみれで重なるようにして眠っていたことを思い出して笑ってしまう。あの日は一日中二日酔いで死ぬ思いをしたっけ。
イルカが里の誉れと呼ばれたカカシと飲みに行く間柄だと知ったら、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして驚くだろうと想像したら更に可笑しくなった。
今度ハヤタが戻ってきたら自慢してやろう。
「その人と随分仲がいいんですね」
「仲が良いっていうか、互いに知らないことなんてないんじゃないかってぐらい付き合いだけは無駄に長いんで。所謂、腐れ縁ってやつですかね」
ガハハと笑うイルカに、カカシは少しだけ目を細めて。
「なんだか妬けるな」
そう言って、コツンと小さな音を立ててグラスを机に置いた。
「へ……?」
「先生が、ナルトや受付以外の人の話をすることなんてあまりないでしょ」
「あ〜、そういやそうですかね?」
今は内勤と外勤に分かれてしまっているが、ハヤタはスリーマンセルで共に死線をくぐり抜け、同じ釜の飯を食った仲間だ。
もちろん受付連中とは気が合うけれど、イルカにとってハヤタは別の意味でも特別な存在だった。
「……油断したなって」
「はい?」
「先生が魅力的なのは知っていたのに、悠長に構えているなんてオレも平和ボケしていたのかな」
「み、魅力的とかっ!! あははっ。御冗談を」
「冗談を言ったつもりはありませんけど」
「……へ……?」
一瞬訪れた緊張の後、ゆっくりとカカシの手が伸びてくる。大きな手で後頭部を掴まれて、強引に引き寄せられた。気づいたときにはカカシの素顔が目の前にあって。
やっぱこの人綺麗な顔をしているな。なんてぼんやりした頭で見惚れていたら、唇が柔らかいものに触れていた。
「?」
眼下に見えるのはキラキラ光る銀色の睫毛。何をされているのか認識する間もなく、優しく触れていた唇が啄むように一度離れると、長い指がスルリと頬を辿る。
「……嫌だったらちゃんと抵抗してね?」
何がと答える前に再び唇が重ねられ、呆然とするイルカの唇を割ってぬるりとしたものが口内へ潜り込んできた。
「んっ、ぅっ」
生暖かい感触が歯列をたどり、僅かな隙間から奥深くまで入り込んでくる。口内を弄られる感触。驚いて押し返そうとした舌まで絡め取られてきつく吸い付かれた。
「……っ!」
反射的に胸を打った腕はいつの間にか折り畳まれ、密着する身体に狼狽えまくるイルカにカカシが伸し掛かってくる。上顎を舌先で何度も擽られて、下腹に走った甘い痺れに愕然とした。
身体の深い部分がじわりと濡れるような感触。ダイレクトに重くなる腰に理性が追いつかない。
ダメだ。こんなことという焦りとは反対に、身体が勝手に快感に応えようとしていた。
「待って……、カ、カシさ…っ」
「待てない」
息苦しさに喘いだイルカを逃さず、カカシが更に唇を深く重ね合わせてくる。
角度を変え、激しく貪られる口づけに頭の芯がぼうっとする。息苦しくてたまらないはずなのに、口元に感じる息や唾液が絡む音に五感を刺激されて、イルカは水の中を藻掻くみたいにカカシに縋り付いた。
「ンン…ッ……ア…ッ!」
腕の中に抱きかかえられたまま口内を執拗に愛撫され、たまらず反応を示した瞬間───、
扉を叩くノックの音とやけに大きく響いたラストオーダーの声に、触れていた唇が水音を鳴らして離れていく。
「大丈夫ですよ〜。ついでにお会計お願いします」
何事もなかったように扉を振り返ったカカシが、腰砕けになったイルカを抱えて笑顔で応対するのに、イルカはその場にへたり込んだまま濡れた口元を掌で覆い隠した。
一体何が。
どうなって。
煩いぐらいに鳴る心臓を落ち着けるべく、はっはと短い息を吐く。
「イルカ先生」
困惑と混乱で茫然自失になっているイルカの頬に、カカシの手が触れる。
反射的にビクリと震えたイルカの唇に再び顔を近づけてきた。
「……いい?」
今度こそ。
拒まなければと思っているのに。
頭の中で鳴る警鐘に耳をふさぎ、イルカはカカシを受け入れるべく唇をひらいた。
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