この世界には、6つの性が存在する。

 一つは生まれながらにして超人的な力を持ち、あらゆる能力に秀でたアルファ。
 二つ目は、里人の大多数がそれに当てはまると言っても過言ではない、凡庸で堅実なベータ。
 最後に、脆弱さ故に軽侮され、庇護されるべきものと位置づけられている性―――オメガである。


*****


 清しく響く鹿威しの音色。
 開け放たれた障子の向こうには、手入れされた見事な庭園が見える。
 普段なら足を踏み入れることさえかなわない高級料亭にて、ふかふかの座布団に正座したままイルカはこの場にふさわしくない重苦しいため息を付いた。
「まぁまぁ。そう緊張なさらずとも、うみの中忍」
「…はぁ…」
 ホホホと笑う老女の声にも、上の空で応えることしか出来ない。
「任務で少し遅れると連絡がありましたから、そろそろこちらにいらっしゃるでしょう」
「・・そうですか」
 どうかこのまま現れないで欲しい。
 チラリと脳裏をかすめた願いは、かなわないことと知っている。
 度重なる延期の末に、漸く決定した見合いの席だ。
 相手方の任務調整には火影様が介入したと、先ほど仲人である老女から聞かされたばかりである。
「あちら様は里の中でも高名な忍でいらっしゃいますので、なかなか日取りがあわなくて。こちらもセッティングに苦労いたしました」
「アルファはランクの高い任務に就くことが多いですからね」
「そうなんですよ。うみの中忍は受付のお仕事も兼務されていらっしゃるから私より良くご存知でしたわね。理解ある伴侶を得られると、あちら様もさぞお喜びでしょう」
「……そうでしょうか?」
「当然でしょう。これは里の意思ですから」
「里の意思、ですか…」
「えぇ。優秀なアルファを増やす事、それが里の総意です。マッチングシステムはそのためにつくられたと言っても過言ではありません。…うみの中忍は本当に良い方とご縁がありましたね」
 ほんとうにそう思っているのだろうか。
 それとも、木の葉に籍をおく忍には拒絶する事ができないとわかっていて口にしているのか。
 引く手あまたのアルファが押し付けとも取れるオメガとの見合いを望むわけがない。
 数度に亘る見合いの延期も、相手方の抵抗の意思が如実に現れているように思えた。
 しかしそれは、望まぬ見合いに駆り出されることに辟易していたイルカにとっても好都合。互いに望まぬ見合いなら、破断にするのは容易いだろう。
「………」
 ニコニコと微笑みを浮かべる老女に愛想笑いをし、決意を込めて膝の上で硬く拳を握りしめた。
 今から遡ること十数年前。
 度重なる大戦で激減したアルファを増やすべく、里の上層部はある政策をうちたてた。
 六つの性を判別するべく木の葉の里人全ての細胞を採取し、相性によるマッチングシステムを確立したのだ。
 それによって引き合わされたアルファとオメガは娶せられ、オメガはアルファとなる子を輩出する道具になる。
 陳腐な話だ。
 里に富をもたらすアルファのためだけの政策。そこにはオメガの人権なんてものは存在しない。
 イルカはその道具であるオメガだった。
 幼いころにオメガ判定を受けたイルカが覚えていることは、頭を撫ぜてくれた父の大きな手と、苦しいほど抱きしめた母の温かい身体。まだ何も知らない子供だったから、我が子がオメガだと判定された両親の心の機微にも気づくことなどなく、イルカは無邪気に笑っていられたのだ。
 とはいえ大戦後に生き残ったアルファはただでさえ数も少なく、希少な存在である。
 オメガ判定を受けてはいても、数の少ないアルファと番うどころか死ぬまで誰とも添うことなく、生涯独身で生涯を終える。そう覚悟して今まで生きてきた。
 そんな自分にまさか見合い話が持ち上がるなんて。
 はぁ…、と。また重苦しため息が漏れる。
 普段なら見ることすらかなわない立派な庭園を楽しむ余裕もないまま、白くなった拳をひたすら見続けてどれぐらい経っただろう。
「いらっしゃいましたよ」
 老女の声とともに現れた気配に顔をあげて、仰天した。
「―――カ、カカシさんっ!?」
 木の葉の里には珍しい銀髪と顔の半分を覆う口布。見てくれだけでも目を引くその人は、他里のビンゴブックにも名を連ねる里の上忍だった。
「…どーも…おや、イルカ先生」
「え? え…どどど、どうしてここにっ?」
「あらあら嫌ですわ、うみの中忍ったら。お相手の方になんてことおっしゃるのかしら」
「……おあいて…?」
 一瞬言われた意味が解らなくて、あんぐりと口を開けたままカカシと老女を交互に見比べた。
 苦笑する老女とは対照的に、カカシと言えば相変わらず無表情のまま(顔のほぼ全てが隠れているのだから当たり前なのだが)、のそりと座敷に入ってくると机をはさんだ向かい側に腰を下ろす。
「あ―…スミマセン。こんな格好で」
「えっ! あ、いえ、そんなことは…」
 遅刻の理由であった任務帰りというのは本当だったのだろう。高級料亭には似つかわしくないくたびれた忍服には、血がついていないだけマシだと言うぐらいな有様で、所々に泥や煤がこびりついている。
 服を着替える時間も惜しんで来たと言われれば聞こえが良いが、望まぬ見合いに身を取り繕うことも面倒だったと言われているようで、なんだか少しだけ悲しくなった。
「お二人ともお顔見知りのようなので、紹介は不要のようですね」
「えぇ、まぁ」
