ゲートが開いてから、2,400米。
僅か数分で決まる勝負だ。
その年に産まれた何千頭もの内、たった一頭の頭上にしか輝かないダービー馬という名の栄冠。
生涯一度のチャンスの名前を「火の国ダービー」という。
数多の観衆が見守る中、華々しいファンファーレが高らかに鳴り響いた。
ガシャンという鈍い金属音と同時にゲートから飛び出してくる磨きぬかれた美しい馬体を横目に、カカシは隣で息を詰めて見守る男の手を握った。
それにすら気づかぬように、力いっぱい眼を見開いて食い入る様に見つめている。
まるで、駆け抜ける黄金の馬体と同じように歯を食いしばって。
そんな様子に少しだけ苦笑して、再び視線を緑まぶしい芝へと移した。
そうしてカカシは想起するのだ。
彼らと初めて出会ったあの日の事を。
*****
父親であるサクモに連れられて、彼の愛馬であったミナトが残した一粒種の仔馬を見に、火の国の外れにある生産牧場まで出かけたのは、カカシが大きなプロジェクトを成功した時だった。
ミナトはG1戦線を6勝した名馬だ。
優秀で、ずば抜けて速く、そして何よりも強い。
引退後は沢山の繁殖牝馬に恵まれて、種牡馬としてもその名を残すだろうと誰からも期待を込められていた。
だが、残念なことにその繁殖に難があり、結局たった一頭のみを残して早世してしまったのだ。
「なんでシンジケートを組まなかったのよ」
ボソリ。口にした言葉に振り返ったサクモが苦笑する。
【マリンファーム】と書かれた立て札に、陸地でしかも牧場でマリンも無いだろうと心の中で文句を言いながら、振り返ったサクモに冷めた視線を送った。
「なんでだろうね。・・・でも、結果としてそれが良かったんだよ」
悔やむ口調ではない。ただいつもと変わらず穏やかな口ぶりでそう返事をした父親に、鼻を鳴らす。
牧場の中に足を踏み入れて、カカシは眼下に広がる草原を見渡した。
流石に土地は広大だが、どちらかと言えばさびれた小さな牧場だ。
建物は古いし、設備だってけして整っているとは言いがたい。
「もう少し大きな牧場だったんだけどね」
「・・・・?」
「ここを管理していた人が事故で亡くなって、今はその息子さんが跡を継いでいるんだよ」
「へぇ」
興味なさげに相槌をうって、カカシは爪先で土を蹴った。
「サクモさーんッ!!!」
遠くから聞こえる声に顔を上げると、頭の上で髪を結んだ男が大きく手を振って駆けてくる。
薄汚れたオーバーオールに長靴。走りにくいのだろう、途中で何度も躓いては転びそうになっている姿がなんとも鈍臭そうだ。
段々と近づいてくるその姿がはっきりと見えるようになると、顔を横切る派手な傷痕があることに気がついた。
「・・・・・」
思わず自分の左眼をおさえ、指先で盛り上がった皮膚の感触を確かめる。
そんなカカシの様子に、サクモが優しく微笑んだ。
「やぁ、イルカくん」
「すみません、お待たせしてしまって」
ハァハァと息を切らせて走ってきた男が、膝に手をのせて肩で息をする。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」
「・・っ、いえ・・大事な馬主さんです・・・っから・・・」
「ははっ。イルカくんにそう言われると、なんだかこそばゆいね」
漸く息が整ったのだろう。ガバリと顔を上げた男が、顔の全部を口にしたみたいにして笑った。
「ようこそっ! マリンファームへ」
ーーーその瞬間。まるで撃ちぬかれたみたいに一瞬止まった心臓が、ドクドクと早鐘を打った。
「こんにちは」
「いらっしゃい、サクもさん・・・っと・・」
「息子のカカシだよ」
「あ、息子さんでしたか・・。初めまして、うみのイルカです」
「・・・・・・」
「カカシ?」
「・・・どーも」
どうして気の利いた挨拶一つ出来ないんだろう、と。自分の不甲斐なさに苛ついて、小さく舌打ちした。
「来て早々で悪いんだけど、ナルトはどこかな?」
「あー・・、さっき放牧から帰ってきたので・・・こちらです」
日に焼けた健康そうな顔がふにゃんと崩れるのが田舎くさくて、ただじっと凝視してしまう。
気づいたイルカが、照れくさそうに指先で鼻の頭を掻いた。
案内された厩舎の中は独特の臭いが充満していて、思わず鼻をヒクつかせてしまった。
どちらかというと嗅覚は敏感な方だ。
いろんなものが複雑に絡みあったその臭いは、慣れないカカシには不快だった。
「・・・・・」
自然にしかめた眉を見咎めたイルカは、視線を反らすと小さくため息をついて俯く。
カカシに限らず、都会からやって来た人に、自分と同じような感覚を望むことは無理だと、知っている。
だからカカシのそんな様子を気に病むことなんてない。
そう自分を慰めて馬房を覆っていた布をゆっくりと開いた。
「えーっと・・・寝てますね・・・ふふっ」
目の前にいるのは、まだ赤ん坊と言っていいほどの仔馬。
慣れているのか人がいてもピクリとも動かずにスピスピと鼻を鳴らしている。
「ミナトと一緒の栗毛だね」
「顔もよく似てますよ。太陽を浴びるとキラキラ黄金色に光って、とても綺麗なんです」
「へぇ。見てみたいな」
「・・・最近は夜に放牧してるんで、この時間帯は・・・」
「あぁ、気を使わないで」
「すみません」
しょんぼりとするイルカの肩を、サクモが笑いながら叩いた。
「いいよ。君がこうしてナルトの面倒を見てくれてるだけでありがたいんだから」
「そんなっ! 俺の方こそ任せてくださって、感謝してます。・・・ナルトの成長は、俺の両親も楽しみにしていると思いますから・・・」
「・・・そうだね」
そう呟いて、ミナトは今はもういない友人達の笑顔を思い返す。
仔馬を優しい瞳で見つめる青年の姿が、悼ましくもあり愛おしかった。
「そうそう。イルカ君にも伝えておかなくちゃね」
「え?」
「ナルトの所有権を、息子に譲ろうと思っているんだ」
「・・・カカシさんに・・・?」
「父さん、俺は・・・」
「ーーーナルトを頼むよ、カカシ」
そう言って笑った父親の顔を、今でもカカシは鮮明に覚えている。
サクモは沢山の馬を所有していたけれど、カカシは競馬には少しの興味もなかった。
むしろそんな馬を譲られることすら迷惑だと思っているぐらいなのだが・・・。
ニコリとわらうサクモに苦虫を潰したような顔をして、溜息を付いた。
「・・わかったよ」
「ん」
本当に大丈夫なのだろうかと、不安気な視線を送るイルカに居心地が悪くなる。
カカシは曖昧に頷いくと、とにかくこの場所から離れたくて踵を返した。
*****
「毎日大変だーね」
急に背後からかけられた声に、ギョッとして振り返った。
夜間に放牧していた馬達を馬房へと漸く入れ終わり、逆に厩舎に居た馬を放牧に出して一息ついた時のことだ。
背後に佇む男・・・はたけカカシが、そんなイルカの後ろでボンヤリと立っていた。
「・・カカシさん・・? ・・あの・・おはようございます・・」
「オハヨウゴザイマス」
まだ早朝と呼べる時間だ。
社会人であるカカシが、平日のこんな時間にここを訪れるなど想像もしていなかった。
踏み入れた厩舎の中で、やはり僅かながらに眉を寄せるカカシの表情に俯き、イルカはナルトの首筋を撫ぜた。
「・・・何か御用でしょうか?」
「用がなきゃ来ちゃだめですか?」
「いえ・・・そういうわけでは・・・」
ぐるりと厩舎を見渡して、興味なさそうにそう言ったカカシが押し黙ったイルカへ視線をやった。
「邪魔しないから、続けて」
「え・・」
「お仕事」
どうぞと促され、仕方なくタオルを握る。
盛大に砂浴びでもしたのだろう、身体にこびりついた草や泥の汚れを丁寧に拭きとってやる。
