可愛いだけじゃダメかしら
木の葉の里の受付には天使が居る。
そんな噂話を耳にしたのは、カカシが任務待機所の隅っこでうつらうつらとしていた時のことだ。
……天使ねぇ。
イチャパラ片手にぼんやりと受付の面々を思い浮かべてみるも、該当するくノ一など見つかるべくもない。
そもそも報告所には、一人を除いてむさ苦しい男ばかりが並んでいるのが常というものだ。
だいたいくノ一なんて、笑顔の裏に研ぎすませた鋭い牙を隠し持った悪魔のような女ばかりだ。そんな天使みたいに汚れなきくノ一がこの里にいるわけないでしょ。
紅あたりが聞けば、能面のように美しい顔で首筋にクナイを突き立てられるようなことを心のなかで呟きながら、カカシは手にしたイチャパラをパタリ閉じた。
その時は、眉唾ものだと気にもとめていなかったカカシだったが、本日再びそんな噂話を耳にして、やれやれとばかりに寝そべっていたソファの上で寝返りを打った。
どうやら会話はソファを挟んだ反対側から聞こえてきているらしい。
「あ〜、今日も可愛かったなぁ〜」
「だよなー。お疲れ様でした、なんてにっこり笑いながら言われると、任務の辛さなんて全部忘れちまうよ」
「俺なんて、大変な任務でしたね。お怪我はありませんか? ってめちゃくちゃ心配してくれてよ。思わずここがちょっと…なんて言って診てもらった」
「ってかお前それ、かすり傷じゃねーかっ!」
怪我は怪我だから嘘は付いてねぇという男が掲げた傷口を、チラリと顔に伏せたイチャパラの隙間から覗き見る。
あぁ、本当に恥ずかしくなるぐらいのかすり傷だ。
「痛いですか? なんて言って唇尖らしながらフーフーしてる顔がもうなんていうか、一言で言うと最高」
仮にも木の葉の里が誇る上忍待機室である。
それがかすり傷ごときでフーフーだなんて、アカデミーの子供じゃあるまいし。
色々なところで反吐が出るほどバカバカしい話にうんざりして、再び惰眠を貪ろうとした時である。
「今日は受付何時までなのかな」
「お前、木の葉の聖域荒らそうなんて言うんじゃないだろうな」
「飯の誘いぐらい構わねぇだろ」
「ダメに決まってんだろ。抜け駆けは許さねぇ」
「だってよぉ、最近元気ねぇじゃん、しっぽちゃん」
……ん?
何やら引っかかる単語に眉を寄せ、顔の上に伏せていたイチャパラを持ち上げた。
「だよなぁ…。俺も気にかかっててよ、なにかあったか聞いてみたんだけど、無理やり作った笑顔で何でもありませんなんて言うからさ」
「お前もかよ」
「何でもないって言われちゃうとこっちも踏み込んで聞きづれぇし」
「だよな…」
はぁ…。なんて、大の男が二人して溜息まみれの憂い声。
「悩みがあるなら相談にのりてぇ」
「相談にのるフリで一歩進んだおつきあいがしてぇ」
「おい、抜け駆け禁止だぞ」
「早いもん勝ちって言葉を知らねぇのかよ」
「くっそ、俺だってな…っ!」
「――うるさいな」
のそり。剣呑そのものの表情でソファから顔を出したカカシに、今まで呆けた顔でぼやいていた男二人が、上忍ならではの素早い動きで待機室扉まで飛び退る。
「カ、カカシッ!」
「お前、い、いたのかよっ」
「いちゃ悪い?」
気配を一切感じなかった。忍びだから当然といえば当然なのだが、里においてカカシほどそれが染み付いているものはいない。
動揺を隠しきれない様子であらぬ方向に視線を彷徨わせる同僚達の姿に、更に眉間のシワが深くなる。
「ねぇ、誰の話してたの?」
「え? い、いやその…」
常ならば、待機所で昼寝なんぞしていた奴に気遣いする必要もない。しかし、気分良くうたた寝していたところを起こされて、カカシはすこぶる機嫌が悪かった。
わけのわからない殺気に当てられて、同僚たちはしどろもどろになりながら吹き出した冷や汗を拭う。
「だ―…、誰だったかなぁ」
白々しくもそう言って、同僚の一人が慌てたように待機室の扉を開く。
「俺ちょっと用を思い出した」