 狭い忍の世界だ。特にカカシのことは、木の葉に在籍する忍なら知らぬものなどいないだろう。
「……あの…」
「はい」
「ほ、本当に…カ、カカシさんが…その……」
 番候補なのかと訪ねようとして、何を馬鹿な質問をする気だと口を噤んだ。
 見合いの席までやってきて、人違いだなんてあるわけないじゃないか。
 動揺するにも程があると内心で自らを罵倒する。
 だけどどうにも信じがたくて目を白黒させるイルカの目の前で、カカシが盛大に吹き出した。
「ふふっ、…面白い顔」
「はっ? えぇっ!?」
「あ―、スミマセン。でも…ククッ…」
 いつも冷えた月のようだと感じていた瞳が糸のように弧を描く。笑えば随分と雰囲気が変わるのだと今更ながらに気がついた。
「まぁ、人の顔を面白いだなんて。失礼ですよ、はたけ上忍」
「いや、失礼…っ。ごめんね、イルカ先生」
「…いえ…気にしてません」
 男なのだから顔にはそれほど頓着してはいない。面白いと笑われたのは初めてだが。
 唖然としたままのイルカの前で、カカシが運ばれてきた湯呑みに手を伸ばす。静かに茶をすすると、さり気なく老女に目配せするのが見えた。
「お二人ともいい具合に打ち解けられたようですので、後はお任せしてもよろしいですわね」
 それが合図のように、お決まりのセリフを口にする。小さく頷いたカカシに、老女が微笑みながら腰を浮かせる。
「では、私はこれで失礼致します…」
「――ま、待ってくださいっ!」
 いきなり二人きりにされることに驚いて、思わず大きな声を出した。
 里の忍として顔見知りだとは言え、カカシとはそれほど親しくもない間柄だ。
 大体何を話していいやらわからないし、気まずい空気が流れるに決まっている。
 役目を終えたとばかりにそそくさと座敷をあとにする老女の背中を、この先どうすれば良いのかと途方に暮れながら見送るしかなかった。
「…………」
 どうしよう。
 どうしたら良いのか。
 想像通り気まずい空気が流れる中、いたたまれなくて俯きながら考える。
 なにか話さなければと気ばかりが焦るのに、会話の糸口さえつかむことが出来ない。
 同じ木の葉の忍びとはいえ、上忍であるカカシとは階級も身を置く環境もすべて違う。共通の話題といえば唯一教え子達だけで、それも中忍試験の件で言い争いをしてからは、口にだすのも憚られるものになった。
 里の上層部が推進するマッチングシステムといえど、この見合いは互いにとってあまりにも好ましいものではない。
 カカシだとて初顔合わせでこんな同性の中忍が番候補などと言われて、困惑しているに違いないのだ。
 退屈そうに庭園を見やるカカシの瞳が、それを物語っているように思えた。
 「………」
 背中に冷たい汗が流れていくのを感じながら、目の前の湯のみ茶碗に手を伸ばす。カラカラの喉を潤すべく、冷めきった緑茶を一気に喉の奥に流し込む。
 このまま火影室に駆け込んでこの見合いの破棄を願い出ようと、そう決意した時。
「取り敢えず、庭に出てみましょうか」  
 庭園を見つめていたカカシの口から、なんとものんびりとした声が飛び出した。
「…は?」
 なんだその見合いの席にありがちなセリフ、と。口にしなかっただけ褒めて欲しい。
 しかし顔には出ていたのだろう、カカシがまた眼を細くする。
「あー…、なんでも岩隠の里からわざわざ庭師を呼びつけて作らせたそうですよ、ここの庭」
「はぁ…」
 実のところ、庭を愛でるような高尚な趣味なんて持っていない。
 確かに眼を奪われるほどに美しいのだけれど、完成された美っていうものはどこもかしこも計算され尽くしていて息苦しく感じるからだ。だけどそれを今ここで口にすることが出来ないのは、上忍に対する劣等感だろうか。
「興味ありませんって顔だーね」
「へっ?」
 心の中を読まれたようでぎょっとした。
 だけど見つめる瞳はけしてイルカを卑下するような色合いを帯びていない事に安堵して、素直に頷いた。
「恥ずかしながらこんな立派な料亭に足を踏み入れたことがなくて。…正直言うとさっきから居心地が悪くて仕方ありません」
 居心地が悪いのはなにも料亭のせいだけでは無いのだけれど、とりあえずそう口にした。
「実はオレも」
「え? カカシさんもですか?」
「アスマなんかは別だけど、オレはもっと大衆的な居酒屋のほうが好きかな」
「……意外です…」
「そう?」
 これがギャップというのだろうか。ニコリと微笑む姿にドキリとする。
 普段はほぼ無表情なカカシの姿に動揺して、思わずマジマジとその顔を凝視した。
「照れるからあんまり見つめないで」
「えっ! …あっ、し、失礼しましたっ!」
 ガリガリと頭を掻くカカシに咎められて、座布団の上から飛び上がった。
 慌てながらもチラリと正面を盗み見てみれば、耳まで赤くなっている白皙の面につられてイルカの顔も赤くなる。
 誰もが認めるトップクラスの上忍だから、見られることには慣れているハズなのにという思いと、恥ずかしそうに伏せた銀色の睫毛に視線がまた釘付けになる。
 照れるって。
 照れるって何だよ、もう。
「あ…、あの……不躾ですみません…」
「…いえ」
 互いに赤面している現状に、緊張して強張っていた気持ちがふっと楽になるのを感じた。
 場所を変えませんか? と口をついて出た言葉にカカシが頷く。
 二人で料亭を後にしたのは、それから直ぐのことだった。