馬体に触れて体温を測り、放牧中の怪我がないかをしっかりと確認し、最後に濡れたタオルで顔を拭いたら終了だ。
「わぁっ! ちょっと、静かにしてろって」
気持ち良いのか、馬面を擦りつけて甘えるナルトに笑って、イルカもその首筋に顔を埋めた。
語りかけ、優しく撫ぜて笑って。
その後は、早朝からの放牧に出て空いた馬房の掃除をするべく箒を手にする。
汚れた部分を捨てて、ボロをとり、新しい寝藁を引いてやる。
それだけでも重労働で、自然に噴き出した汗が額から垂れた。
せっせと働くイルカの気を引こうと、服を噛んだりするナルトを宥め、叱り。
でも結局はあの顔全体を口みたいにする笑顔で応えてやる。
そんな姿に、何故だか意味もなくモヤモヤとした。
「・・・・・」
カツンっとわざと音をたて、鳴らした靴音はそんな騒がしい馬房の中で一瞬の静寂を生んだ。
「・・・なにか・・?」
今の今まで楽しそうに笑っていた顔が、カカシを振り返った瞬間、緊張に強張る。
こんな天真爛漫そうな男に警戒されてるという不快感に、自然に見つめる視線が不穏さを増した。
「別に」
「あ、あの・・よかったら触ってみますか・・?」
「は?」
「ナルトに。今ならコイツも機嫌が良いので」
「何でオレが馬の機嫌を窺ってまで触らなきゃいけないのよ」
「・・・・・」
ごちるようにそう言い放ってから、相手の黙りこむ姿に失敗したことを知る。
きっと、親切心からそう言ってくれたのに、一体自分は何をやっているのだろうか。
こんな馬鹿なことを言って構って欲しいなんて、まるでこの仔馬と同じじゃないかと。
イルカにじゃれつく仔馬を腹立たしく見つめながら、自己嫌悪に盛大な溜息を付いた。
「・・・・」
その溜息一つで、更に気まずい雰囲気がその場を包む。
お互いに言葉を交わさせないまま、イルカが強張った表情で再び馬房の掃除を始めた。
そんな姿に眉を寄せても、ただ手持ち無沙汰に佇みながら彼を見つめることしか出来ない。
カカシは拳を握りしめて小さく舌打ちした。
こんな雰囲気にしたかったわけじゃない。
だけどどうやって言葉をかけて良いのか解らずに、ただ当惑して苛立つだけだ。
だってもう、囚われてしまっているのだから。
*****
ふーっと息を吐き出して、イルカは手に持っていたブラシを馬体に沿わせた。
あの後も、カカシはひょっこりと現れては厩舎の中や牧場を見学し、またふいっと帰ってしまう。
別に馬のことなんか全く好きそうでもなさそうだし、厩舎に来るといつも少しだけ眉をしかめる。
「・・・やっぱ臭いかな・・」
腕を自分の鼻に持ってきて、スンっと臭いを嗅いだ。
もう染み付いてしまっているから自分では分からないが、きっとカカシには不快な臭いなのだろう。
だって、あの人は・・・。
そうやって、いつもふらりとやってくる男を思い浮かべた。
キラキラと輝く銀髪。のんびりとした話し方。
顔だって、左眼に傷はあるものの、それが何だか精悍に見えてビックリするぐらい綺麗だ。
「それに比べて」
泥だらけの、薄汚れてくたびれた服を見やって溜息をついた。
馬の世話をするのだから、作業服なのは当然だ。
だけど・・・。
「・・汚いって、思われてるんだよな。きっと・・・」
真新しく、綺麗にプレスされた服を着た姿を思い浮かべ、ブルブルと左右に頭を振る。
自分とカカシは全く違う。
住む世界も、生きる場所だって。
牧場の仕事は好きだし、馬を育てることに誇りだって持ってる。
自分を卑下するつもりなんて全く無いけれど、カカシがここへ来て不快な顔をするたびに何故か胸が傷んだ。
ブルルッと心配気に鼻を鳴らすナルトに気づいて首を撫ぜてやりながら。
「なんだ? ・・・大丈夫だよ」
ブラッシングの手を休めて、そう呟く。
両親を事故でなくして、借金返済のために飼っていた馬の殆どを手放した。
手元に残った僅かな馬と、両親が残してくれた小さな牧場を精一杯守ろうとして。
それでもどうするべきかわからなくて途方にくれていた時に、両親の友人だというだけで名馬ミナトの一粒種であるナルトを任せてくれたのがサクモだった。
優しくて、穏やかで。
天涯孤独になったイルカを安心させてくれた人。
イルカはサクモがここを訪れてくれるのをいつも楽しみにしていたのだ。
『カカシは無愛想だけどね。照れてるだけで、きっとイルカくんとは気が合うと思うんだよ』
一人さっさと厩舎を後にしたカカシを見やって、サクモは少し困ったように笑った。
だけど何度顔を合わせても、いつも不機嫌そうなカカシとは打ち解けることが出来なくて。
「・・・・・」
手に持ったブラシに力が入る。
あの日初めてカカシを見た時は、サクモの若いころを覗き見たようで本当に吃驚した。
同じように、キラキラとしてて、格好良くて。
・・・けれど、同じ顔なのに父親であるサクモと印象は全く違った。
「・・・・・・」
厩舎を訪れてはナルトを見るわけでもなく、カカシは退屈そうに周りを見渡し不愉快そうな顔をしていた。
きっと父親に言われて、嫌々ながらもここへ来ているのだろう。
もし、カカシがナルトを手放すなんて言い出したら・・・。
「だめだッ!」
浮かんできた考えを吹き飛ばそうと、パチンと両頬を叩く。
ナルトを可愛いと思ってもらえるように、もっとちゃんと世話をしなくちゃいけない。
そして、この牧場のことも好きになってもらいたい。
サクモがイルカに接するように、カカシにも・・・。
そう思いやって、ハタと手を止める。
俺は今、カカシにどう接して欲しいと願ったのだろう。
「・・何考えてんだ、俺は」
思わず口に出して呟いてしまう。
ただの馬主と生産牧場の関係だ。
そりゃ何事も円滑な関係を持つのが一番いいに決まってる。
だからそれ以上なんて、望むほうがどうかしている・・・。
ギュッと唇を噛み締めて首を振った。
早く手入れをしろと強請るナルトを宥めながら、イルカは再び忙しく手を動かすのだった。
*****
「なんだ、その顔。めんどくせぇ」
「んー・・」
寝転んだソファーの上。
せっかくの高級なスーツも皺になることすら構わない。
そもそもそんなことを気にするような男でもないし、スーツの一着や二着ダメになっても気にも止めやしないだろう。
だらしない姿を晒す友人に、トレードマークとも言えるタバコを咥え、アスマが溜息とともに紫煙を吐き出す。
「精彩ねぇヤローの顔なんて見たくもねぇ。さっさと帰れ」
「相変わらず友達甲斐無いねぇ・・・」
「友達」
思わぬ単語にハッっと声をあげて、鼻を鳴らした。
「だいたいこんな時間にどうした」
寝起きの悪い、遅刻常習犯な男だ。
こんな早朝からオフィスに押しかけてくるなんて、珍しいことこの上ない。
「徹夜か?」
「まさか」
「だろーな」
「良いでしょ。フレックスなんだから」
「お前はそうでも俺は違うんだよ」
「役員のくせに」
「・・・役員でも俺はお前と違ってちゃんと仕事してんだ」
「オレだって働いてるよ」
言いながら欠伸をする自称友人に、呆れを通り越して蔑みの視線すら向けてアスマは向かいのソファにどかりと腰をおろした。
「で? 何か話があってきたんだろ? 俺は忙しい、手短に話せ」
「んー・・・、お前のところって確か牧場だったよなぁって思ってさ」
「んぁ? 仕事の話じゃないのか。・・・お前、俺がオヤジのとこから飛び出してきたの知ってて聞いてんだろうな」
「あぁ、そうだっけ? まぁ良いじゃない」
相変わらず話の読めない男だ。
イライラとしながら再びタバコに火をつけると、眠たそうに瞼を下げる友人に続きを促す。