「ちょ、待てよっ! そういや俺もこれから行かなきゃならねぇところがあったんだっ! またな、カカシっ!」
「おい――…」
身を乗り出すカカシから間合いをとるように後ずさり、脱兎のごとく飛び出していった同僚達の姿が待機所から跡形もなく消え失せる。
こんなところばかりは無駄に上忍と言うべきか。
残されたのはイチャパラ片手にソファから顔をだしたカカシと、やり取りを遠巻きに見ていた一人の男。
カカシの旧知の友であるアスマが呆れたようにタバコに口をつけ、フッと含んだ煙を吐き出した。
「いったい何なの?」
「さぁな」
「しっぽちゃんってあの人のことだよね?」
同僚たちの脂下がった顔つきと甘ったれた会話。何がフーフーしてもらっただよ馬鹿野郎。
「だいたい受付で何してんのよ、あの人っ!」
「…知るかよ」
想像するだけで腸が煮えくり返る思いに、知らずぶわりと全身から凶悪な殺気が漏れる。
苛立ちを押さえきれずにアスマに訴えると、髭面がめんどくせぇとばかりに思い切り顔を顰めた。
「ちょっと受付行ってくる」
「おう」
愛読書を乱暴にポーチにしまい込むと、鼻息荒く待機所を出て行くカカシの背中にアスマはぷかりとドーナツ状の紫煙を吐いた。
「ったく、めんどくせぇ」
思わずといった体で漏れた言葉は、ピシャリと閉じられた扉の音によってカカシの耳に入ることはなかった。
*****
腹立ちまぎれに開いた報告所の扉の前で、「お疲れ様でした」という張りのある声とともに飛び込んできた光景に、カカシは思わず絶句してしまった。
「…なによ、アレ」
一列に並んだ机の真ん中、そこが木の葉の受付嬢と言われているうみのイルカの定位置だ。
それが今日は異様な程の行列が出来ているじゃないか。
受付におけるイルカの人気は、はっきり言って異常である。
もちろん事務方として処理能力が高いのは当然のことなのだが、親切で嫌味のない笑顔やちょっとした心遣いが、凄惨な任務で疲弊しきって戻ってきた忍達に癒やしを与えるのだそうだ。
それはカカシも認めざるを得ない事実で、カカシ自身気がつかないうちにそんなイルカに惚れてしまっていたのだから、アレは天性の人たらしだと思わなければ自分を納得させられない。
だけど、だ。
誰それ構わず癒やされたのではたまったもんじゃないと思うのは狭量だろうか。
だいたいイルカもイルカだ。
今も書類に目を通しながらも満面の笑顔を振りまいているイルカの姿に、カカシは苦々しい思いで溜息を吐き出した。
アイドルの握手会かよ。
ふと口から飛び出そうになった悪態が実は芯をついていることに気がついて、カカシは思い切り顔を歪めた。
「お疲れ様です」
「あ〜、もうマジで疲れた」
褒めてとばかりにニヤつきながらそう言って、イルカに書類を差し出した男にムッとする。
嘘つけ。
確かに疲労の色は見られるが、カカシが過去に放り込まれた任務に比べたら天と地との差があることは歴然である。
なにしろその時のカカシといえば、チャクラ切れで里に返ってくるなり病院に緊急入院させられたほどだ。
「このランクの依頼を期限内に片付けて来られるなんて、さすがです」
「そ、そうかな?」
「はいっ!こんなややこしい依頼……上忍にお願いしてよかった」
ポツリと呟いたイルカの言葉に、真っ赤になった男が慌てたように目の前で両手を振り、恥ずかしいほどに鼻の下を伸ばした。
どんな依頼か知らないけど、やめてよね。
期限内に戻ってきたぐらいで褒められるのなら、オレだったら百万回褒めてもらわなきゃ割に合わない。
「こんなのたいしたことないってっ!」
「そんなことないですよ。今回は急な依頼で本当にまいっちまってて…上忍に請けてもらえるまで受付連中とどうしようかって青くなっていたんですから」
うつむき加減でそう言って、心底困っていたと訴える。その後チラリと視線を上げて、照れたままの男に向けて完璧な営業スマイル。
こりゃイチコロだなと思ったら、案の定男が鼻息を荒くした。