*****


 カカシの行きつけだという店に辿り着くまでの道すがら、二人で他愛のない話をした。
 イルカは教師としての仕事や受付であった大小様々な出来事などを面白おかしく語り、それにカカシは穏やかに耳を傾け、話しやすいよう時々相槌を打っては続きを促した。
 大衆居酒屋と呼ぶには少しばかり敷居が高めの店に戸惑いながらも足を踏み入れると、当然のように個室に通される。
 注文した料理はどれも絶賛してしまうほど美味かったし、なによりカカシは呑ませ上手で聞き上手だった。
 料理に舌鼓を打ち、勧められるままに酒を呑めばイルカは更に自分が饒舌になるのを感じた。
 酔っ払っているとカカシが気づいたときには既に酩酊状態で、机の上に片頬を乗せたままウトウトしだすありさまだった。
「…呑ませすぎたかな」
 酒には強いと聞いていたから、あえて止めなかった。
 座敷に転がった一升瓶の空き瓶を見ても、けして弱いわけでは無いとは思う。
 料亭で引き合わされた時は、まるで野良犬みたいに警戒心を露わにしていたくせに、いまは口角もトロリと緩んでだらしがないほどだ。
 こんなことなら泊まれる店を選べばよかったとの思いがチラリと脳裏を掠めたものの、そんな場所を選べばきっとイルカは未だ警戒心を解かず、こんなふうに酔っ払うことはなかっただろう。
 いや、緊張感を振り払うべく呑みすぎたのか。
 ともかく今にも眠ってしまいそうな見合い相手に苦笑して、結い上げられた黒髪に触れた。
「イルカ先生、こんなところで寝ないでください」
「ん~~…」
 揺さぶっても、酒が入ったコップを握りしめたまま眉を顰めるだけだ。
「どんだけ酒が好きなのよ」
 クククッ。一人口元を緩ませる。
 潤んだ目元と緩んだ口角。酒が光る唇はぽってりと赤らみ、呆れたことにむにゃむにゃとまだ呑めますだなんて呟いている。
「何言ってんの、もう限界でしょ…」
 握りしめているコップを引き剥がそうと指に触れた瞬間、ガバリと起き上がったイルカが残った酒を一気に煽った。
「ふはー…うめぇっ」
 グイッと手の甲で濡れた唇を拭い、酒臭い息を吐き出す。
 ゆらゆらと左右に揺れながら座り直し、あっけにとられたままのカカシを見やった。
「ちょっと、大丈夫?」
「あ―、はい…。大丈夫れす…」
 そこで漸くカカシが素顔を晒していることに気がついたらしい。不思議そうな顔をして、コトンと首をかしげる。相変わらず眼は座ったままだが、潤んだ黒い瞳をパチパチと何度も瞬かせた。
「……かお…」
「はい?」
「見えてますよぉ、カカシさぁん」
「そうだね」
「…おれ、見ちまっても良いのかなぁ」
 別に隠しているわけでもないのだが、何故か素顔が七不思議のようになってるのは否めない。
「婚約者に見せないのはおかしいでしょ」
「こんやくしゃ…」
「そ、婚約者」
 念押ししたが、どうにも相手には響いていないようだ。
 こんなことを言うなんてオレも随分と酔っ払っているのかもしれないと苦笑しつつ、腑に落ちない顔をしているイルカの鼻傷にそっと指先を伸ばす。
「アンタが嫌だって言っても、もう決めているんだから」
 こんな状態じゃきっと覚えていないだろうと思いながらも口にした。
 想像通りぼんやりしたままのイルカの唇が何度か「婚約者」と言葉にした後、くしゃりと歪んだ。
「おれ…駄目です……」
「駄目?」
「そ、です…だめ…」
 何が駄目なのだろう。みるみるうちに目の縁に盛り上がった涙に慌てふためいて、机を乗り越えて傍に駆け寄った。
「どうしたの?」
「…だめ、なんですっ…おれ……」
「だから何が駄目なの?」
「だって…」
 カカシは成熟したアルファだ。
 里でもトップクラスの上忍で、上層部からの覚えもめでたく、末は火影にのぞまれているという話を何度も耳にしたことがある。
 成人した今も未成熟な自分には相応しくない。そう言わなくてはいけないのに、言葉にしたくなくて唇を噛んだ。
「理由は?」
 ひどい酔っぱらいだ。ここで聞いても納得いく答えなど帰ってこないと知っていても聞かずにはいられなかった。
 当然のごとくグスンと鼻をすすったイルカが、目の前のカカシを見上げて首を振る。
 閉じた瞼からぽろりと涙が落ちて頬を伝うのを、指先で拭ってやった。
「だめなもんは、だめ…なんだ……っ」
「どうして?」
「……だから…」
「なに?」
 蚊の鳴くような声は、カカシの耳には届かなかった。
 糸の切れた人形のように背後に倒れ掛かるイルカを受け止めて、酒に酔った顔を覗き込む。
 およそ戦忍では考えられない無防備な寝顔。酒の匂いに混ざって独特の甘い薫りがふわりと鼻先を擽った。
「…鼻が良いのも考えものだーね」
 里の意思という名目によって引き合わされた二人だ。たとえカカシがここでイルカに何かしでかしたとしても、制裁を受けることはない。もちろんこんな場所で無体を働く気など毛頭ないけれど。
 このまま襲われても文句は言えないよとばかりに眉を寄せて、すぴすぴと鼻を鳴らすイルカの鼻先を摘んだ。
「…んむっ」
「ねぇ、今直ぐ起きなきゃ知らないよ」
「ん……」
 涙が残る頬を軽く叩いて、一向に目を覚ます気配のないイルカに小さくため息をついた。
「…仕方ないねぇ」
 誰が聞いているわけでもないのに言い訳を口にして。
 力が抜けた不安定な身体を抱きかかえると、カカシは素早く印を結んだ。