「うみのイルカって人・・・知ってる?」
「・・・うみの・・・? あー、前にオヤジのところで働いてた」
確か独立したはずだが。
さっさと父親の元から離れたアスマにしてみれば、ちょろちょろと自分の後をついて回っていた子供の姿しか記憶に無い。
そういやその後・・・と、口にしようとして、何やら不穏な空気を察してタバコを灰皿に押し付ける。
見れば何かを探るような視線。
「イルカがどうかしたか?」
「ーーー別に。どんな人かと思って」
「んなこと聞いてどうすんだよ」
「良いじゃない、聞くぐらい」
「めんどくせーことになるなら言わねぇ」
「なによ、めんどくさいって」
いたく気分を害したらしい。
纏っていた空気が一瞬にして冷たくなった。
「お前に関わりなんてないだろ」
接点など無いはずだと言おうとして、彼の父親が大馬主だと思い当たる。
たしか猿飛の牧場にも数頭預けられていた。
「なんだ、イルカに会ったのか?」
「・・・・・」
それには答えずに、ピクリと上がる眉だけで返事を返す。
「あの人、いつもあんな感じ?」
「あんな感じってどんな感じだよ。・・・まぁ、いつもニコニコしてて元気なヤツだけどな。うちに出入りしてた業者や馬主達にも愛想が良くて可愛いって評判・・・」
「・・・愛想が良い・・?」
お前と違ってと続けようとして、眼の前の男が何度もボソボソとなにやら呟く声に首を傾げた。
「カカシ」
「なに?」
「気になってんのか?」
「何いってんの、この髭」
「へぇ・・。おっもしれぇこともあるもんだな、他人に興味ねぇお前が」
「うるさいなー」
にわかに焦りだす友人に、腹の中で笑って。
突っ込もうと思ったところで時間を伝えてきた秘書に手を上げて頷いた。
「スマン。そろそろ行くわ」
「ん」
「おめぇもさっさと仕事行けよ」
「んー」
じゃあなと口にして、相変わらず打っても響かない返事をする友人を振り返る。
なにやら考えこんでるようだが、彼がこうして誰かに興味をもったことが珍しくて、これはいい話の種が出来たとほくそ笑んだ。
「今夜はいい酒が呑めそうだ」
「仕事が先ですよ」
「へいへい」
咎める秘書に頷きながらも、仕事の後の一杯を思い浮かべて自然と鼻歌が漏れた。
*****
その日は何だかとても気分が乗らなくて、ふとイルカの笑顔が見たくなった。
マリンファームと書かれた看板の前でチラリと時計を見つめて、どうしようかと暫く逡巡してみる。
まだ日は沈みきってはいない。
この時間ならまだイルカは牧場にいるはずだ。
足繁く通っているおかげで、何となく分かるようになったスケジュールに一人苦笑してしまう。
笑顔が見たいなどと思っても、愛想が良いという噂のイルカが自分に笑いかけたことなんて一度もない。
全く歓迎されてもいないのに勝手にやってくるカカシを、イルカはなんと思っていることだろう。
「さて・・・」
少し高くなった敷居の牧場へ足を踏み入れ、もう行き慣れた放牧地を目指しカカシは足早に歩き始めた。
思惑通り、目当ての人物はすぐに見つかった。
今日もいつもの仔馬を引っ張って、今から夜間放牧とかいうのに出かけるところなのだろう。
目の前に立つカカシを見つけると、驚いたように目を見開いて、それからペコリと頭を下げた。
初めて見た時のような笑顔はなりをひそめ、強張った表情で警戒心も露わなその姿に、落ち込んできた気持ちも更に沈み込むようだ。
「お邪魔してます」
「・・いえ・・・」
「放牧ってやつですか?」
なにかおかしなことを聞いたのだろうか。
思い切って声を掛けてみると、吃驚したように眼が真ん丸になった。
「あ、はい」
「一緒に行っても?」
「え?」
「だめ?」
断られるのを承知で声を掛けてみたが、躊躇いながらもどうぞと返事が返ってくる。
並んで歩きながら、チラリと横目でみた顔はやっぱり強張っていて、失敗したと思い知る。
やはり来るべきじゃなかった。
そんなことを考えていたら、隣でイルカが声をあげた。
「わっ、ちょっと落ち着けっ」
「え?」
「ーーいえ、ナルトがっ・・っと、おいっ」
放牧地近くになって、浮足立った仔馬の歩様がせわしなくなる。
それを宥めてイルカが手綱を引っ張っていた。
「こーら、まだ到着してねぇだろっ」
ブルルッと鼻を鳴らす仔馬に笑って、鼻先でつつくその馬面を指先が撫ぜる。
そんな甘えた姿に、腹の中からこみ上げる何かが渦を巻いた。
「・・・・っ」
だから、仔馬がこちらに興味を持つようにわざと少しだけ近づいて。
遊んでもらおうと、近寄ってきた鼻先を邪険に振り払った。
その瞬間。
「ナルトッ!!」
「ーーーーーッ!!」
驚いて立ち上がったナルトの前足が、眼の前を掠めた。
避けようとしてドサリと尻もちをついたカカシを庇い、イルカが手綱を操作して落ち着かせる。
「大丈夫ですかッ!?」
「・・・えぇ・・」
座り込んだままそう答え、気恥ずかしさに顔を背ける。
本当に、何をやっているのかと自分が嫌になる。
気がつけば、柵を外し手綱を解いて放牧したイルカが、蒼白な表情でカカシの眼の前に立っていた。
「ーー怪我はありませんか?」
「まぁ、なんとか」
心配する声に少しだけ心が浮き立って、それでも格好悪さからイルカと視線を合わさずに答えた。
だけどその後に続いた言葉が、不用意な自分の行動を糾弾する。
「馬は臆病なんです! ・・・だからっ」
「ーーーだから、なに?」
「・・・怯えさせたり、しないで下さい・・・」
「・・・・・」
黙りこんだカカシに、イルカが唇を噛んだ。
自分の失態だ。馬に慣れていないカカシをこんなに傍にいさせるなんて。
万が一、大怪我をしていたらと思うと背筋がゾッする。
「悪かったよ」
座り込んだままボソリと呟くカカシに手を差し伸べて、高そうな服が砂まみれなのに気づいた。
「あ・・あの・・・服が汚れて・・これ使って下さいッ」
「いい」
自己嫌悪にいたたまれなくて、バンバンと芝が絡みついた服を叩きながら立ち上がる。
タオルを差し出す手を勢い良くはたいた瞬間、イルカが酷く傷ついた顔をした事に気づいた。
「・・・なに?」
「このタオル・・・綺麗です」
「は?」
ちゃんと洗ってある物だ。
汚くない。
汚いなんて、絶対に思ってほしくない。
だから。
不快そうに眉をしかめるカカシに、泣きそうな思いでタオルを差し出しながらそう口にしたのに。
そんな思いも届かぬまま、カカシが自分の手で服の汚れを払い、イルカに背を向ける。
「ーーーーっ!」
「帰ります」
「あ、あのッ! カカシさんっ」
「・・・・・・」
「・・・気を悪くされましたか・・・?」
「・・どうして・・?」
「え・・・?」
逆に問われて、すうっと冷える空気にゴクリと息を飲む。
何時までたってもカカシは無表情で、イルカには何を問われているのかさっぱりわからない。
「どうしてあなたはいつもそんな顔をしているの?」
「顔・・・?」
顔がどうしたというのだろう。
意味が解らなくて狼狽えたまま、イルカはタオルを握りしめた。
ただ、このまま帰ってほしくなくて声をかけただけなのに。
まるで何かを探るような眼をしたカカシが、諦めたようにため息を付いて、ふいっと顔を背けた。
だんだんと遠ざかっていく背中に何も言えぬまま、イルカは暫く茫然としてその場に立ち尽くしていた。
*****
「ちょっといい?」
扉を叩いて。
答えを聞かぬまま開いた扉の先で、珍しくアルコールを口にする父親を見つけて首を傾げた。
「父さんが呑むなんて珍しいね」
「・・父さんにも呑みたい時があるんだよ」
そう言って笑うサクモが、カカシにもどうかとグラスを差し出した。