「また困ったときは言ってくれよなっ!」
「良いんですか?」
「当たり前よ。イルカ先生の頼みなら断れねぇって」
勢い余って手でも握りそうな男に頭を抱えた。
あぁ、もうアンタは一体何人の男を手玉にとれば気が済むってのよ。
あれでは八方美人と陰口を叩かれても言い逃れは出来ないというものだ。
「すごく、助かります」
「おうっ! それでよ、こんど…」
畳み掛けようとする男の前で、無情にもポンッっと受付完了のハンコが押される。
すかさず「次のかた」とイルカが声をかければ、前を押しのけるようにしてなにやら大きな紙袋が差し出された。
「お疲れ様です!」
「イルカ先生〜っ! これ、土産っ! 受け取ってくれよ」
「やだなぁ、上忍。先に報告書いただけますか?」
「あっ!そそそそうだなっ。馬鹿だな焦っちまって」
「ふふっ。土産は嬉しいですけれど、上忍が無事に戻ってこられたほうがもっと嬉しいです」
「………っ…イルカ先生―――ッ!!」
感極まってガバリと抱きつこうとした男を絶妙の角度で躱しつつ、右手はしっかり報告書を掠め取っている。
やるねぇイルカ先生なんて思っていたら、躱した瞬間イルカがこちらを認識したのが見えた。
「げっ!! ―――カ、カシさん…っ!」
何よ、そのバケモノでも見たような声は。
素っ頓狂に上がった声に、逸る気持ちで列に並んでいた同僚たちの顔が一気にこちらを振り返る。
ぎょっとした顔、青ざめた顔。それから嫉妬の入り混じった顔、顔、顔。
まさに壮観。
口布で覆った口元をニンマリと釣り上げながら、どうもとばかりに手をひらひらとさせた。
けれどイルカといえば、なんとも気まずそうに視線を彷徨わせ、しまったと言わんばかりに俯いた。
へぇ。一応自覚はあるんだ。
カカシの眼光が鋭くなる中、書類にチェックを施す手が僅かに震えているように見えるのは気のせいではない。
先程より明らかにトーンダウンしたイルカは、心配そうに窺う男たちの手から書類を受け取ると、気もそぞそな様子で決済を進めていく。
とはいえ処理能力に定評のあるイルカだから、無駄に愛想を振りまかなければ並んでいた行列はあっという間にはけてしまうわけで。受付が終わった忍たちが遠巻きに二人を見守る中、カカシはゆっくりとイルカの前に立った。
「…お疲れ様です」
「どうも」
提出書類を求めないのは、カカシが任務帰りではないことを知っているからだ。
「えーっと…どうしてこちらに?」
けしてカカシと視線をあわせないイルカの顔には、やましいという文字がデカデカと書いてある。
当然だ。
イルカの足元には、男たちから貢がれたであろう贈り物が山のように積み重なっている。
ヒクリ。笑おうとして失敗した口元が、苛立ちとともに痙攣した。
「報告がなけりゃここに来ちゃいけないって決まりはないでしょ」
「まぁそうですけど…」
唇を尖らす表情が小憎たらしい。
頑なにこちらを見ない瞳も。
「今日は何時まで?」
「……っ、と…んじ……」
「は?」
「………じくら…かなぁ…」
ゴニョゴニョとごまかすイルカにカカシがますます不機嫌極まりない顔になる。
なんでも良いからはっきり言えよ。両端でイルカの同僚である受付忍が心のなかで突っ込んだ。
「ま、何時でもいいです。今夜先生の家にお邪魔しますから」
「え―――」
「そんな嫌そうな顔しないのっ」
ムカついて、額当てを指先でコツンと弾く。
「いって!」
まったく。ありがたくも里の誉れと讃えられた上忍の訪問を嫌がるやつがどこにいる。
底辺まで落ちた威光が悲しい。けれどそんな己を鼓舞し、後で迎えに行くからと言い捨てて返事も聞かずに背を向けた。
「…ほんっと頭きた」
待機所に戻る道すがら、怒り心頭のまま口をついて出た言葉に、すれ違った忍び達が怪訝そうに振り返る。
けれど触らぬ神になんとやらで、彼らはくわばらとばかりに肩をすくめるのだった。