*****


 良い匂いだねと声がする。
 耳元で響く少し低めの甘い声に、とくりと小さく鼓動が跳ねた。
「……ん…っ…」
 微睡みの中身動きすれば、大きな手が背中を撫ぜる。
 頬や額、そして鼻先に優しく触れるのは唇だろうか? 首筋や鎖骨にちゅっと音をたてて何度も吸い付かれ、擽ったさに身を竦ませる。撫で付けるように指先が髪を梳き、鼻先を埋めて匂いを嗅がれるとゾクゾクとした疼きが背筋を走り抜けた。
「ふふっ」
 穏やかな笑い声と同時に温かな胸に引き寄せられれば、優しい匂いに包まれる。
 安らぎを与える匂いを胸いっぱいに吸い込みながら再び深い眠りに落ちようとした時。
 明らかな他人の気配にふと違和感を覚えた。
 寝ぼけ眼のまま手探りで布団を引き寄せその手触りを確かめる。自宅のものとは全く違う肌触りの良いシーツに、身体が浮いているかのようなマットレス。だいたいイルカの家の寝具はベッドではなく、何年も使い倒して石のように固くなった煎餅布団である。
「…ん?」
 あまりに違いに夢現を彷徨っていた頭が、一気に現実へと覚醒した。
 布団をまくりあげるようにして飛び起きれば、視界が捉えたのは白皙の美貌。銀髪でなければきっと誰だかわからなかったであろうその人は、寝ぼけ眼のまま狼狽えまくるイルカを面白そうに見やりながら破顔した。
「おはようございます」
「お、おはようございますっ…って、おれ、なんでここに…っ」
 パニックというのはこういうことを言うのだろうか。
 自分の置かれた位置が理解できなくて、オロオロと視線を彷徨わせた。
「あの…昨日は……」
 カカシに連れられて行った居酒屋で、勧められるままたらふく酒を呑んでいた記憶はある。けれどそこから先が……。
 ―――思い出せない。
 サーッと血の気が下がる音がした。
 それに。
「――な、な、なんで俺、裸なんですかっ!!」 
 更に衝撃的な事実に、一気に身体中の血液が逆流する。
 女でもないくせに、なにを言っているのかと笑われてもかまわない。
 目覚めてみればベッドの上で、あろうことか見合い相手である上官の腕の中。しっかり着込んでいたはずのベストはおろか、忍服まで剥ぎ取られているとあれば気が動転してもおかしくないだろう。
 とにかくこの状況を理解することが出来なくて、全裸に剥かれた身体を隠すべく布団をひっつかんだ。
 何があったかなんて恐ろしすぎて聞きたくないと、布団の中で蹲ったまま青ざめる。
「あぁ。それは昨日先生が呑みすぎてちょっと、ね」
 青くなったり赤くなったり一人で百面相している様子が面白くて、思わず誂ってしまった。
 案の定勘違いしたイルカがわなわなと唇を震わせて、くるまった布団の中で小さくなった。
「あぁぁぁっ! 俺って奴は・・・」
 上官の服まで汚しちまうなんてと、消え入りそうな声に思わず吹き出してしまいそうになる。
 だけどあんまりにも恐縮する姿に冗談ですよと告げようとした瞬間、ガバリと布団から飛び出したイルカが頭を下げた。
「申し訳ありませんっ!!」
「え、いや…」
「呑みすぎたとはいえ、カカシさんにはご迷惑をおかけして…道端に捨てて帰られても文句は言えねぇってのに……」
 自宅にまで泊めてもらい、あまつさえ……。
 あまつさえ?
「………」