「オレはいい」
断って、カラリと音をたてる黄金色の液体をぼんやりと見つめる。
アルコールが絡んだそれは、光を受けてツヤツヤと輝いていた。
「何か話があるんだろう?」
少しだけアルコールが回っているのだろうか、サクモはいつもより上機嫌のようだ。
この機を逃すことは出来ないだろうと、カカシはソファに腰掛けて口を開いた。
「ナルトのことだけど」
「うん?」
「やっぱり父さんが所有するべきだと思うんだ。オレは競馬なんかに興味はないし、もちろん馬にも。あれから何度かあそこに通ってみたけど、やっぱり・・」
「通ったって、イルカくんの所に?」
「・・・ん」
カラリと、グラスの中で溶けた氷が黄金の海に沈む。
暫くその様子を楽しんだ後、サクモが小さく頷いた。
「そうか・・・。残念だね」
呟いた言葉に、この話はこれで終わりだと立ち上がりかけた瞬間。
独り言のようにサクモが口を開いた。
「・・・今日は、うみのさんの命日でね」
「え・・?」
「彼らとは、良い友人だったんだ。ミナトを種付けに運び終わった帰りに事故に遭ったんだよ」
「・・・・・」
「ちょうど、三代目・・あぁ、猿飛さんのところだけど、知ってるよね」
「うん」
「その三代目のところから独立したばかりで、これからって時だったのに・・・」
悔やむようにそう呟く。
けして上機嫌なんかじゃない。
いつもあまり呑まない酒を口にするのは、そんな日だったからなのだと知って、カカシは黙って先を促した。
「ご両親の残された牧場を立てなおそうとするイルカくんが健気でね。応援するつもりでナルトを彼に預けることにしたんだ」
「・・・・・」
そして、それは正解だったと思う。
確かにあの牧場は設備も古くて規模も小さいが、手をかけて育てられた馬たちは健康そのものだしなにより人懐っこい。
それはやはりうみのイルカという懐の温かな人物の人柄がなし得るものだと、サクモは確信していた。
「カカシは何でも自分でできるから、人を寄せ付けないところがあるだろ? イルカくんとは歳も近いし、彼みたいな友人が出来ると良いと思ったんだけどね」
そういう顔は少しだけ寂しげだ。
グラスに唇をつけて少しだけ口に含み、強いアルコールが喉を焼きながら流れていくのを楽しんだ。
「あの人、オレには笑いかけもしないよ」
ごちるようにそう言って、頭を掻いた。
多分、いや、間違いなく嫌われている。
溜息混じりにそう呟いた言葉に、サクモが微笑む。
「カカシは笑いかけたのかい?」
「・・・・え・・?」
そう問いかけられて、サクモが含み笑いながら首を傾げるのに目を見開いた。
自分は彼に、どんな顔をしていただろう。
そう思って不意に気づく。
イルカが自分を見るたびに、やけに強張った表情をしていたことを。
「ま、ナルトのことはカカシがそう言うなら・・・」
「待ってっ!」
そう言い放って、慌てた様に立ち上がるカカシがそのまま部屋を飛び出していく。
グラスの中で、少なくなった液体を呑み干して。
角が取れて丸くなった氷を見つめて小さく笑う。
「素直じゃないのは誰に似たのやら」
遠ざかっていく派手なエンジン音に、慌てて部屋を後にした息子の顔を思い出し、そう呟いた。
*****
「今日も星が綺麗だなー」
呟く言葉に、隣でナルトがブルルッと鼻を鳴らして相槌を打った。
少し肌寒くなった夜、ぼんやりと芝の上に寝転んで夜空を見上げた。
一人になって気づいたことがある。
どれだけ泣いて叫んでのたうち回っても、見上げる空は変わらず同じなのだ、と。
ちっぽけな自分を思い知ったあの日のことを、イルカは今でも鮮明に思い出せる。
不幸な事故だった。
ただ一言、それだけだ。
名馬と讃えられたミナトの種付けは、両親の希望だった。
だけど、身籠った牝馬のクシナも出産後程なくして死んでしまった。
残ったのは数頭の仔馬とナルト、そしてこの牧場、ただそれだけ・・・。
「・・・・・」
瞳に映る星空が、ぼやけてその輪郭をなくす。
伝うように流れる涙をぐいっと拭って、鼻先を擦りつけてきたナルトを撫ぜた。
「メソメソしちまってごめんな」
今日だけだからと小さく呟く声を聞き、勇気づけるようにナルトがイルカの肩を押す。
「イルカさん?」
不意に聞こえてきた声に、寝転がっていた芝生から起き上がって視線を向けた。
その先には、月明かりに照らされてキラキラと輝く銀髪。
逆光で表情がみえなくて、思わず身を乗り出した。
「・・サク・・・えっ・・カ、カカシさん・・?」
「家にも、厩舎にもいないから・・・探しました」
駆け寄ってくる吐息が、僅かだが乱れている。
牧場にしては狭いとはいえ、広大な土地だ。そんなに探しまわってくれたのだろうか?
「・・すみません・・・今日は・・」
「あー・・その・・・ご両親の・・・」
「あぁ、ご存知でしたか。・・・今日だけは、一人で部屋にいたくなくて・・」
子供みたいですよね。と言って、無理に笑顔を作るイルカが切なくて、傍まで近づいて抱き寄せた。
驚いて見上げた瞳は真ん丸で、カカシの行動の真意を図りかねて腕のなかで何度もぱちぱちと瞬きをする。
「あ・・、あの。汚れます」
出した言葉はまるでトンチンカンだったから、思わず笑ってしまった。
「俺、こんなだし」
寝転がっていたことでついた芝を気にして離れようとするイルカを、有無を言わせず再度抱きしめる。
「汚くないです」
「え・・・?」
「汚いなんて思ってませんよ。・・・っというか、この間はスミマセンでした」
「・・・あの・・」
「あんまりにも自分が格好悪くて」
「格好わるい?」
カカシの言葉にキョトンとする。
格好悪いなんていう言葉が最も当てはまらない男だ。
こうして眼の間で見れば見るほど、その整った顔に魅入ってしまうというのに。
「その・・。誰にでも愛想が良いって噂のあなたが、オレには笑いかけないのに勝手にイライラしてました」
あいつにも悪いことをしたなと、ナルトを見やって言いながら、照れくさそうに破顔する。
「・・・えっと・・・」
「あー・・つまり」
手入れされた指先に、顎をとらえて上向かされる。
触れる唇の柔らかさを感じる前に驚いて。
見開いたままの視線の先で、カカシの色違いの瞳がゆっくりと弧を描いた。
「眼は閉じて」
「え? あ、はい」
耳元で囁かれ、ギュッと固く閉じた瞬間、唇に温かいものが触れた。
「わっ!!」
思い切り声をあげて離れてみれば、同じように驚いた顔のカカシが照れくさそうに眉を下げる。
「あ・・・す、すみません・・ビックリして・・・」
「いえ」
妙にドキドキと音をたてる胸の鼓動が、今にも聞こえてきそうだ。
まだ抱きしめられたままの身体は、意識するだけで自然と体温があがってくる。
恐る恐る見上げてみれば、同じように上気した顔のカカシの表情に少しだけ安心した。
「・・・・・・」
大きな手が頬を滑り、ゆっくりと引き寄せられる。
突き出すようになった唇に再び触れられた時、遠くでナルトの嘶きが聞こえた。
*****
ゲートが開いてから、2,400米。
僅か数分で決まる勝負だ。
その年に生まれた何千頭の中から、選びぬかれたたった18頭の内、ナルトは中団から後方の4番目。
残り200米は、最後の直線コースだ。
眼の前に開けた内側を狙って、一直線に駆け上がってくるのは黄金色に輝く栗毛の馬体。
ナルトーーー。
歓声がまるで巨大な渦のようだ。
必死に声をあげるイルカを抱き寄せて、涙でめちゃくちゃになった顔にキスをした。
そうして、二人で共に。
先頭でゴールを駆け抜ける瞬間を、瞳に焼き付けるーーー。
僅か数分で決まる勝負だ。