そんな噂話を耳にしたのは、カカシが任務待機所の隅っこでうつらうつらとしていた時のことだ。
……天使ねぇ。
イチャパラ片手にぼんやりと受付の面々を思い浮かべてみるも、該当するくノ一など見つかるべくもない。
そもそも報告所には、一人を除いてむさ苦しい男ばかりが並んでいるのが常というものだ。
だいたいくノ一なんて、笑顔の裏に研ぎすませた鋭い牙を隠し持った悪魔のような女ばかりだ。そんな天使みたいに汚れなきくノ一がこの里にいるわけないでしょ。
紅あたりが聞けば、能面のように美しい顔で首筋にクナイを突き立てられるようなことを心のなかで呟きながら、カカシは手にしたイチャパラをパタリ閉じた。
その時は、眉唾ものだと気にもとめていなかったカカシだったが、本日再びそんな噂話を耳にして、やれやれとばかりに寝そべっていたソファの上で寝返りを打った。
どうやら会話はソファを挟んだ反対側から聞こえてきているらしい。
「あ〜、今日も可愛かったなぁ〜」
「だよなー。お疲れ様でした、なんてにっこり笑いながら言われると、任務の辛さなんて全部忘れちまうよ」
「俺なんて、大変な任務でしたね。お怪我はありませんか? ってめちゃくちゃ心配してくれてよ。思わずここがちょっと…なんて言って診てもらった」
「ってかお前それ、かすり傷じゃねーかっ!」
怪我は怪我だから嘘は付いてねぇという男が掲げた傷口を、チラリと顔に伏せたイチャパラの隙間から覗き見る。
あぁ、本当に恥ずかしくなるぐらいのかすり傷だ。
「痛いですか? なんて言って唇尖らしながらフーフーしてる顔がもうなんていうか、一言で言うと最高」
仮にも木の葉の里が誇る上忍待機室である。
それがかすり傷ごときでフーフーだなんて、アカデミーの子供じゃあるまいし。
色々なところで反吐が出るほどバカバカしい話にうんざりして、再び惰眠を貪ろうとした時である。
「今日は受付何時までなのかな」
「お前、木の葉の聖域荒らそうなんて言うんじゃないだろうな」
「飯の誘いぐらい構わねぇだろ」
「ダメに決まってんだろ。抜け駆けは許さねぇ」
「だってよぉ、最近元気ねぇじゃん、しっぽちゃん」
……ん?
何やら引っかかる単語に眉を寄せ、顔の上に伏せていたイチャパラを持ち上げた。
「だよなぁ…。俺も気にかかっててよ、なにかあったか聞いてみたんだけど、無理やり作った笑顔で何でもありませんなんて言うからさ」
「お前もかよ」
「何でもないって言われちゃうとこっちも踏み込んで聞きづれぇし」
「だよな…」
はぁ…。なんて、大の男が二人して溜息まみれの憂い声。
「悩みがあるなら相談にのりてぇ」
「相談にのるフリで一歩進んだおつきあいがしてぇ」
「おい、抜け駆け禁止だぞ」
「早いもん勝ちって言葉を知らねぇのかよ」
「くっそ、俺だってな…っ!」
「――うるさいな」
のそり。剣呑そのものの表情でソファから顔を出したカカシに、今まで呆けた顔でぼやいていた男二人が、上忍ならではの素早い動きで待機室扉まで飛び退る。
「カ、カカシッ!」
「お前、い、いたのかよっ」
「いちゃ悪い?」
気配を一切感じなかった。忍びだから当然といえば当然なのだが、里においてカカシほどそれが染み付いているものはいない。
動揺を隠しきれない様子であらぬ方向に視線を彷徨わせる同僚達の姿に、更に眉間のシワが深くなる。
「ねぇ、誰の話してたの?」
「え? い、いやその…」
常ならば、待機所で昼寝なんぞしていた奴に気遣いする必要もない。しかし、気分良くうたた寝していたところを起こされて、カカシはすこぶる機嫌が悪かった。
わけのわからない殺気に当てられて、同僚たちはしどろもどろになりながら吹き出した冷や汗を拭う。
「だ―…、誰だったかなぁ」
白々しくもそう言って、同僚の一人が慌てたように待機室の扉を開く。
「俺ちょっと用を思い出した」
「ちょ、待てよっ! そういや俺もこれから行かなきゃならねぇところがあったんだっ! またな、カカシっ!」