 恐る恐る瞳だけを動かして確認してみれば、隣でニヤつきながら寝そべっているカカシも半裸である。
 ドカン。頭の何処かで何かが爆発するような音が聞こえた気がした。
 カカシは里が誇る上忍で、類まれなる忍びの才能をほしいままにするアルファだ。くノ一が選ぶ「抱かれたい男」トップ3には必ずといっていいほど名を連ねる男が、こんな冴えない中忍、しかも同性のオメガと同衾だなんて。
 なんてこった。
 イルカがオメガである以上、カカシに懸想するくノ一達に知られたら命が危ういかもしれない。
 背筋を走る冷たい汗に、ベッドの上で額をシーツに擦り付けたままゴクリと喉を鳴らした。
「………」
 なんだか面白い展開になってきたと、気が動転しているイルカの様子にカカシは笑いを噛み殺した。
 酔っ払った相手を手篭めにするほどそっち方面に苦労しているわけでもないが、興味本位で全裸に剥いた事実は横に置いて、カカシはニンマリと唇の端を吊り上げた。
 何か勘違いをしているのかもしれないが、わざわざ訂正してやる義理もない。
 そう決めて、いまだ頭を下げ続けているイルカの黒髪に指先を絡めた。
 先程から観察していたが、心配していた二日酔いもどうやらなさそうだ。酒に強いというのは本当なのだろう。
 それならば。
「身体の具合はどうですか?」
「…え……」
「一応身体は拭いておいたけど、気持ち悪かったり…辛くない?」 
 性的な匂いを漂わせる聞き方は流石に悪どいな、なんて思いながらも気遣う振りで声をかける。案の定、ゆっくりと顔を上げたイルカの頬が徐々に赤くなるのにほくそ笑んだ。
 耳までも真っ赤に染めて、あわあわと唇を震わせ布団でなんとか裸体を隠そうとする姿のなんと可愛いことか。
 豊満な身体を見せつけながら媚を売る女達としか関係を持ったことがなかったカカシには新鮮だった。
「え――…っと…」
 イルカと言えば、今までそんな経験はないものの同性同士のそう言った知識は下忍になる前に一応は学んでいる。後ろに違和感は感じないし、流石にあんなところに突っ込まれたら泥酔していたとしても気づくだろう。
 というか、気づかないなんてことあるんだろうか。
「…あの」
 不安になって目の前のカカシを見やれば、とんでもなく整った素顔に慌てて視線を逸した。こんな綺麗な顔をした人に、「俺たち昨夜やっちまったんですかね?」なんてゲスいこと、聞けるわけないじゃないか。
「だ…、だいじょうぶ…かと…」
「そ」
 良かった。なんて優しく微笑めば、世も末とばかりに唇を噛み締めてイルカが泣き出しそうな顔をする。
 可愛いなんてもんじゃない。今直ぐにだって本気で組み敷きたいぐらいだ。
「取り敢えずそのままじゃアレなんで、オレの支給服を貸しますよ」
「あぁぁ…、何から何まで世話になっちまって…すみません」
 しょげかえるイルカが心底申し訳なさそうに口にするのに、笑いを堪えるほうが必死だ。
 口布があればこんなに我慢しなくても良いのにと思いながらも、今は素顔を見せる方が得策に思えた。
 だってほら。
 チラリとイルカが目線だけで盗み見しているのがわかる。自分の容姿なんて頓着したことはないけれど、使える駒なら使わなきゃ損でしょ。
「なに?」
 出せる限りの甘い声でそう尋ねると、赤面したままのイルカの身体からまたフワリと甘い香りが立ち上った気がした。