その年に産まれた何千頭もの内、たった一頭の頭上にしか輝かないダービー馬という名の栄冠。
生涯一度のチャンスの名前を「火の国ダービー」という。
数多の観衆が見守る中、華々しいファンファーレが高らかに鳴り響いた。
ガシャンという鈍い金属音と同時にゲートから飛び出してくる磨きぬかれた美しい馬体を横目に、カカシは隣で息を詰めて見守る男の手を握った。
それにすら気づかぬように、力いっぱい眼を見開いて食い入る様に見つめている。
まるで、駆け抜ける黄金の馬体と同じように歯を食いしばって。
そんな様子に少しだけ苦笑して、再び視線を緑まぶしい芝へと移した。
そうしてカカシは想起するのだ。
彼らと初めて出会ったあの日の事を。
*****
父親であるサクモに連れられて、彼の愛馬であったミナトが残した一粒種の仔馬を見に、火の国の外れにある生産牧場まで出かけたのは、カカシが大きなプロジェクトを成功した時だった。
ミナトはG1戦線を6勝した名馬だ。
優秀で、ずば抜けて速く、そして何よりも強い。
引退後は沢山の繁殖牝馬に恵まれて、種牡馬としてもその名を残すだろうと誰からも期待を込められていた。
だが、残念なことにその繁殖に難があり、結局たった一頭のみを残して早世してしまったのだ。
「なんでシンジケートを組まなかったのよ」
ボソリ。口にした言葉に振り返ったサクモが苦笑する。
【マリンファーム】と書かれた立て札に、陸地でしかも牧場でマリンも無いだろうと心の中で文句を言いながら、振り返ったサクモに冷めた視線を送った。
「なんでだろうね。・・・でも、結果としてそれが良かったんだよ」
悔やむ口調ではない。ただいつもと変わらず穏やかな口ぶりでそう返事をした父親に、鼻を鳴らす。
牧場の中に足を踏み入れて、カカシは眼下に広がる草原を見渡した。
流石に土地は広大だが、どちらかと言えばさびれた小さな牧場だ。
建物は古いし、設備だってけして整っているとは言いがたい。
「もう少し大きな牧場だったんだけどね」
「・・・・?」
「ここを管理していた人が事故で亡くなって、今はその息子さんが跡を継いでいるんだよ」
「へぇ」
興味なさげに相槌をうって、カカシは爪先で土を蹴った。
「サクモさーんッ!!!」
遠くから聞こえる声に顔を上げると、頭の上で髪を結んだ男が大きく手を振って駆けてくる。
薄汚れたオーバーオールに長靴。走りにくいのだろう、途中で何度も躓いては転びそうになっている姿がなんとも鈍臭そうだ。
段々と近づいてくるその姿がはっきりと見えるようになると、顔を横切る派手な傷痕があることに気がついた。
「・・・・・」
思わず自分の左眼をおさえ、指先で盛り上がった皮膚の感触を確かめる。
そんなカカシの様子に、サクモが優しく微笑んだ。
「やぁ、イルカくん」
「すみません、お待たせしてしまって」
ハァハァと息を切らせて走ってきた男が、膝に手をのせて肩で息をする。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」
「・・っ、いえ・・大事な馬主さんです・・・っから・・・」
「ははっ。イルカくんにそう言われると、なんだかこそばゆいね」
漸く息が整ったのだろう。ガバリと顔を上げた男が、顔の全部を口にしたみたいにして笑った。
「ようこそっ! マリンファームへ」
ーーーその瞬間。まるで撃ちぬかれたみたいに一瞬止まった心臓が、ドクドクと早鐘を打った。
「こんにちは」
「いらっしゃい、サクもさん・・・っと・・」
「息子のカカシだよ」
「あ、息子さんでしたか・・。初めまして、うみのイルカです」
「・・・・・・」
「カカシ?」
「・・・どーも」
どうして気の利いた挨拶一つ出来ないんだろう、と。自分の不甲斐なさに苛ついて、小さく舌打ちした。
「来て早々で悪いんだけど、ナルトはどこかな?」
「あー・・、さっき放牧から帰ってきたので・・・こちらです」
日に焼けた健康そうな顔がふにゃんと崩れるのが田舎くさくて、ただじっと凝視してしまう。
気づいたイルカが、照れくさそうに指先で鼻の頭を掻いた。
案内された厩舎の中は独特の臭いが充満していて、思わず鼻をヒクつかせてしまった。
どちらかというと嗅覚は敏感な方だ。
いろんなものが複雑に絡みあったその臭いは、慣れないカカシには不快だった。
「・・・・・」
自然にしかめた眉を見咎めたイルカは、視線を反らすと小さくため息をついて俯く。
カカシに限らず、都会からやって来た人に、自分と同じような感覚を望むことは無理だと、知っている。
だからカカシのそんな様子を気に病むことなんてない。
そう自分を慰めて馬房を覆っていた布をゆっくりと開いた。
「えーっと・・・寝てますね・・・ふふっ」
目の前にいるのは、まだ赤ん坊と言っていいほどの仔馬。
慣れているのか人がいてもピクリとも動かずにスピスピと鼻を鳴らしている。
「ミナトと一緒の栗毛だね」
「顔もよく似てますよ。太陽を浴びるとキラキラ黄金色に光って、とても綺麗なんです」
「へぇ。見てみたいな」
「・・・最近は夜に放牧してるんで、この時間帯は・・・」
「あぁ、気を使わないで」
「すみません」
しょんぼりとするイルカの肩を、サクモが笑いながら叩いた。
「いいよ。君がこうしてナルトの面倒を見てくれてるだけでありがたいんだから」
「そんなっ! 俺の方こそ任せてくださって、感謝してます。・・・ナルトの成長は、俺の両親も楽しみにしていると思いますから・・・」
「・・・そうだね」
そう呟いて、ミナトは今はもういない友人達の笑顔を思い返す。
仔馬を優しい瞳で見つめる青年の姿が、悼ましくもあり愛おしかった。
「そうそう。イルカ君にも伝えておかなくちゃね」
「え?」
「ナルトの所有権を、息子に譲ろうと思っているんだ」
「・・・カカシさんに・・・?」
「父さん、俺は・・・」
「ーーーナルトを頼むよ、カカシ」
そう言って笑った父親の顔を、今でもカカシは鮮明に覚えている。
サクモは沢山の馬を所有していたけれど、カカシは競馬には少しの興味もなかった。
むしろそんな馬を譲られることすら迷惑だと思っているぐらいなのだが・・・。
ニコリとわらうサクモに苦虫を潰したような顔をして、溜息を付いた。
「・・わかったよ」
「ん」
本当に大丈夫なのだろうかと、不安気な視線を送るイルカに居心地が悪くなる。
カカシは曖昧に頷いくと、とにかくこの場所から離れたくて踵を返した。
*****
「毎日大変だーね」
急に背後からかけられた声に、ギョッとして振り返った。
夜間に放牧していた馬達を馬房へと漸く入れ終わり、逆に厩舎に居た馬を放牧に出して一息ついた時のことだ。
背後に佇む男・・・はたけカカシが、そんなイルカの後ろでボンヤリと立っていた。
「・・カカシさん・・? ・・あの・・おはようございます・・」
「オハヨウゴザイマス」
まだ早朝と呼べる時間だ。
社会人であるカカシが、平日のこんな時間にここを訪れるなど想像もしていなかった。
踏み入れた厩舎の中で、やはり僅かながらに眉を寄せるカカシの表情に俯き、イルカはナルトの首筋を撫ぜた。
「・・・何か御用でしょうか?」
「用がなきゃ来ちゃだめですか?」
「いえ・・・そういうわけでは・・・」
ぐるりと厩舎を見渡して、興味なさそうにそう言ったカカシが押し黙ったイルカへ視線をやった。
「邪魔しないから、続けて」
「え・・」
「お仕事」
どうぞと促され、仕方なくタオルを握る。
盛大に砂浴びでもしたのだろう、身体にこびりついた草や泥の汚れを丁寧に拭きとってやる。