「おい――…」
身を乗り出すカカシから間合いをとるように後ずさり、脱兎のごとく飛び出していった同僚達の姿が待機所から跡形もなく消え失せる。
こんなところばかりは無駄に上忍と言うべきか。
残されたのはイチャパラ片手にソファから顔をだしたカカシと、やり取りを遠巻きに見ていた一人の男。
カカシの旧知の友であるアスマが呆れたようにタバコに口をつけ、フッと含んだ煙を吐き出した。
「いったい何なの?」
「さぁな」
「しっぽちゃんってあの人のことだよね?」
同僚たちの脂下がった顔つきと甘ったれた会話。何がフーフーしてもらっただよ馬鹿野郎。
「だいたい受付で何してんのよ、あの人っ!」
「…知るかよ」
想像するだけで腸が煮えくり返る思いに、知らずぶわりと全身から凶悪な殺気が漏れる。
苛立ちを押さえきれずにアスマに訴えると、髭面がめんどくせぇとばかりに思い切り顔を顰めた。
「ちょっと受付行ってくる」
「おう」
愛読書を乱暴にポーチにしまい込むと、鼻息荒く待機所を出て行くカカシの背中にアスマはぷかりとドーナツ状の紫煙を吐いた。
「ったく、めんどくせぇ」
思わずといった体で漏れた言葉は、ピシャリと閉じられた扉の音によってカカシの耳に入ることはなかった。
*****
腹立ちまぎれに開いた報告所の扉の前で、「お疲れ様でした」という張りのある声とともに飛び込んできた光景に、カカシは思わず絶句してしまった。
「…なによ、アレ」
一列に並んだ机の真ん中、そこが木の葉の受付嬢と言われているうみのイルカの定位置だ。
それが今日は異様な程の行列が出来ているじゃないか。
受付におけるイルカの人気は、はっきり言って異常である。
もちろん事務方として処理能力が高いのは当然のことなのだが、親切で嫌味のない笑顔やちょっとした心遣いが、凄惨な任務で疲弊しきって戻ってきた忍達に癒やしを与えるのだそうだ。
それはカカシも認めざるを得ない事実で、カカシ自身気がつかないうちにそんなイルカに惚れてしまっていたのだから、アレは天性の人たらしだと思わなければ自分を納得させられない。
だけど、だ。
誰それ構わず癒やされたのではたまったもんじゃないと思うのは狭量だろうか。
だいたいイルカもイルカだ。
今も書類に目を通しながらも満面の笑顔を振りまいているイルカの姿に、カカシは苦々しい思いで溜息を吐き出した。
アイドルの握手会かよ。
ふと口から飛び出そうになった悪態が実は芯をついていることに気がついて、カカシは思い切り顔を歪めた。
「お疲れ様です」
「あ〜、もうマジで疲れた」
褒めてとばかりにニヤつきながらそう言って、イルカに書類を差し出した男にムッとする。
嘘つけ。
確かに疲労の色は見られるが、カカシが過去に放り込まれた任務に比べたら天と地との差があることは歴然である。
なにしろその時のカカシといえば、チャクラ切れで里に返ってくるなり病院に緊急入院させられたほどだ。
「このランクの依頼を期限内に片付けて来られるなんて、さすがです」
「そ、そうかな?」
「はいっ!こんなややこしい依頼……上忍にお願いしてよかった」
ポツリと呟いたイルカの言葉に、真っ赤になった男が慌てたように目の前で両手を振り、恥ずかしいほどに鼻の下を伸ばした。
どんな依頼か知らないけど、やめてよね。
期限内に戻ってきたぐらいで褒められるのなら、オレだったら百万回褒めてもらわなきゃ割に合わない。
「こんなのたいしたことないってっ!」
「そんなことないですよ。今回は急な依頼で本当にまいっちまってて…上忍に請けてもらえるまで受付連中とどうしようかって青くなっていたんですから」
うつむき加減でそう言って、心底困っていたと訴える。その後チラリと視線を上げて、照れたままの男に向けて完璧な営業スマイル。
こりゃイチコロだなと思ったら、案の定男が鼻息を荒くした。
「また困ったときは言ってくれよなっ!」
「良いんですか?」