*****


「ウ、ギャーッ!!」
 取り敢えずシャワーでも浴びておいでと浴室に放り込まれ、鏡に映った自分の姿に仰天して叫んだ。
「イルカ先生? どうかしましたか?」
「いいいいえっ、なななんでもありませんっ!」
 扉を開かれそうになって、大慌てでドアノブを掴んだ。
「……そ?」
「ははははいっ! 大丈夫ですので、どうぞお構いなくっ!」
 同性同士でしかも既に全裸を見られてしまっているのだから、今更恥ずかしいもクソもないのだが、どうも気恥ずかしさが先に立って仕方ない。
「それなら良いけど。タオルと着替え、ここに置いておきますね」
「あ、ありがとうございますっ」
「いーえ、ごゆっくり」
 笑い声を含んだ声が遠ざかるのを待って、再び鏡の中を覗き込んだ。
 首筋から鎖骨にかけて、所々に散りばめられた紅い痣。
 この歳で虫刺されだなんて初なことを言うつもりはないが、明確な意図を持ってなされた所業に、首筋を掌で覆い隠してしゃがみこんだ。
 曖昧だが記憶が無いわけじゃない。肌の上を辿る唇と舌の感触と息遣い。チクリとした刺激はこの鬱血の痕が証明してる。
 冗談でもなんでもなく、本当に吸われたのだ。
 はたけカカシに―――。
「………」
 思い出すだけでカーッと赤くなる頬を掌で仰いで、大きく首を振った。 
 誂われたのだとはわかっているが、それにしては髪に触れた指先や微笑み、労る声が優しかった。
 まぁ、もともと優しい人なんだってわかってるんだけど。
 教え子たちの中忍試験で言い争いをした事を除けば、カカシはどの上忍よりも腰が低く、下の者にも丁寧で親切だった。
 鏡に映る自分の姿を見つめ、薄っすらと色を変えた場所を指先でなぞれば、目覚めた時のカカシの素顔を思い出す。
 あの顔が、唇が、ここに埋まったのだと思うとゾクリとした。
「―――………うそだろ…!」
 腰に熱が溜まる感覚に、勢い良くシャワーのコックを捻る。
 仮にも上官の家の浴室で自らを慰めるなんて出来るわけがない。ゆるく勃ち上がりかけたものを戒めるべく、全身を冷たい水に晒した。
 漸くのことで浴室から出れば、部屋中に漂う旨そうな匂いに思わず鼻がひくひくと動いた。ついで鳴る腹の虫に、台所に居たカカシが破顔する。
「さっぱりしましたか?」
「…は、はい。ありがとうございます」
 さっぱりというか、水行かと思うくらい水を被りすぎて指の先が氷のようだ。
「飯の支度出来ているから、良かったら食べていって」
「へっ!? …い、いえ、そんな…っ! 泊めて頂いて飯までなんて…」
「良いじゃない。一人で食べるのってなんだか味気ないでしょ。折角作ったんだし一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」
 こう言えば人のいいイルカが断ることなんて出来ないことを知ってて口にする。
 カカシの想像通り、キョロキョロと視線をさまよわせたイルカが恐縮しきったようすでそれならばと頷いた。
「流石に朝から酒ってわけにもいかないからお茶でいい? あまり里に長居することもないから食事もたいしたものは作れていないんだけどね」
「あ、はいっ! お茶なんて気を使って貰わなくても水でっ」
「ふふっ。まぁそんなに畏まらないでください。そこ座って」
 椅子を引かれ強引に座らされると、テーブルに並べられた食事に眼を見開いた。
「これ全部カカシさんが…?」
「ん―、まぁ適当に。イルカ先生の口に合えば良いんだけど」
 子供の頃から戦場育ちだ。
 父親も戦忍だったため、なんでも幼い頃から一人で出来るよう仕込まれている。特に料理は生きることに繋がるからとみっちり教え込まれていて、加えてカカシ自身も凝り性なものだから、料理の腕前はそこら辺のくノ一より上手いと評判だった。
「米も炊きたてだ―よ」
「いただきます」