馬体に触れて体温を測り、放牧中の怪我がないかをしっかりと確認し、最後に濡れたタオルで顔を拭いたら終了だ。
「わぁっ! ちょっと、静かにしてろって」
気持ち良いのか、馬面を擦りつけて甘えるナルトに笑って、イルカもその首筋に顔を埋めた。
語りかけ、優しく撫ぜて笑って。
その後は、早朝からの放牧に出て空いた馬房の掃除をするべく箒を手にする。
汚れた部分を捨てて、ボロをとり、新しい寝藁を引いてやる。
それだけでも重労働で、自然に噴き出した汗が額から垂れた。
せっせと働くイルカの気を引こうと、服を噛んだりするナルトを宥め、叱り。
でも結局はあの顔全体を口みたいにする笑顔で応えてやる。
そんな姿に、何故だか意味もなくモヤモヤとした。
「・・・・・」
カツンっとわざと音をたて、鳴らした靴音はそんな騒がしい馬房の中で一瞬の静寂を生んだ。
「・・・なにか・・?」
今の今まで楽しそうに笑っていた顔が、カカシを振り返った瞬間、緊張に強張る。
こんな天真爛漫そうな男に警戒されてるという不快感に、自然に見つめる視線が不穏さを増した。
「別に」
「あ、あの・・よかったら触ってみますか・・?」
「は?」
「ナルトに。今ならコイツも機嫌が良いので」
「何でオレが馬の機嫌を窺ってまで触らなきゃいけないのよ」
「・・・・・」
ごちるようにそう言い放ってから、相手の黙りこむ姿に失敗したことを知る。
きっと、親切心からそう言ってくれたのに、一体自分は何をやっているのだろうか。
こんな馬鹿なことを言って構って欲しいなんて、まるでこの仔馬と同じじゃないかと。
イルカにじゃれつく仔馬を腹立たしく見つめながら、自己嫌悪に盛大な溜息を付いた。
「・・・・」
その溜息一つで、更に気まずい雰囲気がその場を包む。
お互いに言葉を交わさせないまま、イルカが強張った表情で再び馬房の掃除を始めた。
そんな姿に眉を寄せても、ただ手持ち無沙汰に佇みながら彼を見つめることしか出来ない。
カカシは拳を握りしめて小さく舌打ちした。
こんな雰囲気にしたかったわけじゃない。
だけどどうやって言葉をかけて良いのか解らずに、ただ当惑して苛立つだけだ。
だってもう、囚われてしまっているのだから。
*****
ふーっと息を吐き出して、イルカは手に持っていたブラシを馬体に沿わせた。
あの後も、カカシはひょっこりと現れては厩舎の中や牧場を見学し、またふいっと帰ってしまう。
別に馬のことなんか全く好きそうでもなさそうだし、厩舎に来るといつも少しだけ眉をしかめる。
「・・・やっぱ臭いかな・・」
腕を自分の鼻に持ってきて、スンっと臭いを嗅いだ。
もう染み付いてしまっているから自分では分からないが、きっとカカシには不快な臭いなのだろう。
だって、あの人は・・・。
そうやって、いつもふらりとやってくる男を思い浮かべた。
キラキラと輝く銀髪。のんびりとした話し方。
顔だって、左眼に傷はあるものの、それが何だか精悍に見えてビックリするぐらい綺麗だ。
「それに比べて」
泥だらけの、薄汚れてくたびれた服を見やって溜息をついた。
馬の世話をするのだから、作業服なのは当然だ。
だけど・・・。
「・・汚いって、思われてるんだよな。きっと・・・」
真新しく、綺麗にプレスされた服を着た姿を思い浮かべ、ブルブルと左右に頭を振る。
自分とカカシは全く違う。
住む世界も、生きる場所だって。
牧場の仕事は好きだし、馬を育てることに誇りだって持ってる。
自分を卑下するつもりなんて全く無いけれど、カカシがここへ来て不快な顔をするたびに何故か胸が傷んだ。
ブルルッと心配気に鼻を鳴らすナルトに気づいて首を撫ぜてやりながら。
「なんだ? ・・・大丈夫だよ」
ブラッシングの手を休めて、そう呟く。
両親を事故でなくして、借金返済のために飼っていた馬の殆どを手放した。
手元に残った僅かな馬と、両親が残してくれた小さな牧場を精一杯守ろうとして。
それでもどうするべきかわからなくて途方にくれていた時に、両親の友人だというだけで名馬ミナトの一粒種であるナルトを任せてくれたのがサクモだった。
優しくて、穏やかで。
天涯孤独になったイルカを安心させてくれた人。
イルカはサクモがここを訪れてくれるのをいつも楽しみにしていたのだ。
『カカシは無愛想だけどね。照れてるだけで、きっとイルカくんとは気が合うと思うんだよ』
一人さっさと厩舎を後にしたカカシを見やって、サクモは少し困ったように笑った。
だけど何度顔を合わせても、いつも不機嫌そうなカカシとは打ち解けることが出来なくて。
「・・・・・」
手に持ったブラシに力が入る。
あの日初めてカカシを見た時は、サクモの若いころを覗き見たようで本当に吃驚した。
同じように、キラキラとしてて、格好良くて。
・・・けれど、同じ顔なのに父親であるサクモと印象は全く違った。
「・・・・・・」
厩舎を訪れてはナルトを見るわけでもなく、カカシは退屈そうに周りを見渡し不愉快そうな顔をしていた。
きっと父親に言われて、嫌々ながらもここへ来ているのだろう。
もし、カカシがナルトを手放すなんて言い出したら・・・。
「だめだッ!」
浮かんできた考えを吹き飛ばそうと、パチンと両頬を叩く。
ナルトを可愛いと思ってもらえるように、もっとちゃんと世話をしなくちゃいけない。
そして、この牧場のことも好きになってもらいたい。
サクモがイルカに接するように、カカシにも・・・。
そう思いやって、ハタと手を止める。
俺は今、カカシにどう接して欲しいと願ったのだろう。
「・・何考えてんだ、俺は」
思わず口に出して呟いてしまう。
ただの馬主と生産牧場の関係だ。
そりゃ何事も円滑な関係を持つのが一番いいに決まってる。
だからそれ以上なんて、望むほうがどうかしている・・・。
ギュッと唇を噛み締めて首を振った。
早く手入れをしろと強請るナルトを宥めながら、イルカは再び忙しく手を動かすのだった。
*****
「なんだ、その顔。めんどくせぇ」
「んー・・」
寝転んだソファーの上。
せっかくの高級なスーツも皺になることすら構わない。
そもそもそんなことを気にするような男でもないし、スーツの一着や二着ダメになっても気にも止めやしないだろう。
だらしない姿を晒す友人に、トレードマークとも言えるタバコを咥え、アスマが溜息とともに紫煙を吐き出す。
「精彩ねぇヤローの顔なんて見たくもねぇ。さっさと帰れ」
「相変わらず友達甲斐無いねぇ・・・」
「友達」
思わぬ単語にハッっと声をあげて、鼻を鳴らした。
「だいたいこんな時間にどうした」
寝起きの悪い、遅刻常習犯な男だ。
こんな早朝からオフィスに押しかけてくるなんて、珍しいことこの上ない。
「徹夜か?」
「まさか」
「だろーな」
「良いでしょ。フレックスなんだから」
「お前はそうでも俺は違うんだよ」
「役員のくせに」
「・・・役員でも俺はお前と違ってちゃんと仕事してんだ」
「オレだって働いてるよ」
言いながら欠伸をする自称友人に、呆れを通り越して蔑みの視線すら向けてアスマは向かいのソファにどかりと腰をおろした。
「で? 何か話があってきたんだろ? 俺は忙しい、手短に話せ」
「んー・・・、お前のところって確か牧場だったよなぁって思ってさ」
「んぁ? 仕事の話じゃないのか。・・・お前、俺がオヤジのとこから飛び出してきたの知ってて聞いてんだろうな」
「あぁ、そうだっけ? まぁ良いじゃない」
相変わらず話の読めない男だ。
イライラとしながら再びタバコに火をつけると、眠たそうに瞼を下げる友人に続きを促す。
「うみのイルカって人・・・知ってる?」
「・・・うみの・・・? あー、前にオヤジのところで働いてた」