「当たり前よ。イルカ先生の頼みなら断れねぇって」
勢い余って手でも握りそうな男に頭を抱えた。
あぁ、もうアンタは一体何人の男を手玉にとれば気が済むってのよ。
あれでは八方美人と陰口を叩かれても言い逃れは出来ないというものだ。
「すごく、助かります」
「おうっ! それでよ、こんど…」
畳み掛けようとする男の前で、無情にもポンッっと受付完了のハンコが押される。
すかさず「次のかた」とイルカが声をかければ、前を押しのけるようにしてなにやら大きな紙袋が差し出された。
「お疲れ様です!」
「イルカ先生〜っ! これ、土産っ! 受け取ってくれよ」
「やだなぁ、上忍。先に報告書いただけますか?」
「あっ!そそそそうだなっ。馬鹿だな焦っちまって」
「ふふっ。土産は嬉しいですけれど、上忍が無事に戻ってこられたほうがもっと嬉しいです」
「………っ…イルカ先生―――ッ!!」
感極まってガバリと抱きつこうとした男を絶妙の角度で躱しつつ、右手はしっかり報告書を掠め取っている。
やるねぇイルカ先生なんて思っていたら、躱した瞬間イルカがこちらを認識したのが見えた。
「げっ!! ―――カ、カシさん…っ!」
何よ、そのバケモノでも見たような声は。
素っ頓狂に上がった声に、逸る気持ちで列に並んでいた同僚たちの顔が一気にこちらを振り返る。
ぎょっとした顔、青ざめた顔。それから嫉妬の入り混じった顔、顔、顔。
まさに壮観。
口布で覆った口元をニンマリと釣り上げながら、どうもとばかりに手をひらひらとさせた。
けれどイルカといえば、なんとも気まずそうに視線を彷徨わせ、しまったと言わんばかりに俯いた。
へぇ。一応自覚はあるんだ。
カカシの眼光が鋭くなる中、書類にチェックを施す手が僅かに震えているように見えるのは気のせいではない。
先程より明らかにトーンダウンしたイルカは、心配そうに窺う男たちの手から書類を受け取ると、気もそぞそな様子で決済を進めていく。
とはいえ処理能力に定評のあるイルカだから、無駄に愛想を振りまかなければ並んでいた行列はあっという間にはけてしまうわけで。受付が終わった忍たちが遠巻きに二人を見守る中、カカシはゆっくりとイルカの前に立った。
「…お疲れ様です」
「どうも」
提出書類を求めないのは、カカシが任務帰りではないことを知っているからだ。
「えーっと…どうしてこちらに?」
けしてカカシと視線をあわせないイルカの顔には、やましいという文字がデカデカと書いてある。
当然だ。
イルカの足元には、男たちから貢がれたであろう贈り物が山のように積み重なっている。
ヒクリ。笑おうとして失敗した口元が、苛立ちとともに痙攣した。
「報告がなけりゃここに来ちゃいけないって決まりはないでしょ」
「まぁそうですけど…」
唇を尖らす表情が小憎たらしい。
頑なにこちらを見ない瞳も。
「今日は何時まで?」
「……っ、と…んじ……」
「は?」
「………じくら…かなぁ…」
ゴニョゴニョとごまかすイルカにカカシがますます不機嫌極まりない顔になる。
なんでも良いからはっきり言えよ。両端でイルカの同僚である受付忍が心のなかで突っ込んだ。
「ま、何時でもいいです。今夜先生の家にお邪魔しますから」
「え―――」
「そんな嫌そうな顔しないのっ」
ムカついて、額当てを指先でコツンと弾く。
「いって!」
まったく。ありがたくも里の誉れと讃えられた上忍の訪問を嫌がるやつがどこにいる。
底辺まで落ちた威光が悲しい。けれどそんな己を鼓舞し、後で迎えに行くからと言い捨てて返事も聞かずに背を向けた。
「…ほんっと頭きた」
待機所に戻る道すがら、怒り心頭のまま口をついて出た言葉に、すれ違った忍び達が怪訝そうに振り返る。
けれど触らぬ神になんとやらで、彼らはくわばらとばかりに肩をすくめるのだった。
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