 焼き魚に玉子焼き、温かな湯気をたてているのは茄子の味噌汁だ。付け合せのほうれん草の胡麻和えは出汁醤油の旨味が染みだして幸せな気持ちになった。
 それに、このご飯といったらどうだろう。一つ一つ米が立っていて、噛みしめる度に甘みが広がる。
「旨い…」
「良かった。おかわりどうぞ」
「はいっ! あ、いえ……」
「遠慮しないで。沢山炊いたから残ると困るんで」
「じゃあ、遠慮なく」
「どんどん食べてね」
 笑いながらそう言ったカカシへ茶碗を渡す時、ほんの少しだけ指先が触れた。
 あ、という言葉と同時に視線を上げれば、見つめる瞳に射すくめられて唇を開いたまま動けなくなった。
 触れた部分から熱が伝わって来る気がする。
 ドキドキと脈打つ心臓の音が聞こえた気がして、とっさに茶碗から手を引いた。
「わっ!!」
「っと危ない」
 イルカがそうするとわかっていたのだろうか。テーブルに直撃する前にカカシが素早い動作で茶碗をキャッチすると、何事もなかったかのようにイルカの手をとる。
 ぎゅっと握られる掌に、しらず喉が鳴った。
「はい。落とさないでね」
「………すみません」
 いいえと笑うカカシの素顔を見てられない。
 色気のある目元やスッと通った鼻筋。薄い唇の傍にはほくろ。左頬を縦に走る傷跡さえその風貌を害うことはない。
 普段は額当てや口布で隠されているその素顔はびっくりするほど整っていて、顔が良いらしいという話は風の噂に聞いてはいたものの、実際のところイルカはこれほどまでとは思っていなかった。
 天は人に二物を与えずなんて言うけれど、里が誇る優秀な忍で、料理も上手くて顔も良いだなんて、忍びの神はこの男にどれだけの物を与えたというのだろう。
 そんな男がこんな中途半端なオメガの番候補だなんて、どう考えたって釣り合わないに決まっているじゃないか。
 俯いたままヤケクソで米を口に運びながらぐるぐるとそんなことを考えていたら、自分が未成熟であることがたまらなく恥ずかしくなった。
「そんなに慌てて食べなくても」
 口の中に詰め込んだ米を無理やり喉の奥へと流し込むと、さり気なく湯呑みにお茶が注がれる。
 上忍なのに、こんなところまで気配り出来るなんて、本当にどれだけ出来た人なんだよ。
 昨日は酔っ払って話をすることはできなかったけれど、見合い話が次に進む前にちゃんと話し合うべきだ。イルカは頬杖をついてこちらを見ているカカシに向き合った。
「あの…見合いの話なんですけど」
「なに?」
「――できればカカシさんの方から断ってはいただけませんかっ!?」
「…どうして?」
「ど、どうしてっていわれましても…」
「オレはイルカ先生と番になってもかまわないと思っていますよ。先生はオレが相手じゃ不満ですか?」
「そういうわけでは…」
 寧ろ勿体無い。
 カカシならどんなオメガだって選びたい放題だろうに、なんでこんな冴えない同性の中忍で手を打とうとしているのか、逆にこちらが聞きたいぐらいだ。
「理由を聞かせて」
 純粋にそう問われて言葉に詰まった。本当ならこんなデリケートな話、口にするのも嫌なのだが、里の決定に逆らう以上ここでカカシを納得させられなければその後に控えるお歴々の面々を説得することも、見合い話を反故にすることも出来ないだろう。覚悟を決めて小さく息を吐いた。
「実は俺、まだちゃんとしたヒートを迎えたことがなくて…」
「…どういうこと?」
 カカシの訝しむ表情に、決めた覚悟も萎んでしまいそうだ。
「子供の頃に一度発情したきりで、つ、つまりそのオメガとしては」
「未成熟…」
 この年齢で定期的な発情期を迎えていないオメガなど探すほうが難しい。
 カカシが眉をひそめるのも当然のことだ。
「えぇ。だからいつ成熟するかわからんオメガとなんて番っても、里の意思には添えねぇし…」
「子供の事なら無理にとは言いません」
「へっ?」