確か独立したはずだが。
さっさと父親の元から離れたアスマにしてみれば、ちょろちょろと自分の後をついて回っていた子供の姿しか記憶に無い。
そういやその後・・・と、口にしようとして、何やら不穏な空気を察してタバコを灰皿に押し付ける。
見れば何かを探るような視線。
「イルカがどうかしたか?」
「ーーー別に。どんな人かと思って」
「んなこと聞いてどうすんだよ」
「良いじゃない、聞くぐらい」
「めんどくせーことになるなら言わねぇ」
「なによ、めんどくさいって」
いたく気分を害したらしい。
纏っていた空気が一瞬にして冷たくなった。
「お前に関わりなんてないだろ」
接点など無いはずだと言おうとして、彼の父親が大馬主だと思い当たる。
たしか猿飛の牧場にも数頭預けられていた。
「なんだ、イルカに会ったのか?」
「・・・・・」
それには答えずに、ピクリと上がる眉だけで返事を返す。
「あの人、いつもあんな感じ?」
「あんな感じってどんな感じだよ。・・・まぁ、いつもニコニコしてて元気なヤツだけどな。うちに出入りしてた業者や馬主達にも愛想が良くて可愛いって評判・・・」
「・・・愛想が良い・・?」
お前と違ってと続けようとして、眼の前の男が何度もボソボソとなにやら呟く声に首を傾げた。
「カカシ」
「なに?」
「気になってんのか?」
「何いってんの、この髭」
「へぇ・・。おっもしれぇこともあるもんだな、他人に興味ねぇお前が」
「うるさいなー」
にわかに焦りだす友人に、腹の中で笑って。
突っ込もうと思ったところで時間を伝えてきた秘書に手を上げて頷いた。
「スマン。そろそろ行くわ」
「ん」
「おめぇもさっさと仕事行けよ」
「んー」
じゃあなと口にして、相変わらず打っても響かない返事をする友人を振り返る。
なにやら考えこんでるようだが、彼がこうして誰かに興味をもったことが珍しくて、これはいい話の種が出来たとほくそ笑んだ。
「今夜はいい酒が呑めそうだ」
「仕事が先ですよ」
「へいへい」
咎める秘書に頷きながらも、仕事の後の一杯を思い浮かべて自然と鼻歌が漏れた。
*****
その日は何だかとても気分が乗らなくて、ふとイルカの笑顔が見たくなった。
マリンファームと書かれた看板の前でチラリと時計を見つめて、どうしようかと暫く逡巡してみる。
まだ日は沈みきってはいない。
この時間ならまだイルカは牧場にいるはずだ。
足繁く通っているおかげで、何となく分かるようになったスケジュールに一人苦笑してしまう。
笑顔が見たいなどと思っても、愛想が良いという噂のイルカが自分に笑いかけたことなんて一度もない。
全く歓迎されてもいないのに勝手にやってくるカカシを、イルカはなんと思っていることだろう。
「さて・・・」
少し高くなった敷居の牧場へ足を踏み入れ、もう行き慣れた放牧地を目指しカカシは足早に歩き始めた。
思惑通り、目当ての人物はすぐに見つかった。
今日もいつもの仔馬を引っ張って、今から夜間放牧とかいうのに出かけるところなのだろう。
目の前に立つカカシを見つけると、驚いたように目を見開いて、それからペコリと頭を下げた。
初めて見た時のような笑顔はなりをひそめ、強張った表情で警戒心も露わなその姿に、落ち込んできた気持ちも更に沈み込むようだ。
「お邪魔してます」
「・・いえ・・・」
「放牧ってやつですか?」
なにかおかしなことを聞いたのだろうか。
思い切って声を掛けてみると、吃驚したように眼が真ん丸になった。
「あ、はい」
「一緒に行っても?」
「え?」
「だめ?」
断られるのを承知で声を掛けてみたが、躊躇いながらもどうぞと返事が返ってくる。
並んで歩きながら、チラリと横目でみた顔はやっぱり強張っていて、失敗したと思い知る。
やはり来るべきじゃなかった。
そんなことを考えていたら、隣でイルカが声をあげた。
「わっ、ちょっと落ち着けっ」
「え?」
「ーーいえ、ナルトがっ・・っと、おいっ」
放牧地近くになって、浮足立った仔馬の歩様がせわしなくなる。
それを宥めてイルカが手綱を引っ張っていた。
「こーら、まだ到着してねぇだろっ」
ブルルッと鼻を鳴らす仔馬に笑って、鼻先でつつくその馬面を指先が撫ぜる。
そんな甘えた姿に、腹の中からこみ上げる何かが渦を巻いた。
「・・・・っ」
だから、仔馬がこちらに興味を持つようにわざと少しだけ近づいて。
遊んでもらおうと、近寄ってきた鼻先を邪険に振り払った。
その瞬間。
「ナルトッ!!」
「ーーーーーッ!!」
驚いて立ち上がったナルトの前足が、眼の前を掠めた。
避けようとしてドサリと尻もちをついたカカシを庇い、イルカが手綱を操作して落ち着かせる。
「大丈夫ですかッ!?」
「・・・えぇ・・」
座り込んだままそう答え、気恥ずかしさに顔を背ける。
本当に、何をやっているのかと自分が嫌になる。
気がつけば、柵を外し手綱を解いて放牧したイルカが、蒼白な表情でカカシの眼の前に立っていた。
「ーー怪我はありませんか?」
「まぁ、なんとか」
心配する声に少しだけ心が浮き立って、それでも格好悪さからイルカと視線を合わさずに答えた。
だけどその後に続いた言葉が、不用意な自分の行動を糾弾する。
「馬は臆病なんです! ・・・だからっ」
「ーーーだから、なに?」
「・・・怯えさせたり、しないで下さい・・・」
「・・・・・」
黙りこんだカカシに、イルカが唇を噛んだ。
自分の失態だ。馬に慣れていないカカシをこんなに傍にいさせるなんて。
万が一、大怪我をしていたらと思うと背筋がゾッする。
「悪かったよ」
座り込んだままボソリと呟くカカシに手を差し伸べて、高そうな服が砂まみれなのに気づいた。
「あ・・あの・・・服が汚れて・・これ使って下さいッ」
「いい」
自己嫌悪にいたたまれなくて、バンバンと芝が絡みついた服を叩きながら立ち上がる。
タオルを差し出す手を勢い良くはたいた瞬間、イルカが酷く傷ついた顔をした事に気づいた。
「・・・なに?」
「このタオル・・・綺麗です」
「は?」
ちゃんと洗ってある物だ。
汚くない。
汚いなんて、絶対に思ってほしくない。
だから。
不快そうに眉をしかめるカカシに、泣きそうな思いでタオルを差し出しながらそう口にしたのに。
そんな思いも届かぬまま、カカシが自分の手で服の汚れを払い、イルカに背を向ける。
「ーーーーっ!」
「帰ります」
「あ、あのッ! カカシさんっ」
「・・・・・・」
「・・・気を悪くされましたか・・・?」
「・・どうして・・?」
「え・・・?」
逆に問われて、すうっと冷える空気にゴクリと息を飲む。
何時までたってもカカシは無表情で、イルカには何を問われているのかさっぱりわからない。
「どうしてあなたはいつもそんな顔をしているの?」
「顔・・・?」
顔がどうしたというのだろう。
意味が解らなくて狼狽えたまま、イルカはタオルを握りしめた。
ただ、このまま帰ってほしくなくて声をかけただけなのに。
まるで何かを探るような眼をしたカカシが、諦めたようにため息を付いて、ふいっと顔を背けた。
だんだんと遠ざかっていく背中に何も言えぬまま、イルカは暫く茫然としてその場に立ち尽くしていた。
*****
「ちょっといい?」
扉を叩いて。
答えを聞かぬまま開いた扉の先で、珍しくアルコールを口にする父親を見つけて首を傾げた。
「父さんが呑むなんて珍しいね」
「・・父さんにも呑みたい時があるんだよ」
そう言って笑うサクモが、カカシにもどうかとグラスを差し出した。
「オレはいい」
断って、カラリと音をたてる黄金色の液体をぼんやりと見つめる。