 ポツリと呟いたカカシの言葉に眼を見開いた。
「大事なのは先生の気持ちでしょ」
「でもカカシさんには俺なんかよりもちゃんとしたその…優秀なオメガと…いや、オメガに優秀って…何言ってんだ…ッ」
「イルカ先生だって優秀じゃない。なんてったってナルトたちを教育したんだし」
 愛すべき元生徒たちの名前を出されれば思わず頬も緩んでしまうのだけど、それとこれとは別だと頭を振った。
 頑ななイルカの様子に、カカシが訝しんで首を傾げる。
「何かトラウマでもあるんですか?」
「トラウマというか…。あ、そういや子供の頃一度アルファに襲われかけたことがありました」
「襲われた?」
 ピクリと跳ね上がった眉と殺気に慌てて両手を左右に振った。
「いや、襲われたって言っても未遂、未遂ですっ!」
 九尾の事件の後、イルカの身体と精神は環境の変化に上手くついていけず、随分と不安定になった。
 今思えば成長過程でホルモンバランスが乱れていたことも原因の一つなのだろう。
 両親を一度に失ったせいでヒートについて何の知識ももたなかったイルカは、予告なく訪れた早すぎる発情に戸惑い恐怖し、混乱して森の中へと逃げ込んだのだ。
 まさかその森に、里へ帰還途中だったアルファが居るなど想像すらしていなかった。
 もしもあの時三代目に助けられなかったらと思うと、今でも背筋が寒くなる。
 しかし、未遂とはいえ襲われた恐怖を忘れることは出来ない。成人した今でもアルファへの苦手意識は消えることなく、そういえばあれから薬が手放せなくなった。
「そうだっ! 薬…っ!!」
「どこか悪いところでも?」
「いえ、ホルモン剤なんで毎日飲まなきゃなんなくて…えーっと、俺のベストは……」
「寝室にかけてありますよ」
「ありがとうございます」
「ねぇ、イルカ先生」
 バタバタと寝室へ移動するイルカの背中にカカシが声をかける。
「――その薬をやめたら、あなたは発情するの?」
 どうなのだろう。子供の頃、三代目直属の医療忍から処方されたこの薬は、ホルモンを抑制するものらしいということしか説明をされていない。
「たぶん…そうなのかな…?」
 どちらにせよ薬を手放すことは無いのだから、イルカに発情期が訪れることなどないだろう。
 問われた意図を読み取ることもせずに答えれば、カカシがゆっくりとこちらに近づいてくるのが視界の端に見えた。
「じゃあ、ね」
 ポケットを探るイルカの手を取って、里一番の上忍が掠れた声で囁く。
「イルカ先生が、その薬を手放せるようになるまで待ちますから」
「――…カカシさん…?」
 その声があまりにも縋るような響きを帯びているように感じたから、ぎゅうと抱きしめられても直立不動のまま動くことができなかった。
 まるで口付けでもされるのかと勘違いするほどに頬を寄せられて、カカシの薄い唇が「だから」と言葉を紡ぐのに眼を見開く。

 番になりましょう―――と。

 耳元で告げられた甘美な囁きに、イルカは首を左右に振ることができなかった。
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1頁目

【恋は銀色の翼にのりて】
恋は銀色の翼にのりて
恋の妙薬
とある晴れた日に

【Home Sweet Home】
Home Sweet Home
もう一度あなたと恋を
夜に引き裂かれても

2頁目

【幼馴染】
幼馴染
戦場に舞う花

【白銀の月よ】
白銀の月よ
愛しい緑の木陰よ
それゆけ!湯けむり木の葉会

あなたの愛になりたい

3頁目

【その他】
Beloved One(オメガバース)
ひとりにしないで(オメガバース)
緋色の守護者(ファンタジー)
闇を駆け抜ける力(人外)
特別な愛の歌(ヤマイル風カカイル)
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