アルコールが絡んだそれは、光を受けてツヤツヤと輝いていた。
「何か話があるんだろう?」
少しだけアルコールが回っているのだろうか、サクモはいつもより上機嫌のようだ。
この機を逃すことは出来ないだろうと、カカシはソファに腰掛けて口を開いた。
「ナルトのことだけど」
「うん?」
「やっぱり父さんが所有するべきだと思うんだ。オレは競馬なんかに興味はないし、もちろん馬にも。あれから何度かあそこに通ってみたけど、やっぱり・・」
「通ったって、イルカくんの所に?」
「・・・ん」
カラリと、グラスの中で溶けた氷が黄金の海に沈む。
暫くその様子を楽しんだ後、サクモが小さく頷いた。
「そうか・・・。残念だね」
呟いた言葉に、この話はこれで終わりだと立ち上がりかけた瞬間。
独り言のようにサクモが口を開いた。
「・・・今日は、うみのさんの命日でね」
「え・・?」
「彼らとは、良い友人だったんだ。ミナトを種付けに運び終わった帰りに事故に遭ったんだよ」
「・・・・・」
「ちょうど、三代目・・あぁ、猿飛さんのところだけど、知ってるよね」
「うん」
「その三代目のところから独立したばかりで、これからって時だったのに・・・」
悔やむようにそう呟く。
けして上機嫌なんかじゃない。
いつもあまり呑まない酒を口にするのは、そんな日だったからなのだと知って、カカシは黙って先を促した。
「ご両親の残された牧場を立てなおそうとするイルカくんが健気でね。応援するつもりでナルトを彼に預けることにしたんだ」
「・・・・・」
そして、それは正解だったと思う。
確かにあの牧場は設備も古くて規模も小さいが、手をかけて育てられた馬たちは健康そのものだしなにより人懐っこい。
それはやはりうみのイルカという懐の温かな人物の人柄がなし得るものだと、サクモは確信していた。
「カカシは何でも自分でできるから、人を寄せ付けないところがあるだろ? イルカくんとは歳も近いし、彼みたいな友人が出来ると良いと思ったんだけどね」
そういう顔は少しだけ寂しげだ。
グラスに唇をつけて少しだけ口に含み、強いアルコールが喉を焼きながら流れていくのを楽しんだ。
「あの人、オレには笑いかけもしないよ」
ごちるようにそう言って、頭を掻いた。
多分、いや、間違いなく嫌われている。
溜息混じりにそう呟いた言葉に、サクモが微笑む。
「カカシは笑いかけたのかい?」
「・・・・え・・?」
そう問いかけられて、サクモが含み笑いながら首を傾げるのに目を見開いた。
自分は彼に、どんな顔をしていただろう。
そう思って不意に気づく。
イルカが自分を見るたびに、やけに強張った表情をしていたことを。
「ま、ナルトのことはカカシがそう言うなら・・・」
「待ってっ!」
そう言い放って、慌てた様に立ち上がるカカシがそのまま部屋を飛び出していく。
グラスの中で、少なくなった液体を呑み干して。
角が取れて丸くなった氷を見つめて小さく笑う。
「素直じゃないのは誰に似たのやら」
遠ざかっていく派手なエンジン音に、慌てて部屋を後にした息子の顔を思い出し、そう呟いた。
*****
「今日も星が綺麗だなー」
呟く言葉に、隣でナルトがブルルッと鼻を鳴らして相槌を打った。
少し肌寒くなった夜、ぼんやりと芝の上に寝転んで夜空を見上げた。
一人になって気づいたことがある。
どれだけ泣いて叫んでのたうち回っても、見上げる空は変わらず同じなのだ、と。
ちっぽけな自分を思い知ったあの日のことを、イルカは今でも鮮明に思い出せる。
不幸な事故だった。
ただ一言、それだけだ。
名馬と讃えられたミナトの種付けは、両親の希望だった。
だけど、身籠った牝馬のクシナも出産後程なくして死んでしまった。
残ったのは数頭の仔馬とナルト、そしてこの牧場、ただそれだけ・・・。
「・・・・・」
瞳に映る星空が、ぼやけてその輪郭をなくす。
伝うように流れる涙をぐいっと拭って、鼻先を擦りつけてきたナルトを撫ぜた。
「メソメソしちまってごめんな」
今日だけだからと小さく呟く声を聞き、勇気づけるようにナルトがイルカの肩を押す。
「イルカさん?」
不意に聞こえてきた声に、寝転がっていた芝生から起き上がって視線を向けた。
その先には、月明かりに照らされてキラキラと輝く銀髪。
逆光で表情がみえなくて、思わず身を乗り出した。
「・・サク・・・えっ・・カ、カカシさん・・?」
「家にも、厩舎にもいないから・・・探しました」
駆け寄ってくる吐息が、僅かだが乱れている。
牧場にしては狭いとはいえ、広大な土地だ。そんなに探しまわってくれたのだろうか?
「・・すみません・・・今日は・・」
「あー・・その・・・ご両親の・・・」
「あぁ、ご存知でしたか。・・・今日だけは、一人で部屋にいたくなくて・・」
子供みたいですよね。と言って、無理に笑顔を作るイルカが切なくて、傍まで近づいて抱き寄せた。
驚いて見上げた瞳は真ん丸で、カカシの行動の真意を図りかねて腕のなかで何度もぱちぱちと瞬きをする。
「あ・・、あの。汚れます」
出した言葉はまるでトンチンカンだったから、思わず笑ってしまった。
「俺、こんなだし」
寝転がっていたことでついた芝を気にして離れようとするイルカを、有無を言わせず再度抱きしめる。
「汚くないです」
「え・・・?」
「汚いなんて思ってませんよ。・・・っというか、この間はスミマセンでした」
「・・・あの・・」
「あんまりにも自分が格好悪くて」
「格好わるい?」
カカシの言葉にキョトンとする。
格好悪いなんていう言葉が最も当てはまらない男だ。
こうして眼の間で見れば見るほど、その整った顔に魅入ってしまうというのに。
「その・・。誰にでも愛想が良いって噂のあなたが、オレには笑いかけないのに勝手にイライラしてました」
あいつにも悪いことをしたなと、ナルトを見やって言いながら、照れくさそうに破顔する。
「・・・えっと・・・」
「あー・・つまり」
手入れされた指先に、顎をとらえて上向かされる。
触れる唇の柔らかさを感じる前に驚いて。
見開いたままの視線の先で、カカシの色違いの瞳がゆっくりと弧を描いた。
「眼は閉じて」
「え? あ、はい」
耳元で囁かれ、ギュッと固く閉じた瞬間、唇に温かいものが触れた。
「わっ!!」
思い切り声をあげて離れてみれば、同じように驚いた顔のカカシが照れくさそうに眉を下げる。
「あ・・・す、すみません・・ビックリして・・・」
「いえ」
妙にドキドキと音をたてる胸の鼓動が、今にも聞こえてきそうだ。
まだ抱きしめられたままの身体は、意識するだけで自然と体温があがってくる。
恐る恐る見上げてみれば、同じように上気した顔のカカシの表情に少しだけ安心した。
「・・・・・・」
大きな手が頬を滑り、ゆっくりと引き寄せられる。
突き出すようになった唇に再び触れられた時、遠くでナルトの嘶きが聞こえた。
*****
ゲートが開いてから、2,400米。
僅か数分で決まる勝負だ。
その年に生まれた何千頭の中から、選びぬかれたたった18頭の内、ナルトは中団から後方の4番目。
残り200米は、最後の直線コースだ。
眼の前に開けた内側を狙って、一直線に駆け上がってくるのは黄金色に輝く栗毛の馬体。
ナルトーーー。
歓声がまるで巨大な渦のようだ。
必死に声をあげるイルカを抱き寄せて、涙でめちゃくちゃになった顔にキスをした。
そうして、二人で共に。
先頭でゴールを駆け抜ける瞬間を、瞳に焼き付けるーーー。
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